2011年2月28日月曜日

乾杯。

「乾杯!」

小宮麻子は、か細い腕で生ビールの中ジョッキを掲げた。

残念ながら、グラスをぶつけている相手は男ではない。

大学時代から仲良しの真美、佳子、愛の三人と、数ヶ月ぶりに飲んでいる。

4人とも就職して2年半以上がたつので、会うと仕事の話が多くなる。

早い話が愚痴大会だ。

麻子は、三人のことが羨ましかった。なぜなら彼女たちは自分よりもいい会社にいるし、自分よりも大きな仕事をしているし、おしゃれなオフィス・ビルで働いている。それに詳しい額は聞いていないけれど給料も自分より高いに違いない。話を聞くかぎり、彼女たちの会社には優秀な人や尊敬できる上司がそこら中にいるらしい。ロール・モデルにできる女性社員が何人もいるらしい。

自分の会社はと言えば、まったく自慢できることがない。社内に尊敬できる人なんていない。英語も仕事もできないのに偉そうにしている親父ばっかり。見本になって自分をリードしてくれるような人が一人もいない。将来自分はこの人のようになるんだって思える女性が会社の中にいない。そもそも女性がほとんどいない。社屋はちょっと辺鄙(へんぴ)なところにあって、お昼休みにランチができるお洒落な店なんて周りにない。しかもそのお昼休みが45分しかない。友達の会社のお昼休みはみんな1時間なのに。

麻子は学生時代、アメリカの大学に1年間、留学していた。そこで培った国際感覚や英語コミュニケーション能力を活かして、世界の人々と国際的な仕事をしたいと思って、今の会社に入ってきた。

でも降ってくる仕事は、英語の会議の通訳をしてくれだとか、英語の会議の議事録を作ってくれだとか、このメールを訳してくれだとか、そんなのばっかりで、自分がやりたいこととは違う。やる気なんか出ない。

こんなはずじゃなかった。私は通訳をするためにこの会社に入ったわけじゃない。

そんな愚痴をぶちまけていると、外資系金融機関に勤める佳子が口を挟む。

「えーダメだねその会社。転職すれば? 麻子の力があれば、もっといい会社にいけるって。麻子ならできるよ!」

そう、私にとって今の会社は、本当の居場所ではない。自分の能力を活かせる舞台ではない。

そんな気持ちを後押ししてくれる親友たちとの飲み会は、いつも麻子にとって心地よい時間だ。

転職は当然考えている。自分ならもっといい会社で、尊敬できる同僚に囲まれて、やり甲斐のある仕事を与えられて、もっといい給料をもらえるはず。

私が今の会社にいるのは、なぜ?

毎朝会社に行くと、みんながいるから?

会社が私を必要としているから?

流れで、何となく?

何で私がこんな会社にいなくちゃいけないのか、どう考えても分からない。



「お疲れ様です!」

男三人で飯を食うのに「乾杯」はしっくり来ない。

入社5年目の田上は、先輩社員の吉野とその上司である正木と会食していた。田上と二人は勤務する事業所が違うため、この三人で集まる機会は滅多にない。

この三人が集結すると、話題は職場の愚痴という可愛いものでは済まない。会社の上層部から平社員に至るまで、さまざまな対象にかなりえげつない批評がなされる。

「いやあ、それにしてもあそこまで馬鹿だとは思わなかったな」

ビールのジョッキを三分の一ほど空けたところで吉野が口火を切る。

「えっと、誰のことですか? 小宮さん?」

後輩で年下でもある田上は敬語だ。

「うん。いやあ、ひどいわ」

「たとえばどんな感じなんですか?」

「この間、海外の代理店の人たちとやった会議の議事録、彼女が作ったんだけど、もうめちゃくちゃ。全然理解してないね」

「そうですか・・・実は以前、別の会議の議事録を彼女が作ったときも、海外の人から遠回しに文句が来たらしいですよ」

「だって寝てたからな」、吉野の上司である正木はさらに油を注ぐ。

「会議中ちらっと見たら首がコックリ行っててさ。休み時間に注意したよ。『会議の中身分かってるのか?』って聞いたら『はい』とか言ってくるんだけど分かってるはずないよね。寝てるんだから」

