I 自由主義の解剖
「リベラル」の意味
よく評論家や学者について話すときに、あの人はリベラル派だとか、保守派だとかいう言い方をする。そのときの「リベラル」は、日本語にすると「自由」である。リベラル派が信じる思想である「リベラリズム」が、説明するまでもなく「自由主義」である。しかし、筆者がこの章で説明しようとする「自由主義」は、多くの人が「リベラル」という語から想起するその思想と同じではない。
どういうことだろうか? まず、頭の中に「リベラルな」評論家あるいは学者を思い浮かべていただきたい。仮に大学教授としよう。その人は、どういう意見を持つ人だろうか? 一つ、問いを出してみたい。
問い:「社会には毎日遊んで暮らしていけるお金持ちもいれば、明日のご飯を食べられるように必死で暮らしている貧乏人もいる。この現実をどう見るか。また、どうすべきか」。もしリベラルな教授がこの題目でエッセイを書くならば、その回答はどうなるか。論旨を要約せよ。
答え:「そのような不平等は許しがたい。社会は平等であるべきだ。毎日遊んでいても暮らしていける人は、必要以上にお金を持っている。この状況は、ぜひ解消しなくてはいけない。そのために、政府が福祉政策を通じて、富を正しく分配し、平等化に努めるべきである」。
ここまで率直な文章を書く教授が実際にいるかは別として、多くの人は頭の中に、上のような内容の回答を思い浮かべたのではないか。あまり評論家や学者たちの論争に馴染みがない人でも、上の回答を見せられ、「これがリベラルな意見だ」と言われると、まあそうだろうなと納得できる人が多いはずである。なぜなら、この回答が、現在の多くの「リベラル」な人たちの考えのエッセンスだからである。現在、リベラリズムと言ったら、多くの人たちは上のような思想を頭に浮かべる。
では、上の考え方はどうリベラル(自由)なのか? 誰が、どのようにして自由になっているのか? 答えに詰まる人が多いはずだ。なぜなら、それらの質問には答えようがないのだ。上に示された発想は、本来の「自由主義」からすると、まったく自由な考え方でもないし、誰も自由になっていない。むしろ、本来の「自由主義」とは正反対の思想ですらある。
この章の題材は、本来の自由主義である。「本来の」というのは、「過去の」という意味ではない。この自由主義は、近代社会を形成する根本的な思想として、今日の世界にも息づいている。しかし混乱を招くことに、現在「リベラル」とみなされる思想との名称上の区別なしに使われることが多い。また「本来の」意味で使われることもある。
名前を区別す場合は、よく元来の自由主義を「古典的自由主義(classical liberalism)」と呼ぶ。しかし、本稿ではそのまま「自由主義」と呼び、現代のいわゆる「リベラルな」考え方をカタカナで「リベラリズム」と呼ぶ。この二者の峻別が、本稿を理解するうえで肝要である。
この章の目的は、自由や平等といった重要概念の分析を通して、自由主義がどのような思想なのかを探ることである。ただし、章の最後や「最後に」でもことわるように、本章で解説するのは自由主義の一つのあり方であって、同じ名前に分類される思想全体の見取り図の作成は意図していない。
2010年5月17日月曜日
【構成~はじめに】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立
2004年秋学期優秀卒業制作(SFC AWARD)受賞
自由主義 vs. 多文化主義
アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立
白井健一郎
総合政策学部4年、70104541
構成
はじめに 3
Ⅰ 自由主義の解剖 5
‐「リベラル」の意味
‐二つの原則
‐モデル
‐権力からの自由
‐権利の平等、法の前の平等
‐ディズニーに検閲はできるか?
