2010年5月12日水曜日

人間社会の差別と平等について思うこと(1) (2004年6月22日執筆)

●そもそも差別とは何か

「差別」と聞くと、誰でも悪いイメージを受けると思う。差別はよくないと言われて、または、差別をなくすべきだと言われて、真っ向から反論する人はいないだろう。反論したら、その人は相当な変人として扱われて、のけ者にされるだろう。差別がよくないという主張には、反論の余地がないように見える。

しかし、誰も反対できないような考えこそ、一度疑ってみる価値がある。思わぬ盲点が見つかるかもしれないからだ。

誤解しないで欲しい。別に俺は、差別はいいことだとか、差別に賛成だとか、そういう次元の話をしているんじゃない。考えているのは、もっと根本的なことだ。つまり、そもそも差別がいい・悪いの問題なのか?ということだ。

一見、悪いに決まってるように思える。差別と聞いて人々が思い起こすものと言えば、人種差別、性差別、宗教差別、学歴差別・・・。眉間にシワを寄せたくなるような言葉たちだ。それがいい・悪いの問題じゃないって? じゃあ何なんだ?

落ち着いて欲しい。俺がここで言ってる「差別」は、そういう特定の差別のことではない。人間社会における、差別一般のことだ。つまり、すべての形の差別だ。

それを説明するには、差別という言葉を広く包括する定義が必要だ。そこで、ここでは「人間社会における差別」をこう定義する。「ある人が、ある基準を元に人を評価し、序列を作り、それをもとに選別(選択/排除)を行い、それにしたがって異なった扱いを与えること」。

たとえば、人種差別なら、人種を基準にして人を見て、たとえば白人が上で黒人がそれより下だったら、白人であることを黒人であることより高く評価し、白人を優遇することだ。性差別なら、性別というフィルターを通して人を見て、たとえば男性が女性より上とみなして、男性を女性より有利に扱うことだ。つまり、差別とは、ある角度から人を切り取り、それを基準にして評価し、扱うことだ。

●「差別がない社会」はありえない

この定義にしたがって差別を見ると、差別をいいとか悪いとか言って、それで終わらせるのは、表面的であまり意味がないことが分かる。なぜなら、人間であるということは、差別をするということだからだ。差別をしなければ、人間ではない。人間社会そのものが、差別によって成り立っている。最近、これは、最近、俺が到達した確信だ。

逆を考えてみるといい。差別をしないとはどういうことか。それは、あなたが人を評価する基準を何も持たず、何の序列も作らず、扱いを変えないことだ。言い換えると、差別をしないとは、価値観を持たないことである。価値観を持たないことは、考えないことである。なぜなら、いかなる考えも、何らかの哲学(価値判断の最終的なよりどころ)がないと成立しないからだ。考えないということは、人間ではなくなるということである。

たしかに、女性への差別、黒人への差別といった、特定の差別は、時代とか社会によって度合いや内容が異なるし、減らすこともできるだろう。しかし、差別一般は、絶対になくすことはできない。もしかしたら、減らすことすらできないのかもしれない。

差別のない社会とは何だろうか。多くの人が考えるには、それは、人が、人種、性別、信条、肌の色、出身国といった要素に関係なく、平等に評価されることだろう。では、「平等」に評価する、とはどういう意味だろうか。それは、人を見る際に、個人の能力だけを判断材料にする、ということだ。就職活動をしているときにも何回か聞いたよ。たとえば外資系メーカーの説明会で人事担当者が「うちは性別・人種などに関係なく活躍できる場所です」なんて言ってたな。

しかし、仮にそんな会社があったとして、そこでは差別がないのだろうか? ここでいう差別の意味は前に定義してあることをお忘れなく。「差別のない」会社は、社員を能力にしたがって序列付け、それを元に異なった額の給料を与えるだろう。つまり、差別をなくしたい人々が目指す「差別のない」社会とは、冷酷な「能力差別社会」に他ならない。それが、差別をなくしたい(と思っている)人たちの理想の、論理的帰結である。

つまり、差別はなくなっていない。人種や性別による差別にかわって、能力による差別が登場したのである。社会に何らかの競争があるなら、何らかの序列をつけなくてはいけない。そのためには差別が必要なのだ。

ここで問題なのは、人種や性別をもとにした差別と、能力をもとにした差別がどれほど違うのか、という点である。これが決定的に重要である。つまり、能力差別を正当化できるだけの相違が、この両者にはあるのだろうか。

残念ながら、今の自分ではそれにはっきりとした答えを出すことはできない。でも、今の仮説的な考えを、思い込みや勘違いが入っていることを承知で、言い切ってしまうことにする。どうせ、この問題を論じるのに必要な科学的知識なんて持ち合わせてないんだから。