2010年5月17日月曜日

【構成~はじめに】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立

2004年秋学期優秀卒業制作(SFC AWARD)受賞
自由主義 vs. 多文化主義
アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立
白井健一郎
総合政策学部4年、70104541

構成

はじめに 3
Ⅰ 自由主義の解剖 5
‐「リベラル」の意味
‐二つの原則
‐モデル
‐権力からの自由
‐権利の平等、法の前の平等
‐ディズニーに検閲はできるか?
‐黒人を拒否するレストラン
‐政府の役割
‐リベラル・デモクラシー
‐功利主義

Ⅱ 多文化主義の解剖 15
‐「多様の統一」ではなく「多様」
‐多文化主義を定義する:三つの視点
‐文化とは属性のこと
‐「多様性」は集団間の結果の平等
‐「差異」と「多様性」は同じ
‐「オリジナル」の原理の不在
‐アファーマティブ・アクション
‐「人種差別解消」から「多様性」へ
‐学校教育
‐多様性トレーニング
‐ポリティカル・コレクトネス

Ⅲ アメリカ政治思想の右左 25
‐保守対リベラル
‐独立宣言の意味
‐保守主義と小さな政府
‐キリスト教
‐国家主権
‐リベラリズムと大きな政府
‐世俗性
‐越境
‐リバータリアニズム

Ⅳ 自由主義から見た多文化主義の問題点 35
‐自由主義 vs. 多文化主義
‐自由と平等
‐個人という単位はどこへ
‐AAと修正第14条
‐最高裁が合憲といえば合憲になるわけではない

Ⅴ 多文化主義から見た自由主義の問題点 40
‐自由主義にも限界がある
‐個人による差別
‐理論と現実
‐理想
‐自由主義とキリスト教

最後に 45
‐批判に答える
‐批判1:実際の社会現象や政治思想は複雑。筆者はそれを単純に整理しようと焦っている
‐批判2:自由主義の定義が狭すぎる
‐その他
‐過程としての自由主義

感謝

参考文献


はじめに

 1980年代頃から勢いを持ち始めた多文化主義は、アメリカ社会を動かす大きな原動力である。しかし、誰もがそれを支持しているわけではない。多文化主義をめぐる論争は熾烈である。アメリカの過去と現在をどう捉えるのか、これからアメリカがどう進むべきなのか、といった問いと直結しているからだ。支持者と反対者がともに譲れない哲学を持っており、一歩も引かない。多文化主義者にしても反多文化主義者にしても、発する言論は多くが党派的であり、論争全体を発展させないのはもちろん、下手をすると仲間内の自己満足で終わっている。最初から自分が正しくて敵が間違っていることが決まっているのである。多文化主義者の言葉は多文化主義者だけに向けられていて、反多文化主義者の言葉は反多文化主義者のみが聞いているかのごときである。

 このような状況において、多文化主義とそれをめぐる思想的対立を真に理解するためには、一歩引いた位置から全体を観察する必要がある。この作業を叩き台にしなければ、全体の理解はもちろん、賛成と反対を越えた解決策を見出すことはできない。しかし、そのような試みは、意外に少ない。たとえばチャールズ・テイラーはこの分野で古典とされる有名な論文、「承認の政治を考察する(“Examining the Politics of Recognition”)」で「差異の政治」と「尊厳の政治」の対立というモデルを示した。筆者の視点はこれと重なる。だが彼の論文の目的は、多文化主義をめぐる議論の整理というよりは、高度な論理的積み上げによる多文化主義の擁護だった。テイラーの議論自体は並の言論人には及びもつかない質の高さを持つ反面、具体的なアメリカの政治思想対立や、多文化主義が実際にとっている形への言及が不足している。それ以外にも多文化主義をめぐる思想的対立モデルの描写は存在するが、アメリカの保守主義とリベラリズムの対立と直接結びつけその関係を探ろうとする人々は少ないように見受けられる。

