2010年5月17日月曜日

【第五章 多文化主義から見た自由主義の問題点】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立

Ⅴ 多文化主義から見た自由主義の問題点

自由主義にも問題がある

自由主義は、Ⅰ章で述べたように私たちが身を置く近代社会の前提となる重要な思想である。そう考えると、その枠組みを否定しかねない多文化主義は、一種の危険思想にすら見えてくる。しかし、そう断定するだけではいささか単純すぎる。多文化主義が誕生し、滅んでいないのにはそれなりの理由がある。自由主義にも問題があるのだ。

個人による差別

自由主義は、致命的な限界を抱えている。それは、法的な差別、国家による差別をなくすことはできても、権力の干渉を受けない「自由な個人」が行う差別を解決できないことだ。Ⅰ章におけるディズニーやレストランの例を思い出していただきたい。自由主義は、国家権力の干渉から個人を守る思想である。個人が商売をする相手に誰を選ぶか、自分が経営する学校や企業に誰を受け入れるかは、国家権力が決める問題ではない。人々がそういった問題で意思を決める背景には、人種差別があるかもしれないのは想像に難くない。ところが、それに対しては、自由主義は為す術がない。なぜなら、個人がどういう考えを抱いて生きるかは、国家権力が踏み入れるべき領域ではないのだ。私たちには良心の自由がある。個人がどのような思想・世界観を持とうと国家権力とは関係ないのだ。自由主義社会に思想警察は存在しない。もちろん、ある行動が法律を侵害した場合には罰則を受ける。しかし、たとえば筆者が誰かを殺そうと頭の中だけで考え、具体的な行動には一切出なかったとしたら、それは犯罪ではない。

しかし、そもそもなぜ多文化主義が登場したのか? 大きな理由の一つが、差別の解消だった。アメリカは、黒人たちに対して奴隷制を敷き、それが終わったあとも彼らを法的に隔離してきた。その歴史を垣間見るに、法的な保護が平等になった途端「平等な社会」が現れ、アメリカが抱えていたすべての差別が解消したと考えるのはどんなロマンティストにとっても難しい。しかし、自由主義においては、「平等な社会」は権利が平等な社会でしかあり得ない。世の中に厳然として存在する差別に対し、権利の平等以上の指針を指し示すことはできないのだ。実際、アメリカの保守たちは、差別問題になると概して口が重い。彼らがアメリカ社会の差別について問われた際、返す答えの典型がこれである:「たしかに人種間の関係はまだ完璧とは言えないかも知れない。しかし、もう差別は終わった。過去のことばかりにこだわるのは止めよう!」。これはどう贔屓目に見ても詭弁だが、ある意味仕方ない。なぜなら、保守主義が拠って立つ自由主義の枠組みでは、たしかに差別は「終わった」のだ。

政治学者のトーマス・パワーズは、「自由主義の変遷、1964年から2001年(”The Transformation of Liberalism, 1964 to 2001”)」という論文で、アメリカの政治的論争を、反差別と自由主義との対立という視点から解読した(*107)。ここではこの論文を読み解くことで、多文化主義を含む政府による差別撤廃措置が明らかにした自由主義の限界を浮き彫りにしたい。パワーズによると、アメリカ政府による反差別政策は、自由主義的枠組みの弱点の暴露であった。アメリカの自由主義は、個人による差別を政府の関心事から外すことで、白人による黒人への人種差別を放置した。

*107 Powers

一般的に、1964年の公民権法は、自由主義思想の結実だとされることが多い。果たしてそうだろうか? パワーズによると違う。この法律は、Ⅱ章で述べたように、民間による差別を禁止する効果を持っている。それが、多文化主義の実践が公共部門だけでなく民間部門でも大いに発達することを可能にした。パワーズによると、公民権法は、自由主義の論理的帰結ではなく、むしろ限界の暴露だった。公民権法以前にアメリカを支配していたのは、公的空間における差別の禁止という自由主義の哲学だった。ところが、これでは私空間での差別をなくすことはできなかった。さらに、特に南部においては公的空間での平等すら達成することができなかった。これは、「自由主義の限界を越えた政策のみがアメリカにおける人種差別の問題を解決し得る(*108)」ことを明らかにした。自由主義の理論では、政府は、人々がどう生きるべきか、どういう考えを持つべきかには関知しない。しかしそれでは不十分なのだ。差別をなくすために、民間における人々の内面に踏み込んだ政策が必要になったのだ。そして、私的空間での差別をなくすための重要な手段が多文化教育である。多文化教育は、差別のない社会の構成員を作るために必要な道徳を教える。

