2012年7月14日土曜日

2011年7月30日~8月4日 広島旅行記(3)

いよいよこの旅の真打ち。昨晩ちらっとだけ訪れた原爆ドームおよび周囲の関連施設を、じっくりと見に行く。

途中の商店街にパン屋さんのアンデルセン。随分と立派な店構えだ。何でも、ガイド・ブックによるとここが第一号店らしい。広島が発祥とは知らなかった。まあ、後で来るとしよう。


アンデルセンは池袋の店舗にたまに行く。フランス・パンにハムとレタスを挟んだサンドイッチが好きで、たまに買う。ぱかっと開いて中に黒コショウをかけてから食う。食パンも一度買ったことがあるのだが、あまり好みではなかった。食パンに関してはポン・パ・ドールの方が好きだ。

ポン・パ・ドールと言えば子供の頃、チーズ・バタールというダイス・チーズが入ったフランス・パンが大好物で、母親がたまに買ってくると大喜びしていたものだ。ロンドというチョコレートとナッツを練り込んだ菓子パンを買うため会計の列に並んでいたらiPodshuffleから松浦亜弥の「横浜ロンド」という曲(アルバム『Click you Link me』)が流れてきたことがあった。その旨、当時Twitterに投稿したら友人に「痛ツイート」として晒し上げられた


改めて、原爆ドームを鑑賞する。目の前に、「あの」原爆ドームがある。それが現実であることを確かめるかの如く、色んな角度や距離からシャッターを切り、SDカードに画像データを収める。



雨が降ってきた。傘を持っていないので、休憩所に逃げ込む。中は同じ考えの人々で溢れている。自販機で500mlペット・ボトルのミネラル麦茶を買い、一気に飲み干す。いや、厳密には一気に500mlは飲んでいない。何回かに分けて飲んだ。

雨は少し弱くなったが、いつ完全に止むか分からないので、外に出る。

ベンチに腰掛け、原爆ドームをぼーっと眺める。ベンチの上に木がかかっていて、多少は雨をしのげる。何というか、この建物は、眺めているだけで胸がいっぱいになる。



広島平和公園を一通り回ったが、原爆ドームの衝撃に比べてしまえば他は私にとってはおまけのようなもので、概して印象は薄かった。

例外は、広島平和記念資料館。

入館料は、わずか50円。いっそのことタダにすればいいのに、と一瞬、思ってしまうくらい安い。


すべての展示物の、生々しさが普通ではなかった。携わった人々の、原爆に関する経験と知識を後々の世代まで引き継いでいくことへの気持ち、思いが圧倒的に伝わってきた。

原爆投下前と投下直後を比較したジオラマを見れば、一つの都市が一掃されたさまがどんな馬鹿にでも分かる。



歴代の広島市長から核実験を行った国の政府への抗議文書が壁に貼りつけてある。いくつか目を通して見たが、市長が違っても、相手が変わっても、メッセージは変わらない。通算、595通。思わず、涙が出そうになった。





皮がただれて、ゾンビのようになった被爆者たちの模型は、思わず顔を背けたくなるほど凄惨なものだった。近くにいた外国人たちも顔を歪めていた。


原寸大の原子爆弾の模型を見ると、たかだかこれだけの大きさの物体が、どれほど多くの人々に、どれほど大きな苦痛を与えてきたのか、想像するだけで気が遠くなりそうだった。


当時、爆風を浴び、変形し、表面がぶつぶつになった煉瓦やガラス瓶。自由に触れられるようになっていた。





小さな女の子が展示の説明を読みながら、熱心にメモ帳に書き込んでいた。ほとんどひらがなだった。

本の売店があって、物色した結果『原子力のことが分かる本』と『被爆証言集 原爆被爆者は訴える』の二冊を買った。旅先で本を買うのはなるべく避けたい。本というのはかさばるし重いからだ。それに、旅行中って思った以上に読書が進まないから張り切って何冊も本を持ってきても無駄になることが多い。

ただ、ここで売っている本の多くは一般に流通していないようだ。iPhoneのAmazonアプリで検索しても出てこないのが多い。

館内では『原爆の絵』という被爆者の方々が体験を元に書いた絵を集めた本が宣伝されていた。是非欲しいと思ったがiPhoneのAmazonアプリで検索したら中古品があったのでそっちで注文した。新品より安い上に、持ち運ばなくて済むからね。

それにしても、広島平和記念資料館はショッキングだった。ああいう博物館的な施設で、あそこまで引き込まれたことはない。

帰国後、アメリカ出張時に会社の現地法人のアメリカ人に一連の写真を見せながら色々と説明していたら、特にこの資料館の写真は口を開けて見入っていた。ショックを受けていた。いつか、アメリカ人をここに連れてきたいものだ。

私の人間としての目標の一つが、日本のことを英語で説明できる日本人になることだ。海外で生活していたことや、その流れで英語を熱心に勉強するようになったこと、また中学生から大学生の時分に入れ込んでいた副島隆彦氏の言論の影響もあって、「世界」というものに漠然と興味を持っていた。これは単に地理的な意味の世界ではなく、「世界では通用しない」というときの「世界」だ。中学生の頃から、サッカーの日本代表を見て育ってきた。仕事も、海外の人々と接する職種を希望し、何とか希望する職種に就くことができた。そうするうちに、自分なりの「日本代表」になりたいと思うようになってきた。仕事で海外の人々と話していくにつれ、日本のことを英語で説明できる日本人になることの大切さに気付くようになってきた。そのためには、もっと日本のことを知らないといけないわけだが、今回の広島旅行で一歩近づけたと思う。



