2014年3月29日土曜日

スキル競争。商品としての自分。鎮座DOPENESS。

凡人の働き手が身に付けるべきは「どこでもやっていけるスキル」ではなくツテではないだろうか。

「どこでもやっていけるスキル」を持った人材になるということは、労働市場の中の商品として上澄みになるということである。それを目指せるのは定義上、ごくわずかな人しかいない。もしくは、どんな雑用もこなす奴隷になるということである。(海老原嗣夫の『日本で働くのは本当に損なのか』に職業は習熟度が高くなればなるほど移動が出来なくなり、産業間を渡り歩けるのは一部の経営層かエントリー人材という指摘がある。)

市場は相対評価であり、減点法である。何かを多数の候補から一つに絞るときには消去法が必要になる。どれかを選ぶ理由だけでなく、それ以外を選ばない理由が必要なのだ。市場の商品になるということは欠点を探されるということである。

市場という客観的視点を抜きにして、加点法で自分のことを絶対的に評価してくれる人たちが、人生で最も大事にすべき人たちである。それは人によっては家族が当てはまるかもしれないし、親友がそうなのかもしれない。もちろん、自分にはそういう人などいないという人もいるかもしれない。

「お前と一緒に働きたい」と言ってくれる仲間が、会社員が手に入れられる最大の財産である。

漠然とした「世の中に必要とされるスキルを持った人材」として「まだ会ったこともない誰か」に評価されようとするのではなく、具体的な誰かに、盲目に選んでもらうようになるのが大事なのだ。

広く「世の中」や「業界」一般で生き抜こうとするのは、自分から固有の人格を剥ぎ取り、比較可能なデータに単純化することである。

比較可能なデータになればなるほど、不利なのだ。なぜなら自分と似たような価値を持つ人、自分より価値の高い人がいくらでもいるからだ。あなたである必要はないのだ。競争は値段(給料)も下げる。

市場の商品になってしまえば、人は「戦力」「人材」に抽象化される。人格を持った「○○さん」ではなくなるんだ。「○○歳くらいの、○○という経験を持った人が欲しい」という企業にとって、条件から外れる応募者の年齢は欠点なのである。しかし本来、年齢はその人の欠点でも何でもないのである。

鎮座DOPENESSというMCのバトル動画をYouTubeで観て衝撃を受けた。ろくに韻も踏まずに、時として内容ですら分が悪いように見えるのに、最後には勝ってしまう。対戦相手は「鎮座DOPENESS」と「韻など踏めず」で韻を踏んでそこを突くのだが、ビクともしない。韻のうまさは計測可能。そこで勝負しているMCはDOPENESSに勝てない。立ち振る舞いや雰囲気、独特のフロー(歌い方)で、DOPENESSは場を飲み込んでしまう。計測のできない魅力。

いつかのMCバトルで、メシアtheフライとの決勝戦の模様がYouTubeにあった。鎮座DOPENESSは、メシアtheフライが投げてくる色んな問いかけには正面から答えず、のらりくらりとかわしながら独自の世界を繰り広げ、どういうわけか最後には勝ってしまうのだ。

鎮座DOPENESSの虜になっている私から見ても、内容でも韻でもメシアtheフライが一枚上手に見えた(異論は認める)。鎮座DOPENESSのバトル動画を漁って見ていると、彼はヒップホップ用語で言うところのバイブス(雰囲気)や彼にしか出来ない予測の難しいフローを通して、技術を超えたところで対戦相手だけでなく観客や審査員をも圧倒しているのだ。

晋平太はバトルの中で鎮座DOPENESSの支持者を「信者」と揶揄していた。実際、バトルによっては少し鎮座DOPENSSに分が悪いように見えても、鎮座DOPENESSだから無条件に応援している人もいるような印象を受けた。でもそういう支持を集められるのが彼の強さなんだ。



競争が激化すると、その土俵に上がるために必要な基本的なスペックが高度になる。

例えば「これから生き残るには英語が必要だ」という風潮に対応するためにみんなが本当に英語を身に付けると、英語がある程度できるのを前提に別の能力や技能が「これから生き残るのに必要なスキル」の一覧に加わるだろう。生存の条件が底上げされるのだ。

競争は相対的な優劣で勝負が決まるのであって、いくら自分が訓練を通して何かの技術を習得したとしても、それが他の多くの人たちでも出来ることであれば、商品としての自分の強みにはならないのだ。その技能の習得がどれだけ大変かはあまり関係がない。

そして、一旦「みんながある程度は出来る」ようになった技能は、「非常によく出来る」ことの価値も減退するのだ。仮に日本人の大半が文字が読めなければ、きちんと読み書きが出来るだけでそれなりに食い扶持を得ることはできたかもしれない。日本人のほとんどが識字出来る現代では、読み書きが出来ることで優位に立てる職業はほぼ皆無であろうし、同様に識字において高度に訓練されている(難解な漢字を書けるとか)ことが評価される仕事もほとんどないだろう。「ある程度」が全体に行き渡ると、その能力や技能そのものが陳腐化し、それが高度に出来ることもそれほど評価はされづらくなる。

