2011年6月26日日曜日

『けいおん!』を5時間観たハロプロ好きが考えたこと。

どういうわけか、アラサーの男性3人が集結し『けいおん!』なるアニメ作品を5時間ぶっ続けで視聴する(「1期」全話+@)という企画が拙宅にて決行された。

乱暴にまとめると、『けいおん!』とは女子高校の軽音部員たちの活動を描いた作品である。

部屋のブラウン管(地デジ非対応)に映し出された光景は、『けいおん!』を今まで観たことないどころかアニメを観る習慣のない私にとっては見慣れないものだった。

『けいおん!』愛好家@yokohamalotte氏による解説を聞きながら作品を視聴していくにつれ、以前から抱いていたこんな仮説が確信に変わっていった。

『けいおん!』のファンと、アイドル※のファンが根底で求めているものはかなりの程度、共通しているのではないか。

この記事では上記仮説を、下記二つの切り口から立証する。

1.男性との関係が最小限
2.物語ではなく、登場人物が中心

※この記事で「アイドル」というとき、それはハロー・プロジェクトを想定している。

1.男性との関係が最小限

『けいおん!』を見ていて何よりも明らかだったのは、男性の登場人物が最小限に抑えられており、登場したとしても軽音部員の女子生徒と深く関わることは絶対にないという点である。

まず、舞台からして女子高であるので、学校に男子生徒はいない。文化祭で演奏する場面があるのだが、観客は女子生徒ばかりで、他校の男子生徒など見る影もなかった。

男性教師が出てくる場面もあったが後ろ姿と声だけで、何と顔が映らなかった。この徹底ぶりには笑ってしまった。

他に登場した男性と言えば、楽器屋の店員と、道端の通行人くらいしか記憶にない。前者は楽器を買うためのやり取り、後者は横断歩道でぶつかるというのが一番深い接点であった。

私は@yokohamalotte氏に聞いてみた。

「もし男のキャラクターが出てきて、軽音部員たちと仲良くなったら、『けいおん!』ファンは荒れるでしょうか?」

「荒れるでしょうねえ」というのが回答だった。『けいおん!』愛好者にとって、登場人物の女子高校生たちが男とイチャイチャするなどということは認められないようだ。

アイドルの世界でも同じだ。

最近では(といっても去年)、スマイレージというグループが「焼肉事件」と称される騒動を起こしている。

これは、同グループのメンバーたちが特定の男性ファンらと連絡を取り、一緒に焼肉に行く企画を立てていた、という疑惑である。

詳細については、「スマイレージ焼肉事件まとめWiki」からリンクが貼られている記事を参照されたい。


アイドルの世界に馴染みのない人は「なぜこれが事件?」と思うかもしれない。しかしこれは十分に「事件」と呼ぶに値するほど背徳的なのである。なぜなら「アイドルはみんなのものであり、特定の男性との交際が発覚した瞬間にアイドルではなくなる」という原理主義は未だにこの世界に根強いからだ(逆に言えば、「発覚」しなければ問題ないとも言える)。

最近のハロー・プロジェクト全体のライブ・コンサートで司会進行を吉澤ひとみと二人で勤めているのは、まこと(シャ乱Q)だ。氏は見るからに中性的な上に、既婚者である。アイドルたちと密接に絡む立場には、間違っても、アイドルたちと同年代の独身イケメンなど採用してはいけないのである。

このように、『けいおん!』の女子生徒たちからも、アイドルたちからも、男性の影はなるべく遠ざけられているのである。

2.物語ではなく、登場人物が中心

『けいおん!』というアニメ作品は、物語としては展開が平坦である。

小説家の樋口毅宏氏はインタビューで、『雑司ヶ谷R.I.P.』執筆における姿勢を、『小説を面白くするには、主人公を困らせればいい』という言葉を引用し説明していた。


事実、樋口氏の小説は『雑司ヶ谷R.I.P.』に限らず、登場人物を予想外の展開や苦難がこれでもかと襲い続ける。それが「うわあ、この先、どうなってしまうんだ!」という不安や、「えー、そう来るか!」という驚きを読者に与え、小説の飛び抜けた面白さの源になっているのだ。

一方の『けいおん!』は、登場人物たちに大した苦境など訪れない。もちろん多少はあるが、せいぜいステージ上でこけるくらいだし、それが大問題に発展することはない。視聴者としては常に安心して観られる。

しかし、それでも『けいおん!』は数多くの熱狂的なファンをつかんでいる。なぜなら、この作品の本筋は物語の展開にはなく、登場人物の描写にあるからだ。

この作品の見どころはどうやら、主に部員同士の会話を通して表現される、人物毎のキャラクターの特色や、仕草の可愛さなのである。

実際、@yokohamalotte氏は「1話と2話以降で唯のキャラクターに一貫性がない! だから私は1話があまり好きではない!」と熱弁されていた。氏にとって『けいおん!』の話の評価を決めるのは話(物語の展開)ではなく、主にキャラクター描写の善し悪しや一貫性なのである。

物語ではなく、登場人物。私はこの評価軸を、ファンがアイドルのラジオやコンサートのMCを聴いているとき、ブログを読んでいるとき、バラエティ番組を観ているときと重ね合わせた。

たとえば、モーニング娘。の道重さゆみがコンサートのMCで最も会場を揺らすのは十八番の「ぶりっこ」「毒舌」「ナルシスト」というキャラの一貫性を発言で見せているときである。Berryz工房の嗣永桃子も、そのアイドル原理主義的ぶりっこキャラの徹底した発露がファンに安心感を与えるのだ。℃-uteの矢島舞美のブログはお世辞にもユーモアたっぷりで面白いとは言えないが、実直で誠実な性格がにじみ出ている文体がファンにはたまらないのである。おそらく。

つまりファンたちは、自分の応援するアイドルが「その子らしいことをした」ことに満足を覚えるのだ。

「モーニング娘。はメンバーを卒業させたり新加入させたりすることで変化を起こしている。これはここで言う物語に相当するのではないか?」という反論が考えられる。しかし、これは間違っている。

ここで行われているのは再生産であって、必ずしも物語の展開や継承ではないのだ。たしかにモーニング娘。には歴史があり、現在のメンバーにもそれを継いでいるという意識はあるかもしれない。しかしモーニング娘。の卒業・加入劇は、あくまで「新しい今」を作る行為であって、その「今」は過去の延長線上にあるようで、ないのだ。それが同グループが「常に今が一番楽しい」とファンをして言わしめる所以である。

このように、『けいおん!』においてもアイドルにおいても、続いていく日常の中での登場人物やメンバーたちのキャラクターの一貫性やその子らしさが大きな見どころなのだ。

最後に

『けいおん!』は絵であり、アイドルは実在の人物である。表面上はまったく異なる。しかしながら、こうやって分析してみると、その二者のファンは、かなり近いものを求めているのではないかという気がするのだ。

私自身、今後も『けいおん!』を観る機会があるかどうかは分からないし、そちらの道に踏み込むのが一人の人間として正しいかどうかは分からない。

しかしながら、今後とも@yokohamalotte氏のツイートは一種の同志として生温かく見守っていきたい。

今回の上映会は、そう思わせてくれる素敵な異文化体験だったのである。