‐黒人を拒否するレストラン
‐政府の役割
‐リベラル・デモクラシー
‐功利主義
Ⅱ 多文化主義の解剖 15
‐「多様の統一」ではなく「多様」
‐多文化主義を定義する:三つの視点
‐文化とは属性のこと
‐「多様性」は集団間の結果の平等
‐「差異」と「多様性」は同じ
‐「オリジナル」の原理の不在
‐アファーマティブ・アクション
‐「人種差別解消」から「多様性」へ
‐学校教育
‐多様性トレーニング
‐ポリティカル・コレクトネス
Ⅲ アメリカ政治思想の右左 25
‐保守対リベラル
‐独立宣言の意味
‐保守主義と小さな政府
‐キリスト教
‐国家主権
‐リベラリズムと大きな政府
‐世俗性
‐越境
‐リバータリアニズム
Ⅳ 自由主義から見た多文化主義の問題点 35
‐自由主義 vs. 多文化主義
‐自由と平等
‐個人という単位はどこへ
‐AAと修正第14条
‐最高裁が合憲といえば合憲になるわけではない
Ⅴ 多文化主義から見た自由主義の問題点 40
‐自由主義にも限界がある
‐個人による差別
‐理論と現実
‐理想
‐自由主義とキリスト教
最後に 45
‐批判に答える
‐批判1:実際の社会現象や政治思想は複雑。筆者はそれを単純に整理しようと焦っている
‐批判2:自由主義の定義が狭すぎる
‐その他
‐過程としての自由主義
感謝
参考文献
はじめに
1980年代頃から勢いを持ち始めた多文化主義は、アメリカ社会を動かす大きな原動力である。しかし、誰もがそれを支持しているわけではない。多文化主義をめぐる論争は熾烈である。アメリカの過去と現在をどう捉えるのか、これからアメリカがどう進むべきなのか、といった問いと直結しているからだ。支持者と反対者がともに譲れない哲学を持っており、一歩も引かない。多文化主義者にしても反多文化主義者にしても、発する言論は多くが党派的であり、論争全体を発展させないのはもちろん、下手をすると仲間内の自己満足で終わっている。最初から自分が正しくて敵が間違っていることが決まっているのである。多文化主義者の言葉は多文化主義者だけに向けられていて、反多文化主義者の言葉は反多文化主義者のみが聞いているかのごときである。
このような状況において、多文化主義とそれをめぐる思想的対立を真に理解するためには、一歩引いた位置から全体を観察する必要がある。この作業を叩き台にしなければ、全体の理解はもちろん、賛成と反対を越えた解決策を見出すことはできない。しかし、そのような試みは、意外に少ない。たとえばチャールズ・テイラーはこの分野で古典とされる有名な論文、「承認の政治を考察する(“Examining the Politics of Recognition”)」で「差異の政治」と「尊厳の政治」の対立というモデルを示した。筆者の視点はこれと重なる。だが彼の論文の目的は、多文化主義をめぐる議論の整理というよりは、高度な論理的積み上げによる多文化主義の擁護だった。テイラーの議論自体は並の言論人には及びもつかない質の高さを持つ反面、具体的なアメリカの政治思想対立や、多文化主義が実際にとっている形への言及が不足している。それ以外にも多文化主義をめぐる思想的対立モデルの描写は存在するが、アメリカの保守主義とリベラリズムの対立と直接結びつけその関係を探ろうとする人々は少ないように見受けられる。
また、一般的にいって、政治思想の専門家たちは、政治思想を用いて実際の社会を説明するモデルを作り、一般社会に問うという作業を怠っている。政治思想という学問分野のあり方には二つの潮流があると筆者は考えている。一つは、過去の偉大な古典文献を解釈して図鑑のように比較、分類する作業。もう一つは、特定の思想に立脚した「政治的な」意見を発露する作業。もちろん、それらの作業の重要性については改めて強調するまでもない。しかし、政治思想がどういう意味を持ち、世の中を理解するのにどう役立つのかを発信する作業も重要である。それがなくては、政治思想は、一般社会はもちろん、少しでも違う学問に携わる人々からも、役に立たないものとしてそっぽを向かれてしまう。言うまでもなく、世界に最も強い影響力を持つ国家であるアメリカを理解することは、専門家以外の人々にとっても重要な課題のはずである。そのためには、政治思想を現実社会の現象に当てはめなくてはならない。
本稿の目的は、多文化主義をめぐる現代アメリカの政治思想の対立モデルを提示することである。どういう対立モデルなのか? それは「自由主義 vs. 多文化主義」である。この説明は一見逆説的である。なぜなら、一般的に、アメリカではリベラルたちが多文化主義を支持し、保守たちが反対するからだ。自由主義はリベラリズムの訳語で、それを信じる人たちがリベラル(自由主義者)なのだから、「保守主義 vs. 多文化主義」と言わないとおかしいのではないか? おかしくないのだ。なぜなら、Ⅰ章で説明するように、現代「リベラル」とみなされる思想と本来の自由主義は同じではない。Ⅲ章で明らかになるように、アメリカではリベラルたちよりも保守たちの方が自由主義と強いつながりを持っている。多文化主義に反対する保守たちの後ろ盾は自由主義なのだ。