日本のヒップホップにおける韻が、そういう技能になっている。出来るのが当たり前。特別うまくはなくてもあまり攻撃の材料にならない。かなり上手でもそれだけではふーんで済まされる。

かつては韻が踏める・踏めないがヒップホップであるかどうかを判断する上での一つの大きな指標だった。今ではJ POPの枠内にあるラップでさえきれいに韻を踏むようになった。「キック・ザ・カンクルーとは何だったのか。」でも書いた通りである。

キリコのようにあえて韻にこだわらないMCも頭角を現した。鎮座DOPENESSもそうだ。そういうMCが活躍できているのは「お前は韻が踏めていない」というのが日本のヒップホップにおいて有効な攻撃ではなくなったからだ。

韻がありふれた技能になったから、リスナーにとって、しっかりと韻を踏んだラップのありがたみが減った。以前は、韻そのものが珍しく、韻を上手に踏めばそれだけで面白いラップになった。極論すると。それをとことんまで突き詰めたのが走馬党クルーと言えるのではないか。

スペックのみの勝負だと、その商品の価値は誰が見ても大体同じだ。ある人は最高評価を与え、ある人は最低評価を与えるというのは考えにくい。英語がTOEIC 800点の人は(TOEICが英語の技能を判断するのに妥当かは別にして)誰が見ても「TOEIC 800点レベルの英語力を持った人材」なのであって、それ以上でも以下でもない。

「その人であること」それ自体が評価や支持の理由になれば、その人を好きな人は無条件で支持する。TOEICが何点だろうが関係ない。

企業の選考でいくら人柄を評価の項目にしたとしても、その「人柄」はあくまで他の候補と比較するスペックとしての人柄だ。「戦力」として自分たちの一員に加えたいかどうかを決める上での、商品を相対評価で査定する上での項目の一つにすぎない。家族や親友はその人がその人であるという理由だけで愛するのであって、誰それより優れているから付き合っているわけではない。

自営でお店をやっている人が家族を従業員にする理由は、家族だから。それだけだ。求人に応募した候補者たちを採点した結果「戦力」「人材」としてポイントが高かったからではない。

「戦力」「人材」という市場が発達していくと、要求されるスペックは、どんどん底上げされていく。値段も限界まで安くなっていく。その上、年齢という逆らえない指標も極めて大きな要素である。つまり、年齢を重ねていくだけで基本的に「戦力」「人材」としての値打ちは下がっていくのだ。そんな中、市場での評価を狙ってスペックを磨いていくのは大半の人たちにとっては分が悪すぎる勝負だ。

自分のことを「○○さんだから」という理由で信頼してくれる人を一人でも増やしていくのが、一時期もてはやされた「グローバル人材」のような浮ついた目標よりもよほど現実的ではないだろうか。

私は、個人的なツテをたどって転職する人のことを、最初は格好悪いと思っていた。一種のずるのように思っていた。自分の実力で勝負するべきだと思っていた。

でも、実力なんてものは明確に定義できるものではないし、ましてや書類と一時間の面接で得た印象で正確に推し測れるものでもない。

その人と実際に何年も仕事をした上でその人と一緒に働くのが好きだと思わせることが、働き手にとっては何よりの勲章であり、実力である。

面接のときに初めて顔を合わせる相手たちから疑いの目を向けられ、試され、品定めされる「就職市場・転職市場」は、かなりのクソゲーである。

理論上、求職者は企業と対等に交渉する立場である。実際には立場が強いのは企業に決まっている。就職や転職の市場において求職者は商品であり、企業は消費者である。消費者と商品が対等なわけがない。

応募者を審査する側は、いくらでも落とす自由がある。求人を出して、数十人が応募してきて、十人を面接に呼んで、ピンと来なければ一人も採らないという選択が出来る。

労働者には会社に入ってから辞める自由と、ある会社に応募しない・行かない自由はあるが、好きな会社を選んで勤務する自由はない。働かない自由というのも一応はあるが、一時的ならともかく、何らかの理由で大金を持っていない限り長くは続けられない。生活が成り立たない。

応募者が求職時に職に就いているかどうかで企業との力関係は変わるかもしれない。「お宅に行かなくても食い扶持はあるんだ」「現にこれだけのお金をもらっているんだ」という事実があった方が交渉において有利だろう。だが、それでも対等ではない。

採用する側が「採用基準」を偉そうに語って本まで出版するのを見ることはあっても、求職者が「入社基準」を偉そうに語っても誰も相手にしない。

自分を市場に放り込むということは、自分を商品にするということ。資本主義の世の中では避けられない。でもそれ一辺倒になってしまうと苦しい。労働に重きを置く社会で、「自分」という商品が労働者の市場で売れないと、存在を否定された気持ちになるからだ。だから就職活動は疲れるし、大学生の自殺者まで出る。

鎮座DOPENESSは、リスナーや他のラッパーから韻が踏めないとディスられても痛くも痒くもないはずだ。(少なくとも業界で一般的に規定される形での)「スキル」という次元で、彼は勝負しているわけではないのだ。それどころか、彼はラッパー・MCという枠にもとらわれていないのではとさえ思う。私にとってバトル動画を通して見る彼の勇姿は、ひたすらに眩しいのである。