2011年4月16日土曜日

まだ終わりじゃないんだよ。

あれはちょうど去年の今頃。

金曜日だった。

いつもの昼休み明け。いつもの定例ミーティング、のはずだった。

上司が淡々と連絡事項を読み上げていく。課員たちは、黙って聞く。何人かの課員は自分の休暇情報を知らせる。10分後には、いつもの席に戻り、いつもの仕事に戻っていく。驚きも刺激もない、いつもの儀式。

そうあって欲しかった。でも、今回だけは違った。

まずは書類のファイリングを済ませて、あのメールを片付けるか。俺は、席に戻ってからやることを考えていた。

その時。一瞬だけ間を置いて、上司が口を開いた。

「えーと、あと、大変残念なんですが・・・」

何かが普通ではないことだけは分かった。

「富田さん(仮名)が、今月いっぱいで、会社を辞められます。慰留しましたが、本人の意思が固いということで・・・」

目の前が真っ白になった。まったく、想像もしていなかった。

今月は、残りあと3週間。3年間一緒に働いた仲間との別れまでの期限としては、あまりに短すぎた。

皆が会議室を後にする中、上司は俺だけを呼び止めて、神妙な面持ちでこうささやいた。

「本人がどうしても地元に戻りたいということなんだ。仕事や職場に不満があったわけではないということは、分かってほしい。」

富田さんにとっては俺が一番上の先輩だから、上司は俺に気を遣ってくれたのだろう。

でもそれは慰めにはならなかった。

俺は席を離れ、トイレの個室に自分を閉じ込めた。自分を責めた。自分がもっと助けになっていれば、富田さんは辞めていなかったかもしれない。俺は、頼れる先輩であり、後輩たちは自分を信頼してついてきてくれていると勝手に思っていた。でもそれは思い上がりだったんだ。

心底、自分が情けなかった。ただ、悲しんでいるだけで残りの3週間を潰すわけにはいかない。

富田さん以外の後輩二人に、どうしても伝えたいことがあったからだ。

それは、自分に言い聞かせたいことでもあった。



あれは七年と少し前。

俺は大学で研究会の先生の研究室にお邪魔していた。

大学4年生になるちょっと前だったと思う。進路の相談をしていたのだ。

当時の俺は、大学院に進むのか就職活動をするのかで揺れていたが、就職するという選択肢に傾きつつあった。

先生はその選択肢を支持してくれた。でも、俺は頭の中がモヤモヤしていた。

学問に未練があったからだ。俺は、大学の授業は嫌いで成績は悪かったが学問は大好きで、そちらの道で何かを成し遂げたいという気持ちもあった。

そんなとき、先生の何気ない一言が心に突き刺さった。

「学問に関しては、大学生活があと一年以上あるから、そこで何ができるかですね。」

あと一年、ある。そこで、何ができるか。俺にとっては、思いもよらない視点だった。

あと一年しか、ない。もう終わっている。先生の言葉を聞くまで、俺は、そう思っていた。だから、大学卒業後のことばかり考えていた。

俺は、勝手に自分の中で、大学生活を終わったものとみなしていた。「もう終わりが近い」ことを言い訳に、今から逃げていた。でも実際には、何も終わってなどいなかったのだ。まだまだ、時間なんてあるんだ。そこでできることは、あるんだ。

よくよく考えてみれば、仮に大学院に進んだとしても、二年間しかない。

目の前の一年を生かせないやつが、二年間を与えられたところで、何ができるというのか!