この論文の目標は、多文化主義の支持あるいは反対を表明することではない。片方が正しく、もう片方が間違っているという結論への予定調和も、こうすれば対立を乗り越えられるという解決策も、用意していない。本稿は、個々の読者が現実を理解したり自分の立場を決めたりするための材料、あるいは議論を発展させるための土台を提供する試みである。
Ⅰ章では、自由主義の特質を浮き彫りにする。主にジョン・ロックの思想を紐解くことで、「自由」が国家権力の干渉からの個人の自由、「平等」が個人を単位とする権利の平等を意味することを明らかにする。自由主義は、社会を国家権力と個人に分け、前者から後者を守る思想なのだ。それが持つ意味を、現代社会の例に当てはめて考察する。
Ⅱ章では、多文化主義を定義し、その理論と実態を探る。世の中に出回っている曖昧な定義を批判的に修正し、多文化主義を「ある国家内における社会集団を単位にした結果の平等を、主に政府の介入を通して上から目指すことを支持する考え方」と定義する。その定義の有効性を、アファーマティブ・アクション、多文化教育、多様性トレーニングなどを考察することで確認する。
Ⅲ章ではアメリカ政治思想の保守主義とリベラリズムの対立像を描く。前者とⅠ章の自由主義、後者とⅡ章の多文化主義とのつながりを明示し、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルの下敷きとする。ヨーロッパでは、権威を擁護するのが保守主義だったが、権威を打ち倒すことで成立したアメリカ合衆国ではその逆の自由主義が伝統となり、保守主義の源流となった。対するリベラリズムは社会主義的な再配分を肯定する思想である。またこの章では、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルから欠け落ちた視点も補う。
Ⅳ章では、まず「自由主義 vs. 多文化主義」モデルを説明した上で、自由主義の視点に立ち、多文化主義を批判する。多文化主義は、自由主義の芯を為す諸理念と真っ向から対立する。国家権力の介入によって社会を改良しようという動きは政府の暴走で、個人の自由を脅かす。人種や民族を単位に社会を分類する発想は個人主義に反するし、集団ごとに権利が異なるのは権利の平等を蹂躙している。
Ⅴ章では、Ⅳ章の逆を行う。つまり、多文化主義の立場から自由主義の問題点をえぐり出す。自由主義には限界がある。その最たるものは、私的領域での差別を解決できないことである。その盲点を突いたのが多文化主義だ。また社会は自由主義が前提とするように個人のみで構成されているわけではない。社会集団を標的にした差別が現に存在するのだ。その上、そもそも自由主義が普遍的な正しさを持っているかどうかも怪しい。
自由主義 vs. 多文化主義
アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立
白井健一郎
総合政策学部4年、70104541
構成
はじめに 3
Ⅰ 自由主義の解剖 5
‐「リベラル」の意味
‐二つの原則
‐モデル
‐権力からの自由
‐権利の平等、法の前の平等
‐ディズニーに検閲はできるか?
‐黒人を拒否するレストラン
‐政府の役割
‐リベラル・デモクラシー
‐功利主義
Ⅱ 多文化主義の解剖 15
‐「多様の統一」ではなく「多様」
‐多文化主義を定義する:三つの視点
‐文化とは属性のこと
‐「多様性」は集団間の結果の平等
‐「差異」と「多様性」は同じ
‐「オリジナル」の原理の不在
‐アファーマティブ・アクション
‐「人種差別解消」から「多様性」へ
‐学校教育
‐多様性トレーニング
‐ポリティカル・コレクトネス
Ⅲ アメリカ政治思想の右左 25
‐保守対リベラル
‐独立宣言の意味
‐保守主義と小さな政府
‐キリスト教
‐国家主権
‐リベラリズムと大きな政府
‐世俗性
‐越境
‐リバータリアニズム
Ⅳ 自由主義から見た多文化主義の問題点 35
‐自由主義 vs. 多文化主義
‐自由と平等
‐個人という単位はどこへ
‐AAと修正第14条
‐最高裁が合憲といえば合憲になるわけではない
Ⅴ 多文化主義から見た自由主義の問題点 40
‐自由主義にも限界がある
‐個人による差別
‐理論と現実
‐理想
‐自由主義とキリスト教
最後に 45
‐批判に答える
‐批判1:実際の社会現象や政治思想は複雑。筆者はそれを単純に整理しようと焦っている
‐批判2:自由主義の定義が狭すぎる