*108 同上

パワーズによると、リベラル・デモクラシーには、3種類の基本的な権利と自由がある。一つ目は、基本的な社会契約権。これは、たとえば法の支配や投票権を保障する。二つ目は、良心の自由。これについては前述した。三つ目は、市場における自由。これが、所有を基礎にした自由な契約を可能にする。政府による反差別措置は、二つ目と三つ目の自由に足を踏み入れている。人々の差別意識を変えるための施策を含むため、良心の自由と矛盾する。雇用をはじめとする私企業による決断を規定するため、市場における自由とも相容れない。反差別は自由主義の枠組みに対する、「真に革命的な異議申し立て(*109)」なのである。それは公民権法の成立とその後の反差別措置によって、既に部分的に実を結んでいる。もし自由主義の差別への取り組みが完璧であれば、そもそも多文化主義は出現しなかったはずだ。多文化主義は、自由主義が自ら招いた思想なのである(*110)。

*109 同上
*110 なお、現代アメリカの人種差別については、参考文献に挙げた矢部の本が参考になる。ジャーナリスティックな本である。

理論と現実

自由主義は、理論と現実の乖離という問題も抱えている。自由主義は個人を社会の単位ととらえた。だが、それは実際の社会とどれだけ合致するのだろうか? 自由主義によると、平等な権利を持った個人が、自由に経済活動を行うことで社会を繁栄させる。しかし、これは社会がこうあるべきだというモデルに過ぎない。アメリカの建国理念である自由主義は、現実の説明ではなく、理想論だったのだ。

キャロライン・マレイとJ・オウェンズ・スミスによると、アメリカで白人男性は特権的な地位を持ってきた。ただその自覚がないだけなのだ。一般的に言って、不平等とは、それによって不利な立場にいる人の方が、利益を得ている人よりもその存在に気付きやすいのだ。たとえば、白人男性は人口の39.3%に過ぎない (*111)が、フォーブス400(フォーブス誌による最も裕福なアメリカ人400人の番付)の82.5%、議会の77%、州知事の92%、大学の教授会で身分保障のある人たちの70%、テレビの報道番組ディレクターの77%を占めている。

*111 この数値は1995年出版の本による。

マレイらによれば、歴史を振り返っても、白人の特権は明らかだ。彼らは土地所有を、投票権を得るための条件とした。土地所有は、17世紀には白人のプロテスタンティズムと密接に結びついた行動だった。また、白人たちは自分たちの優位を保つため、自分たち以外の人種に、法律によって土地所有を制限した。19世紀初頭に、共有地供与法(Land Grant Act)が成立した。これは、アメリカ中西部において、土地所有を白人に限定するための法律だった。この地域は黒人の定住を防ぐことに熱心だった。インディアナ州、イリノイ州、オレゴン州に至っては、自分たちの領域内に黒人が入ることを禁止する法律を作った。黒人が土地を持てないようにする施策は、1860年代から70年代まで続いた。たとえば1862年の自作農場法(Homestead Act)は、白人男性たちに安価もしくは無料で160エーカーの土地を与えた。黒人たちは同じ恩恵を受けることを許されなかった。また、土地所有をめぐる被害者は黒人たちだけではない。1880年以前は、渡米してくる移民は土地を与えられていた。しかし、1880年から1910年の時期に入ってきた、ロシア系ユダヤ人移民、イタリア人移民は土地をまったくもらうことができなかった。その時期には、アメリカ政府が開発すべき土地を用意していなかったのだ。これが原因で、彼らはスラムを作って生きるしかなかった。この状況は、1935年の全国労働関係法(National Labor Relations Act)によってはじめて解決された(*112)。