それに大学院が二年と言ったって、就職活動を考えると、本当に学問に集中できる期間なんて一年やそこらかもしれない。

俺は吹っ切れた。

大学四年生の5月、苦しくてたまらない就職活動を何とか終わらせた。

俺は決めた。残りの学生生活は、自分が書き得る最高の卒論を書くことをすべてに優先させる。卒業に必要な最低限の単位さえ取得できれば、その他のことは、どうでもいい。

最終的な提出期限は翌年の2月と、まだ先。でもどんな卒論を書くのか、ぼんやり考え続けた。その間、関係のない本を読んでいても、すべてが卒論のための素材にしか見えなかった。

最後の2、3か月は、一日の大半を部屋にこもって、布団の中で本や資料に囲まれてThink Padのキーボードを叩いていた。

元々夜型の生活が極端に進行した。朝の7時過ぎ、家族が起き出してから寝て、午後3時くに起きていた。

だから、実家暮らしなのにその間は家族ともほとんど顔を合わせなかった。

大学にもほとんど顔を出さなかった。

毎日昼過ぎに起きていると、背徳感に教われ、自己嫌悪気味になってきた。

でも、俺には意地があった。会社に入ったら、こんなに一つのことを一人で考える時間はないだろう。こんなに時間をかけて文章を作れる機会は、もう一生ないだろう。自分の最高傑作を作るんだ。この卒論をもって、大好きな学問とはお別れをするんだ。そう思えるくらいの文章が書きたかった。

何度も修正を加え、ようやく出来上がった作品は、当時の自分の分身であり、自分の子供だった。だから、印刷した52枚のA4用紙は、ただの紙ではなかった。ずっしり来るその重みは、俺にとっては産まれたばかりの赤ん坊の体重くらいに意味があったといっても過言ではない。

提出後、先生からメールが届いた。

「力作ですね。優秀卒業制作に推薦したいのですが。」

先生の推薦、そして誰が審査したのか知らないが審査委員会の査定を経て、俺の卒論は優秀卒業制作に認定された。

俺は、後悔だらけの大学時代を送ってきた。でも、卒論だけは本当に本気で打ち込んだと胸を張れる。俺にとっては、卒論が大学生活四年間のすべてだ。それは、表彰されたからというわけではなく。

俺の大学生活は、まだ終わってはいないんだ。その当たり前のことに気づいたことが、始まりだった。

(参考:卒論


週末を挟んで、月曜日。俺は富田さんを除く二人の後輩を、会議室に呼び出した。

三日前の発表をどう感じたか聞いたところ、「ショック」、「土日の間もずっと考えていたが、いまだに消化できない」と、想定外な富田さんの退職をどうとらえたらいいのか分からない様子だった。

俺は、大学時代に先生から言われた言葉と、卒論の話をした。

「たしかに、もう3週間しかない。でも、まだ3週間あるんだ。3週間で、できることをやっていこう」

「もっとこう接していればよかったとか、こういう言葉をかけておけばよかったとか、そういう思いがあるんだったら、残された時間でそれを実行していこう。とにかく、『こうしておけばよかった』何かがあるなら、今やるんだよ。まだ時間はあるんだ」

「一番すべきことは、今まで人生の貴重な時間を使って一緒に仕事をしてくれたことへの感謝を言葉にして伝えることだ」

何度も、何度も、言葉に詰まった。でも、何とか、言葉にして、思いを伝えた。

後輩たちは、俺に釣られて、泣きながら頷いてくれた。

それからは、一日一日を大事にして、富田さんと接した。目を見て「ありがとう」と言う等、今までおざなりになっていた当たり前のことを、意識して実践した。

職場のお別れ会は、「いかにして富田さんに喜んでもらうか」という一点だけを見据えて、お店、プレゼント、参加する面子を全力で考えて実行した。

最後の出勤日には、職場全体のお別れ会とは別に、同じグループの4人だけで、とっておきの店で、最後のひとときを過ごした。

悲しかったが、やることはやったという達成感も強かった。

翌月、当然ながら富田さんは出社しなかった。9時になっても、10時になっても、いつもの席には誰も来なかった。でも、不思議と喪失感はなかった。

なぜなら、富田さんのいるはずの空間を見ても、「こうすべきだった」「もしこうだったら」という後悔の念は浮かんで来なかったからだ。

思い出すのは、最後の日、最後の食事で富田さんが見せてくれた、とびっきりの笑顔だった。