 また、一般的にいって、政治思想の専門家たちは、政治思想を用いて実際の社会を説明するモデルを作り、一般社会に問うという作業を怠っている。政治思想という学問分野のあり方には二つの潮流があると筆者は考えている。一つは、過去の偉大な古典文献を解釈して図鑑のように比較、分類する作業。もう一つは、特定の思想に立脚した「政治的な」意見を発露する作業。もちろん、それらの作業の重要性については改めて強調するまでもない。しかし、政治思想がどういう意味を持ち、世の中を理解するのにどう役立つのかを発信する作業も重要である。それがなくては、政治思想は、一般社会はもちろん、少しでも違う学問に携わる人々からも、役に立たないものとしてそっぽを向かれてしまう。言うまでもなく、世界に最も強い影響力を持つ国家であるアメリカを理解することは、専門家以外の人々にとっても重要な課題のはずである。そのためには、政治思想を現実社会の現象に当てはめなくてはならない。

 本稿の目的は、多文化主義をめぐる現代アメリカの政治思想の対立モデルを提示することである。どういう対立モデルなのか? それは「自由主義 vs. 多文化主義」である。この説明は一見逆説的である。なぜなら、一般的に、アメリカではリベラルたちが多文化主義を支持し、保守たちが反対するからだ。自由主義はリベラリズムの訳語で、それを信じる人たちがリベラル(自由主義者)なのだから、「保守主義 vs. 多文化主義」と言わないとおかしいのではないか? おかしくないのだ。なぜなら、Ⅰ章で説明するように、現代「リベラル」とみなされる思想と本来の自由主義は同じではない。Ⅲ章で明らかになるように、アメリカではリベラルたちよりも保守たちの方が自由主義と強いつながりを持っている。多文化主義に反対する保守たちの後ろ盾は自由主義なのだ。

 この論文の目標は、多文化主義の支持あるいは反対を表明することではない。片方が正しく、もう片方が間違っているという結論への予定調和も、こうすれば対立を乗り越えられるという解決策も、用意していない。本稿は、個々の読者が現実を理解したり自分の立場を決めたりするための材料、あるいは議論を発展させるための土台を提供する試みである。

 Ⅰ章では、自由主義の特質を浮き彫りにする。主にジョン・ロックの思想を紐解くことで、「自由」が国家権力の干渉からの個人の自由、「平等」が個人を単位とする権利の平等を意味することを明らかにする。自由主義は、社会を国家権力と個人に分け、前者から後者を守る思想なのだ。それが持つ意味を、現代社会の例に当てはめて考察する。

 Ⅱ章では、多文化主義を定義し、その理論と実態を探る。世の中に出回っている曖昧な定義を批判的に修正し、多文化主義を「ある国家内における社会集団を単位にした結果の平等を、主に政府の介入を通して上から目指すことを支持する考え方」と定義する。その定義の有効性を、アファーマティブ・アクション、多文化教育、多様性トレーニングなどを考察することで確認する。

 Ⅲ章ではアメリカ政治思想の保守主義とリベラリズムの対立像を描く。前者とⅠ章の自由主義、後者とⅡ章の多文化主義とのつながりを明示し、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルの下敷きとする。ヨーロッパでは、権威を擁護するのが保守主義だったが、権威を打ち倒すことで成立したアメリカ合衆国ではその逆の自由主義が伝統となり、保守主義の源流となった。対するリベラリズムは社会主義的な再配分を肯定する思想である。またこの章では、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルから欠け落ちた視点も補う。

 Ⅳ章では、まず「自由主義 vs. 多文化主義」モデルを説明した上で、自由主義の視点に立ち、多文化主義を批判する。多文化主義は、自由主義の芯を為す諸理念と真っ向から対立する。国家権力の介入によって社会を改良しようという動きは政府の暴走で、個人の自由を脅かす。人種や民族を単位に社会を分類する発想は個人主義に反するし、集団ごとに権利が異なるのは権利の平等を蹂躙している。

 Ⅴ章では、Ⅳ章の逆を行う。つまり、多文化主義の立場から自由主義の問題点をえぐり出す。自由主義には限界がある。その最たるものは、私的領域での差別を解決できないことである。その盲点を突いたのが多文化主義だ。また社会は自由主義が前提とするように個人のみで構成されているわけではない。社会集団を標的にした差別が現に存在するのだ。その上、そもそも自由主義が普遍的な正しさを持っているかどうかも怪しい。