2011年5月20日金曜日

SFCに行ってきた話と、その後考えたこと。

Twitterをやっていてよかったと思うことが、また一つ起きた。

尊敬する思想家の一人、岡田斗司夫さんが慶應義塾大学の講義にゲストで登場されることをタイムラインで知った。「潜り込みたいくらいだ」と何気なくつぶやいたら、思いがけないことに岡田斗司夫さんご本人が「潜り込んだらいいんじゃないですか?」と返信してくださったのだ。

2011年5月19日。

私は会社を休み、出身校である慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)に足を運んだ。

θ(シータ)館という数百人収容の大教室。学生の頃は一度も時間通りに出席したことがないかもしれない一限の講義を、最前列で、食い入るように聴き入った。岡田さんは講義の後も教室の外で学生との問答に対応してくださった。私は次の約束があったので問答の方は途中で抜けざるを得なかったが、30分くらいは参加することができた。

その講義と問答でとった7ページに渡るメモから、何点か特に印象に残った学びを挙げる。

  • 何かの悪いところを直そうとすると、その反対にあるよいところを壊してしまう。世に無駄はない。よいものも悪いものも、残っているということは何かの必然性がある。
  • 将来を「予測」「予想」しようとしてはいけない。「・・・はこうなる」というように末尾に「なる」が付くことはやっても無駄。「なる」は「する」に変換しないと無意味。「自分」が乗っからないとあらゆるアイデアは凡庸でつまらない。
  • キーワード(「要するに・・・」「一言で言って・・・」)はどうでもいい。思考のプロセスに面白みがある。
  • 現代は農業革命、産業革命に次ぐ情報革命の時代。ハイパー情報社会の本質は、一人が成功し数百万人が失業する社会。
  • 日本の論争は「合理性(最大多数の最大幸福)」と「自由と権利」の綱引きになりがちだが、第三の視点として「美徳(好き/嫌い、嫌、気持ち悪い、どのようにありたいか等々)」も必要。実は世の大半の人々は「美徳(好き/嫌い、嫌、気持ち悪い、どのようにありたいか等々)」を元に物事を判断している。
  • ビジネスの成功は偶然。成功法則はない。もしあるのなら、ダイアモンド社等の社員は皆金持ちになっているはず。でも成功本は個人が動く上では力になるから無意味ではない。J-POPの歌詞と同じ。

濃密で刺激的な学びに、脳が喜びの悲鳴をあげているような心地だった。こんな講義を受けられるだなんて、SFC生は何てぜいたくなんだろう。

でも、自分のことを省みると、大学一年生(「環境情報学の創造」という一年生の必修科目だった)のときに同じ話を聴いても今ほど強い刺激を受けて多くを学ぶことはできなかったかもしれない。だから本当にぜいたくだったのは、会社を休んでこんな素晴らしい講義を聴講させていただいた私だったのかもしれない。


次の約束というのが、ゼミ時代の教授との会食だった。

キャンパス内のレストランで、1時間半近くに渡って色々な話をさせていただいた。

先生とじっくりお話をさせていただく中で実感したのは、働き始めてからの6年間で自分がよくも悪くも変化しているということだ。なぜ自分の変化に気付いたかというと、先生とお話をしていて、学生時代には感じていなかった類の温度差を感じたからだ。

はっきりいうと、先生はどちらかというと私から「悪い」方向への変化を感じ取っている印象を受けた。

どうやら私は「企業の論理」に染まり、思考に深遠さを欠いているようなのだ。

たとえば、英語。日系企業の海外移転や雇用のグローバル化が進み、「日本=日本人、日本という土地」という前提がどんどん崩れている。私は、そういった実態における英語の重要性を学生に伝えるのが大事だと言った。なぜなら大半の学生は民間企業に就職するからだ。

でも先生からすると、いくらビジネスをする上で英語が求められていると言っても、その論理を教育に持ち込むのはあるまじきことだ。教育が「企業の論理」に染まり、多様性を欠くようになるのは大変危険なことなのだ。そして、本やセミナーからも学んでいるからといって、私が抱いている考えはあくまで経験談の域を出ないのだ。

先生からはこういうご助言をいただいた。ビジネスの「ハウツー本」もいいが、哲学書を読み、もっと深いところから物事を見るといいのではないか。学生の頃の様子を見るかぎり、あなたにはできるはずだ、と。

私と先生のどちらが正しいのかと問いたいわけではない。でも、何とも言えない温度差を感じた。

たしかに、痛いところを突かれた。自分でも自己啓発やビジネスに片寄った読書には飽きつつあり、最近では仕事に関係のない小説だったり学問の本も読み始めているところだ。でも、会社に入ってからの自分の思考活動からは、哲学的な深みが欠けていたのかもしれない。

会社に入ってからの私は、目の前の仕事に関わることばかり考えるあまり、思考が即物的な方向に片寄り、頭が劣化したのだろうか? そう思うと、目が回りそうだった。先生からは、会社で過ごしているだけでは見えなかった盲点を指摘していただいた気がした。

ただ、どうも引っかかる。

仮に「企業の論理」というものがあるとして、企業で働いているやつがその価値観を理解し、身に付けていたとしたらそれは恥ずべきことなんだろうか?