「会議の議事録を作らなきゃいけないのに寝てしまうとは…。僕は、最初はもっと出来ると思っていたんですが」

「俺も思ってたよ」と正木。

「俺は最初から馬鹿だと思ってたけどね」と吉野。

正木は畳みかける。

「小宮の代ってあれだろ、名前忘れたけど営業のあの頼りないやつ・・・」

「小森君?」と田上。

「そう小森君とか、あとマーケティングの広田さんとかと同期なんだろ? あの代は外れだな。不思議なんだけど一つの代にダメなやつばっかり集まるってことがあるんだよね」

吉野がトイレで席を外し、一旦話が止まった。

その隙に田上は目の前にあったフレンチ・フライを口に放り込み、シャンディガフで流し込んだ。

部署が違うとは言え、会社の後輩を批判するのが決して心から愉快なわけではない。

田上の目は、遠くを見ていた。



「どうも、お疲れ様です」

田上は、小野寺と飲んでいた。小野寺は営業として輝かしい成果を挙げており、会社の顔として新卒の採用支援もしていた。会社説明会なんかで前に出てくる、あれだ。小宮の採用にも関わっていたらしい。

「実は小宮さんはね、最終面接で落ちていたんだよ」

「え? どういうことですか? でも今会社にいますよね?」

「うん。一度落ちたのを、合格させたんだよ」

「どういうことですか? 誰が?」

「俺が」

「え?」

「だって可愛い子と仕事したいじゃん」

「えーと、すいません、よく分からないんですが・・・」

「最終面接を終えて、何人か候補がいてさ、小宮じゃない人が選ばれたんだよ。そこで俺が必死に役員を説き伏せたわけ。『小宮は仕事できる! 彼女は間違いない!』ってね。そうしたらさ、役員の連中も『たしかにそう言われるとそうだな・・・』だなんて気を変えて、最終的には内定を出したんだよ」

「採用支援をしているのは知っていましたが、小野寺さんにそんな権力があったんですか? でも、彼女、仕事できませんよ・・・」

「それは関係ないんだよ、可愛ければ!」

アルコールで顔を赤らめた小野寺は、田上の肩のあたりをガシガシ叩きながら笑った。

田上は、笑うことができなかった。



小宮麻子は、会社に来なくなった。部署で、噂になっている。

「小宮さんは最近、会社に来てないよ」

「何があったんですか?」

「分からないんだけど、転職活動をしてるんじゃないかというのがもっぱらの噂」

「本人がしたいのであればそれは彼女の選択ですね・・・。でも、言っちゃなんですけど、彼女は今まで何もやっていませんよ。本人は給料が安いと思っているかもしれないですけど、今の給料でももらえることをありがたく思った方がいいですよ。今の彼女の実力では」

「そうだよね。今の彼女の職歴では、引き取ってくれるところがあるかどうか・・・」

これらは、小宮が日頃馬鹿にしている「できない先輩社員たち」の言葉である。



小宮麻子が、その後どこの会社に行ったのかについては噂が流れてこない。会社を辞めたまでは何となく聞いているが、そもそもちゃんと転職できたのかすら、分からない。

でも田上は、あえて知りたいとは思わなかった。

彼女は、彼女なりに苦悩し、努力していたのかもしれない。きっとそうだろう。でも田上の目から見れば、彼女は何も残すことはできなかった。彼女であればもっとできたはずだ。それが残念でならない。

彼女は、自分にはもっと相応しい会社があると思っていた。

でも、彼女は知らない。自分が「レベルが低い」と思っている会社に、受かっていないはずだったことを。新卒のときに内定をもらうことができた大きな要因が、顔が一人の採用担当の好みだったからだということを。

「もっといい会社」の前に、今の会社で戦力になっていないということを。

「こんな下働きは嫌だ」と言う前に、その「下働き」すらまともにこなせていないということを。

でも、彼女はそれらを知るべきだったのだろうか?

あのまま会社にいれば、いつか気付いたのだろうか?

知ったとして、何か彼女にいいことがあるのだろうか?

自分もしくは誰かがそんなことを小宮本人に指摘してやるべきだったのだろうか?

田上の頭に、そんな疑問が浮かんでは消えていった。

「余計なお世話だな。」田上は自分につぶやいた。

誰が去ろうと、誰が残ろうと、会社ってのは何となく毎日回っていくものだ。

みんなそれぞれが、自分の人生を生きている。どの角度から見るかによって、見え方や輝き方はまったく異なる。仕事をバリバリこなすあの人も、家庭では妻子との関係が冷え切っているかもしれない。会社で振るわないあの人も、私生活では仲間に恵まれ楽しいことばかりかもしれない。自分が飲んでいる人生という酒がおいしいかどうかは、周りが決めることじゃない。

人間、死ぬときは一人なんだから、自分がいいと思うようにやるしかないさ。

それぞれの人生に、乾杯。