*112 Murray and Smith

理想

所有とは自由主義社会、資本主義社会において個人が自由に経済活動を行うための基礎だった。前提だった。しかし、白人たち以外には、それが制限されていたのだ。アメリカは1776年に自由と平等を掲げて建国されたはずだが、それは紙の上の理念であり、実際に実現化されていたわけではなかった。これは、アメリカ第3代大統領で、自由主義的な「建国の父(founding fathers)」の一人に数えられるアブラハム・リンカンも承知していた。リンカンは1858年のスティーブン・ダグラスとの討論でこう述べた。
私は、あの有名な文書(独立宣言)の著者たちが(平等であるべき対象として)すべての人間を考えていたと思うが、それはあらゆる面におけるあらゆる人間の平等を意味していたわけではない。彼らはすべての人々が肌の色、体の大きさ、知性、道徳的発達、社会的な素質において平等だと言いたかったわけではない。彼らは相当な明確さをもって、すべての人間が平等に作られたという表現の意味を定義した。それは、生命、自由、幸福の追求を含んだ、特定の奪うことのできない権利を持っているという意味での平等だった。彼らは、当時実際にすべての人間がその平等を享受していた、もしくは自分たちが即座にその平等を人々に与えようとしている、という明らかな嘘を述べるつもりはなかったのだ。・・・彼らは、そのような権利の存在を宣言することで、状況の許す限りの早さで、その実現が続くことを意図したのだ(*113)。
*113 “Seventh Debate,” National Park Service. http://www.nps.gov/liho/debate7.htm

つまり、リンカンによると、独立宣言は当時の社会状況を説明したわけではなく、「そうなるべきだ」という理念の宣言だったのである。しかし、その理想が実現していない間には、自由主義が掲げる平等な権利を得ることができないでいる人々が、現実問題として存在するのだ。実際に社会的差別に苦しんでいる人々に、「いずれそれは解消される」と言ってもあまり生産性はない。

自由主義とキリスト教

自由主義はキリスト教と密接なつながりを持っている。たとえば、なぜ個人が平等だという主張を導き出すことができるのか? それは一つの絶対的な存在である神が存在するからだ。ロックの自由主義においては神が不可欠なのだ。たとえば、宗教的寛容に関して書かれたロックのA Letter Concerning Toleration(『寛容についての手紙』)の主題は、基本的にキリスト教徒同士の宗教的寛容に限定されており、無神論者は寛容されるべき対象に含まれていない(*114)。名前に「主義」と入っている時点で既に自明のことではあるが、自由主義は価値中立的ではない。ある価値観の発露なのだ。たとえば、自由主義には政教分離という原則があるが、これはイスラム教にそのまま適用することができない。小室が指摘するに、イスラム教の考え方においては神との契約、宗教戒律、社会規範、国の法律が一致する(*115)。イスラム国家においては欧米型自由主義社会のように「公」と「私」を区別することが不可能だ。よって、政教分離という考え方とは馴染まない。フクヤマがⅠ章で引用したようにイランに宗教の自由がないと述べたのはそういう意味だ。自由主義の視点から見ると、政治と宗教ははっきりと分かれているべきだ。宗教が政治に反映されると、個人が自由に信仰を持てなくなるからだ。だが、その前提をイスラム教は共有しない。テイラーが言うように、イスラム教の社会像と相容れない自由主義は、「すべての文化が共存できる集会場ではなく、ある範囲の文化による政治的な表現であり、ほかの範囲(に属する文化)とはまったく共存できない(*116)」のだ。

*114 Locke, A Letter Concerning Toleration
*115 小室、『日本人のためのイスラム原論』
*116 Taylor, 62

自由主義は公的空間と私的空間を厳密に区別するが、その実効性は疑わしい。自由主義的視点から見ると、この章で紹介した土地所有の制限は、公権力による差別だった。リンカンが言及した平等とは、権利の平等だったが、これも基本的には権力による差別をなくせば実現できるものである。しかし、これは間違った前提に立っている。それは、個人による差別と法律による差別の明確な峻別だ。つまり、国家権力が差別を行った場合、それは純粋に国家権力による差別として認識され、その背景にあるかもしれない個人の差別という視点が抜け落ちている。自由主義は政府を、大衆からまったく独立して悪を為すことができる存在として捉えている。しかし、政府は単なる「権力装置」やモンスターではない。社会を縛る法律(実定法)を決めて運用するのは人間である。

自由主義が掲げる自由、平等といった概念はいかにも不可侵に見えるが、そのほころびは既に公民権法を発端とする政府による反差別措置によって明らかになった。また、自由主義は現実の説明ではなく理想の表明であり、今現に起きている差別に有効な対処をできない。最後に、キリスト教に基づいておりすべての文化と共存できるわけではない。