たとえば、「プロ・スポーツの論理」を身に付けていないプロの選手は成立するのだろうか? 仮にサッカーのW杯で一勝もできず帰国した選手たちが「負けたけどいい経験になりました」と言ったら、私たちの大多数は眉をひそめるだろう。なぜならプロ・スポーツにおいては勝つことが(唯一ではないにしても)正義だからだ。(※ちなみに、英和辞典を引いて知ったことだが、スポーツマンシップとは「勝ち負けにこだわらないこと」らしい。)

まあ、それはともかく。

自分の仕事をどうやって上手くやるか、仕事においてどうやって成長するかを日々考えてきた人が発する言葉は、浅いのだろうか? 哲学書による補助を得なければ意味を持たないのだろうか?

もっとはっきり言うと、個人的な経験から得られた知見は、他者に発するに値しないのだろうか?


むしろ、人が真に語れるのは突き詰めると自分の人生だけだ、とは言いすぎだろうか。

たしかに、個人の経験に基づくだけの言葉は一般性を欠くかもしれない。

でも誰一人として平均の人生を送っているわけではない。

ものすごーく単純化して話そう。世の中に、0という道と100という道があったとする。0か100のどちらかしか通れないとすると、世の中の道は平均して50だと言ってもまったく意味はない。それよりは、0もしくは100の片方だけでも、実感をもって理解することの方が大事だ。

上の例は極端かもしれない。でも、いくら「学術的」に、「科学的」に、「客観的」に論理を組み立てたとしても、それは私たちが自分で体験して得る実感と感情の力には敵わない。

学術畑の人間に言わせれば、逆かもしれない。つまり、いくら個人的な体験談を積み重ねたところで、それを理論化しなければまったく役に立ちませんよ、と。

しかし、学術の世界で大事とされることと、一人一人の人生で実際に大事なことは、どこまで一致するのか。たとえば、さまざまな成功者の知見をパターン化したところで、皆に適用する成功法則など編み出すことはできない。人生に取り扱い説明書は存在しない。

私は今までこのブログで、自分の人生を切り取って提示してきたつもりだ。旅行記、ファッション遍歴、英語学習記、私小説もどき、等。

どうやったら、自分にしか書けないことが書けるだろうか? 今の自分が書ける一番面白い文章とは? 数年後に自分で読み直したくなる文章とは? そういったことを常に頭に置いてきた。

そうすると、自ずと自分が経験してきたこと、好きなこと、真剣に考え続けてきたこと、実体験を通して学んだことの周辺に答えを見つけるようになった。

さて、いわゆる文系の学問に職業的に関わる人たちが文章を書く動機は、何なのだろうか?

「私は他の人よりも頭が良い」という個人的な陶酔、もしくは「私たち(知識人)は一般大衆よりも頭が良い」という集団的な陶酔が動機と関係してはいないだろうか? それが、「学術的」な立場からの「一般書」、「経験談」や「意見」に対する暗黙の優越感の温床となってはいないだろうか?

自分の人生を語るということは、常に自分のとってきた行動を踏まえて言葉を発するということだ。それを踏まえると、とてもではないが「私は頭が良い」なんていう自己陶酔に浸ることはできない。少なくとも私は。「あなたは何をやってきたのか」という問いは、頭が良さそうな文章を書くための大きな障壁なのだ。

もちろん、物事を自分に引き付けるあまり、短絡性と視野の狭さを招く危険はある。そこの兼ね合いをどうするのかは、先生に「哲学書を読め」と言われたように、自分の課題だ。でも、無傷のまま「頭の良い」発言をするよりは、自分の内面を晒して恥ずかしい思いをしてでも「面白い」文章を私は書きたいのだ。

ジョージ・オーウェル(George Orwell)の文章を最近読み始めた。今のところ"Animal Farm"と"Down and Out in Paris and London"の二冊を読了し、三冊目の評論集を読み始めたところだ。三冊すべてにおいてオーウェルは、自分自身がどんな育ちで、どんな経験を積んできた人間なのかということを細かく説明している。それこそが、書き手が発揮すべき誠実さだ。

タリブ・クワリ(Talib Kweli)は"Life is a beautiful struggle"(人生とは美しい苦闘である)と歌った。

私たち一人一人が涙を流し、怒り、笑い、諦め、苦しみ、悔やみ、学んできたこと以上に美しいことなんて、この世にあるわけがない。私は、いくら下手であろうとも、今後もそれを表現「する」んだ。

これから積む経験によって、自分の考えは変わっていくかもしれない。でも、現時点での想いとして、ここに記録しておきたい。