‐その他
‐過程としての自由主義
感謝
参考文献
はじめに
1980年代頃から勢いを持ち始めた多文化主義は、アメリカ社会を動かす大きな原動力である。しかし、誰もがそれを支持しているわけではない。多文化主義をめぐる論争は熾烈である。アメリカの過去と現在をどう捉えるのか、これからアメリカがどう進むべきなのか、といった問いと直結しているからだ。支持者と反対者がともに譲れない哲学を持っており、一歩も引かない。多文化主義者にしても反多文化主義者にしても、発する言論は多くが党派的であり、論争全体を発展させないのはもちろん、下手をすると仲間内の自己満足で終わっている。最初から自分が正しくて敵が間違っていることが決まっているのである。多文化主義者の言葉は多文化主義者だけに向けられていて、反多文化主義者の言葉は反多文化主義者のみが聞いているかのごときである。
このような状況において、多文化主義とそれをめぐる思想的対立を真に理解するためには、一歩引いた位置から全体を観察する必要がある。この作業を叩き台にしなければ、全体の理解はもちろん、賛成と反対を越えた解決策を見出すことはできない。しかし、そのような試みは、意外に少ない。たとえばチャールズ・テイラーはこの分野で古典とされる有名な論文、「承認の政治を考察する(“Examining the Politics of Recognition”)」で「差異の政治」と「尊厳の政治」の対立というモデルを示した。筆者の視点はこれと重なる。だが彼の論文の目的は、多文化主義をめぐる議論の整理というよりは、高度な論理的積み上げによる多文化主義の擁護だった。テイラーの議論自体は並の言論人には及びもつかない質の高さを持つ反面、具体的なアメリカの政治思想対立や、多文化主義が実際にとっている形への言及が不足している。それ以外にも多文化主義をめぐる思想的対立モデルの描写は存在するが、アメリカの保守主義とリベラリズムの対立と直接結びつけその関係を探ろうとする人々は少ないように見受けられる。
また、一般的にいって、政治思想の専門家たちは、政治思想を用いて実際の社会を説明するモデルを作り、一般社会に問うという作業を怠っている。政治思想という学問分野のあり方には二つの潮流があると筆者は考えている。一つは、過去の偉大な古典文献を解釈して図鑑のように比較、分類する作業。もう一つは、特定の思想に立脚した「政治的な」意見を発露する作業。もちろん、それらの作業の重要性については改めて強調するまでもない。しかし、政治思想がどういう意味を持ち、世の中を理解するのにどう役立つのかを発信する作業も重要である。それがなくては、政治思想は、一般社会はもちろん、少しでも違う学問に携わる人々からも、役に立たないものとしてそっぽを向かれてしまう。言うまでもなく、世界に最も強い影響力を持つ国家であるアメリカを理解することは、専門家以外の人々にとっても重要な課題のはずである。そのためには、政治思想を現実社会の現象に当てはめなくてはならない。
本稿の目的は、多文化主義をめぐる現代アメリカの政治思想の対立モデルを提示することである。どういう対立モデルなのか? それは「自由主義 vs. 多文化主義」である。この説明は一見逆説的である。なぜなら、一般的に、アメリカではリベラルたちが多文化主義を支持し、保守たちが反対するからだ。自由主義はリベラリズムの訳語で、それを信じる人たちがリベラル(自由主義者)なのだから、「保守主義 vs. 多文化主義」と言わないとおかしいのではないか? おかしくないのだ。なぜなら、Ⅰ章で説明するように、現代「リベラル」とみなされる思想と本来の自由主義は同じではない。Ⅲ章で明らかになるように、アメリカではリベラルたちよりも保守たちの方が自由主義と強いつながりを持っている。多文化主義に反対する保守たちの後ろ盾は自由主義なのだ。
この論文の目標は、多文化主義の支持あるいは反対を表明することではない。片方が正しく、もう片方が間違っているという結論への予定調和も、こうすれば対立を乗り越えられるという解決策も、用意していない。本稿は、個々の読者が現実を理解したり自分の立場を決めたりするための材料、あるいは議論を発展させるための土台を提供する試みである。
Ⅰ章では、自由主義の特質を浮き彫りにする。主にジョン・ロックの思想を紐解くことで、「自由」が国家権力の干渉からの個人の自由、「平等」が個人を単位とする権利の平等を意味することを明らかにする。自由主義は、社会を国家権力と個人に分け、前者から後者を守る思想なのだ。それが持つ意味を、現代社会の例に当てはめて考察する。
