2011年1月16日日曜日

大学時代までJEANS MATEで服を買っていた俺が、ヨウジとギャルソンを愛好するようになるまで。(7)

ヨウジの服は、俺にとって、不思議な魅力がある。

もちろんギャルソンにもそういう魅力はあるんだけど、最近思う。ヨウジは特別なんだよね。

俺にとって、ギャルソンとヨウジの一番の違い。

ギャルソンの服は、何年かたつと古くなる。

今まで買ってきたジュンヤの服は、次々にヤフー・オークションに出品している。デザインは今見ても素晴らしいんだけど、これからも継続的に使う気がしないんだ。この言い方で合ってるか分からないんだけど、賞味期限が切れた感じがする、っていうか。新しいのが欲しいなあと思う。

ちなみにこの一連の記事に何度か登場するプリュス信者の友人も、プリュスの服はシーズンが終わるとヤフオクにバンバン流している。

俺も彼も、最初からオークションに出すつもりで買っているわけではない。でも、大変残念なことに、俺やメンターにとってギャルソンのコレクション・ラインの服の多くは、高いからといって「一生モノ」にはならなかった。「一生モノ」が欲しいなら、別のブランドを探した方がいいと思う。

ところが、ヨウジの服は、数年後でも古さを感じない。

すごいんだ。2007年に買ったセットアップも、昨日買ったかのような気持ちで着ることができる。逆に、昨日買ったセットアップも(いや、昨日は買ってないけど)、数年前から着ているかのような安心感を与えてくれる。今シーズン欲しいと思うのがなければ、以前のシーズンに買ったやつを着ればいいと思える。何なんだろう、これは。

ヨウジの服を着ると、安心感、孤独感、リラックス感、緊張感といった相反する感情をすべて包み込んだような、何とも言えない気持ちになる。



世の中の大抵の服は、「誰かになるため」にデザインされているような気がする。そしてそれはファッションに興味を持つ人たちの多くが求めていることだ。たとえば、誰かがテレビで着ていたから。雑誌で推されていたから。そんな理由でブランドや服を選ぶ人たちが、世の中にはいる。

コルソコモ(ギャルソンの路面店)でも店員さんが、「雑誌に載っちゃったみたいで、入荷時期の問い合わせが殺到してるんです」と苦笑していたことがあった。そして、ふたを開けてみれば雑誌に載った服は入荷と同時に完売し、同時に入荷した、ほぼ同じだが若干形が違う服は数日たっても残っていた。

ヨウジでは、そういう話は聞かない。大体、前の記事で書いたように、全身で揃える以外の選択肢をとるのがとても難しいブランドだから、「雑誌で見た『今イケてるジャケット』を手持ちの服と上手に合わせてみた、そんなおしゃれな俺」を演じるには不向きだ。

ヨウジを着ると俺は、他のどの服を着ているときよりも、「自分になった」ような気がする。それが上に書いた「安心感、孤独感、リラックス感、緊張感」につながるんだと思う。自分であるってことは、芸能人の誰かになったという妄想の、一時的な夢心地とは違うからね。

俺の押入れにかかっているヨウジの服は、自分だけの服であって、自分が一番上手く着こなせる。というか、自分にしか着こなせない。俺とまったく同じ服を持っているヨウジ・ファンも、実は一人一人がそう思っているんじゃないかと思う。

服って結局、何を着るかじゃなくて、誰が着るか、なんだ。同じ服でも、着る人が変われば、まったく違う見え方をする。で、その「誰が着るか」の意味するところは、要は、顔と体型、なんだよな。

ユニクロの店頭で、モデルが着用している写真がでかでかと貼られていることがあるじゃん。あれを見ると俺は、「ほらこんなにかっこいいでしょう。※ただしイケメン(美女)にかぎる」というメッセージを読み取るね。だってどう見たって、その写真の側で週末特価のシャツを血眼で漁っている中年会社員が同じ服を着たって、同じようにはいかないぜ。

でも、ヨウジの場合は、必ずしもそうではないんじゃないかと思う。もちろん、ショーではモデルが着ているし、「じゃあ、お前が同じ服を着たらモデルより似合ってるのかよ」なんて言われると困っちゃうんだけど、ヨウジを着こなせるかどうかは、外見もあるけど、何ていうのかな、キャラっていうか、内側から出てくる雰囲気が左右すると思うんだよね。だから、「自分」であることができるっていうか。

ギャルソンもそういうところがあるんだけど、ヨウジはイケメンさの度合いと似合う度合いが必ずしも比例しない。

それも、ヨウジ(そしてギャルソン)の面白さだ。

たまに思うんだけど、こんなブランドが、もしなくなってしまったらどうするんだろう。替わりがあるとは思えない。



今までの話から、俺のことをコレクション・ブランド至上主義者みたいに思ってるかもしれない。それはある意味間違ってないけど、ユニクロはユニクロで、素晴らしいと思っている。

俺にとってギャルソンやヨウジの服と、ユニクロの製品には、明確な役割分担がある。

仕事にはユニクロのシャツを着ている。俺の仕事は基本的に内勤で、外出するときはポール・スミスのシャツを着ることもあるが、基本、ユニクロで統一している。

部屋着もユニクロ率が高い。今だって、ユニクロのスウェット・パンツにユニクロのフリースを着てこの記事を部屋で書いている。

ユニクロの製品は、作業服や寝間着としてはまったく申し分がない。俺にとっては間違っても自分を語る服ではないし、服としての機能以外の何も与えてくれないが、逆にその徹底がいい。匿名性や消耗品としての有用度は抜群だ。ユニクロは、下手にファッショナブルであろうとしたら、価値を失うんだ。

ユニクロ(ファースト・リテイリング)自体もそれはよくわきまえているんじゃないか。彼らは決して、おしゃれさやデザインの先端性を自分たちの強みとして押し出してはいない。彼らの製品のよさは、安さを前提にした品質や機能だろう。それが「ユニクロを買っておけば損はしない。ユニクロを選ぶ私は賢明な消費者だ」という安心感を与えてくれる。たとえば、形態安定のシャツ。俺の友達が、同時期にブルックス・ブラザーズの1万円以上、ユニクロで2-3千円の形態安定シャツを買って、同じくらいの頻度で使い続けていたら、何と、ブルックス・ブラザーズのシャツの方が先に形態安定の機能がダメになったらしい。

ユニクロの優秀な工業製品は、何の独自性もなく川の上流から流れてくる流行の要素をつまみ食いした製品を企画して「最先端のおしゃれ」と称して売りさばく中途半端なブランドの存在意義に大きな疑問符を投げかけている。

俺の印象では、一般的に、男用の洋服には幼い服とおじさんぽい服が多く、どちらにも属さない服は少ない。ジュンヤの存在意義(あるいは支持されている理由)の一つとして、おじさんぽくなりがちなスタイルに甘さや遊びを加え、子供っぽさと親父くささの両方から距離を置いた服を出している点があるんじゃないかな。

ガキっぽさにせよおじさんぽさにせよ、「ある層にとっておしゃれな服を作る」「あるスタイルに沿った服を作る」という前提があるからそういうカラーが出てくる。ユニクロがすごいのはそういう色気を中途半端に出さず、「優れた工業製品」を作ることに特化している(ように見える)ことだ。

ヨウジとギャルソンは、素晴らしい。そして、ユニクロも、まったく別の尺度で、素晴らしい。その中間にあるブランドには、ほとんど興味がない。(続く)