今までの外食経験から得た嗅覚とiPhoneによる検索を駆使して、晩飯の場所を探す。

スパイシー・バー・ラルズというインド料理屋さんが、よさそうだ。外に出してあるメニューを見ると、カレーと、ナンと、ソフトドリンクと、タンドール料理とサラダのセットが、2500円と強気の価格だ。ビールを付けたら3000円超えるぞ。でも、奮発しよう。

元々、飯に多めに出費をするのは想定内だ。広島市内の宿泊に三泊で10400円という宿を選んだのは、もちろん単純にお金があまりないというのもあるんだが、その分食事に惜しみなくお金を出すという狙いがあったのだ。ビジネスで言う「選択と集中」である。

「広島まで来てインド料理っ?」(「っ」はnkskこと℃-uteの中島早貴のブログ風)と思うかもしれないが、私の友人には米国のニューヨークまで行ってそばを食った奴がいる。好きなものはどこでも食べたくなるのだ。

予定通り、2500円のセットを注文。カレーはマトンマサラで。あとビールはキングフィッシャー。




インド・カレーの具材では、マトンが一番好きだ。カレーに浸透するコクが、他の肉と比べても格別なのだ。さらさらよりはどろどろが好みなので、大体マトンマサラを頼む。

料理のうまさと、キングフィッシャーによるほろ酔いが合わさってすごくいい気分。いや、これは高いだけあってうまいわ。

大袈裟ではなく、おいしいタンドール料理と、カレーと、ナンと、ビールを味わっている時間は、自分にとっては幸せの定義の一つなんだろうと思う。誰かと一緒に食べているときではなく、むしろ一人で食べているときの方がそれを実感するんだ。

なぜだろうか。それは、何かを食べるというのは、あくまで孤独な行為だからではないだろうか。誰かと「一緒にご飯を食べる」という言い方は私もよくするが、食事とは必ずしも共同作業ではない。もちろん、家族であれば準備を一緒にすることはあるだろう。一つの鍋を何人かでつつくこともあるだろう。二人以上でお店に行きビールを頼めば互いのグラスをぶつけるだろう。

でも、食べるとき、料理と向き合っているのはあくまで一人一人だ。同じものを食べても、近くで同じものを食べている人にとって同じようにおいしいわけではない。自分の身体に合わないものを食べたら、体調を崩すのは自分だ。食べ過ぎて太るのは自分だ。誰かが自分の身体への異変や摂取したカロリーを引き受けてくれるわけではない。

だから、一人ではなく誰かと一緒に食事をしなければ味わえない幸せというのは、料理そのものではなく、その人と一緒にその場を共有していることへの充足感なのだ。だとすると、それは別に食事である必要はなくて、たとえば映画を一緒に観ることでも、コンサートに一緒に参加することでも同じだ。

だから、純粋に食事そのものから得られる幸せは、みんなでワイワイやるよりは孤独に食べた方が感じやすいのではないかと思う。一人で食べた方が食べ物に真剣に向き合えるし、集中できるんだ。もし未読なら『孤独のグルメ』という漫画を読んでみてほしい。店選びから食べ終わるまで、主人公が繰り広げる自分との対話。あれこそが一人飯の神髄だ。

食事関係の漫画では『めしばな刑事タチバナ』や『深夜食堂』もおすすめだ。

苫米地英人氏によると、グルメにこだわる人たちはIQ(抽象度)が低いらしい。なぜならグルメとは長年飢餓に悩まされてきた人類に刻まれた遺伝子なのだが、現代社会は飢餓を克服している。飢える心配はないのだから、目先の食事ではなく、世界平和のような、もっと抽象度の高い視点を持つべきなのである。

苫米地氏はブログにグルメ情報を頻繁に載せていたいた堀江貴文氏をこきおろしていた。ちなみに「最近ではグルメ情報をブログにあまり載せなくなったから、彼も変わったようだ」とホリエモンを見直す記述をしていたが、それは誤解である。単に、発表の場がブログから有料メルマガに移っただけの話だ。私は堀江氏のメルマガを毎月840円払って購読しているから分かる。刑務所にいる今でさえ、すべての食事を詳細に報告してるんだぜ。収監直前の食事の豪勢さといったら絶句ものだった。

苫米地氏の言うことは、正しいのかもしれない。たしかに、次の食事は何にしようかと常に考え続けるだけの生活では、その辺の動物と変わらない。でも、私はこの苫米地氏の見識を理解しながらも、おいしい料理が大好きであることを現時点ではやめられる見通しがない。日本は食べ物が最高においしい国であり、今後もその恩恵を受け続けたいと思っている。

幸せとは何だろうって頭の中でぐるぐる考えても答えにたどり着くのは難しいだろうが、私にとってはおいしいインド料理屋で2、3千円出すだけでも案外手に入るものなんだ。何せ、インド料理が好きなのがきっかけでインドに旅行したくらいなんだ、私は。トルコに旅行したのもトルコ料理が好きなのがきっかけだった。次は中国で本場の麻婆豆腐を食べてみたいと思っている。

お皿を下げてもらう際「おいしかったです」と言うと店を切り盛りしているおばさんは少し驚いたように「ありがとうございます」と言った。私は飲食店でおいしいと思ったら、なるべく店員さんに伝えるようにしている。おいしくなかったら絶対に言わない。(続く)