Ⅱ章では、多文化主義を定義し、その理論と実態を探る。世の中に出回っている曖昧な定義を批判的に修正し、多文化主義を「ある国家内における社会集団を単位にした結果の平等を、主に政府の介入を通して上から目指すことを支持する考え方」と定義する。その定義の有効性を、アファーマティブ・アクション、多文化教育、多様性トレーニングなどを考察することで確認する。
Ⅲ章ではアメリカ政治思想の保守主義とリベラリズムの対立像を描く。前者とⅠ章の自由主義、後者とⅡ章の多文化主義とのつながりを明示し、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルの下敷きとする。ヨーロッパでは、権威を擁護するのが保守主義だったが、権威を打ち倒すことで成立したアメリカ合衆国ではその逆の自由主義が伝統となり、保守主義の源流となった。対するリベラリズムは社会主義的な再配分を肯定する思想である。またこの章では、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルから欠け落ちた視点も補う。
Ⅳ章では、まず「自由主義 vs. 多文化主義」モデルを説明した上で、自由主義の視点に立ち、多文化主義を批判する。多文化主義は、自由主義の芯を為す諸理念と真っ向から対立する。国家権力の介入によって社会を改良しようという動きは政府の暴走で、個人の自由を脅かす。人種や民族を単位に社会を分類する発想は個人主義に反するし、集団ごとに権利が異なるのは権利の平等を蹂躙している。
Ⅴ章では、Ⅳ章の逆を行う。つまり、多文化主義の立場から自由主義の問題点をえぐり出す。自由主義には限界がある。その最たるものは、私的領域での差別を解決できないことである。その盲点を突いたのが多文化主義だ。また社会は自由主義が前提とするように個人のみで構成されているわけではない。社会集団を標的にした差別が現に存在するのだ。その上、そもそも自由主義が普遍的な正しさを持っているかどうかも怪しい。
2010年5月12日水曜日
構想走り書き(2004年9月2日執筆)
大学生時代の卒論構想。当時の個人的メモ。
俺は来学期、卒業論文を書く予定だ。何を書くかは、ちょっと前から考えていて、メモ帳を作って、時間があったときに何回かに分けて、ブレイン・ストーミング的に、思いつくままに構想(内容の案)を書いていた。自分に語りかけながら考えていった。別にこれで思考が完結したわけでもないのだが、ちょっと修正して、丸ごと載せる。こうやって、別にまとまった文章を書こうと意気込まないで書いた方が筆が進む。
●論文の目的は?
多文化主義がリベラル・デモクラシーの原理といかに相容れないかを検証すること。仮タイトル:「リベラル・デモクラシーの敵としての多文化主義 Multiculturalism as an Enemy of Liberal Democracy」。
俺は2003年春学期に「アメリカの保守主義から見たアファーマティブ・アクションの問題点」というペーパーを書いた。その究極の目的は、自由主義(そしてアメリカの保守主義)から見た多文化主義の問題点を、アファーマティブ・アクションという事例を通して分析することだった。
しかし、どうもアファーマティブ・アクションという事例を超えて多文化主義そのものまで問題をえぐることができなかった。それが今考えると少し心残り。だから、今回はある意味で、そのペーパーの拡張版を書きたい。なしえなかったことを補完して、自分の大学生活の思考の集大成としたい。
●まず、多文化主義とは?
これが普通の定義だ。「一つの社会あるいは国家の中における複数の文化の共存を目指す思想」。
しかし、これでは本質が分からない。なぜなら、「誰が」その「共存を目指す」のかが分からないからだ。この定義では、人々が勝手に自分の頭の中だけで文化相対主義を信じているだけで「多文化主義」になる。
だが、多文化主義は単に個人の内面の問題ではない。文化相対主義は、多文化主義の前提にはなるだろうが、多文化主義そのものではない。
そこで、俺はこの定義を提示したい。「政府の介入を通して社会における集団的な結果の平等を目指すことを支持する考え方」。つまり、複数の文化の共存を目指すのは、政府なのだ。社会を文化によって分けて、それらの平等を政策によって実現しようとするのが多文化主義だ。その際の分類は主に人種、民族だ。(ここでのとてつもなく重要なキーワードが多様性(diversity)だ。最近読んだ"Diversity: The Invention of a Concept"は力作だった。その本の著者もdiversityが主に対象にするのはraceだと言っていた。
平等とは、さっきちらっと言ったように、結果の平等。(平等には、権利、機会、結果の三段階がある、デイヴィッド・ボウツ曰く。)
*多文化主義の定義や内容については、いくつか文献(特に支持者が書いたもの)を見ておく必要がある。
●リベラル・デモクラシーとは?
まず、多くの日本人は「民主主義」という言葉を使うが、民主主義という思想はないんだ。この訳語は有害で、誤解を招く。
我々が「民主主義」と呼ぶものは、自由主義とデモクラシーに分けることができる。前者が思想で、後者は政治制度。前者を土台に後者が存在するのが近代デモクラシー。リベラル・デモクラシーと言われる。自由民主主義と訳されている。これらをしっかり区別するのが大事なんだ。
自由主義とは、国家権力の干渉から、個人の自由、財産、生命を守ること。根底にあるのが、人はみな平等で奪えない権利を持つのだから(生まれつき。自然権)、人が人を支配することはできない。だから政府は認めても最小限。その役割は人々の権利を守ること。そして外敵から守ること。極端な場合は無政府主義。積極的な政治参加にはどう考えてもつながらない。「政治からの自由」。
経済がすべて。バーナード・クリックが言っていたように、「自由主義者にとってのマスター・サイエンスは経済学」。「政治が悪いから経済がよくない」んじゃない。「政府が個人の競争に干渉するから経済がよくない」、「政治がある(ありすぎる)から経済がよくない」んだ。小室直樹も『田中角栄の呪い』で儒教倫理と相反するものとして説明していた。夜警国家。
自由主義の反対が権威主義だ。大きな政府→社会主義、共産主義。
*自然権という概念について、改めて学ぶ必要がある。ロックはちょっとしか言っていないから。レオ・シュトラウスがよさげな本を書いていた。
俺は来学期、卒業論文を書く予定だ。何を書くかは、ちょっと前から考えていて、メモ帳を作って、時間があったときに何回かに分けて、ブレイン・ストーミング的に、思いつくままに構想(内容の案)を書いていた。自分に語りかけながら考えていった。別にこれで思考が完結したわけでもないのだが、ちょっと修正して、丸ごと載せる。こうやって、別にまとまった文章を書こうと意気込まないで書いた方が筆が進む。
●論文の目的は?
多文化主義がリベラル・デモクラシーの原理といかに相容れないかを検証すること。仮タイトル:「リベラル・デモクラシーの敵としての多文化主義 Multiculturalism as an Enemy of Liberal Democracy」。
俺は2003年春学期に「アメリカの保守主義から見たアファーマティブ・アクションの問題点」というペーパーを書いた。その究極の目的は、自由主義(そしてアメリカの保守主義)から見た多文化主義の問題点を、アファーマティブ・アクションという事例を通して分析することだった。
しかし、どうもアファーマティブ・アクションという事例を超えて多文化主義そのものまで問題をえぐることができなかった。それが今考えると少し心残り。だから、今回はある意味で、そのペーパーの拡張版を書きたい。なしえなかったことを補完して、自分の大学生活の思考の集大成としたい。
●まず、多文化主義とは?
これが普通の定義だ。「一つの社会あるいは国家の中における複数の文化の共存を目指す思想」。
しかし、これでは本質が分からない。なぜなら、「誰が」その「共存を目指す」のかが分からないからだ。この定義では、人々が勝手に自分の頭の中だけで文化相対主義を信じているだけで「多文化主義」になる。
だが、多文化主義は単に個人の内面の問題ではない。文化相対主義は、多文化主義の前提にはなるだろうが、多文化主義そのものではない。
そこで、俺はこの定義を提示したい。「政府の介入を通して社会における集団的な結果の平等を目指すことを支持する考え方」。つまり、複数の文化の共存を目指すのは、政府なのだ。社会を文化によって分けて、それらの平等を政策によって実現しようとするのが多文化主義だ。その際の分類は主に人種、民族だ。(ここでのとてつもなく重要なキーワードが多様性(diversity)だ。最近読んだ"Diversity: The Invention of a Concept"は力作だった。その本の著者もdiversityが主に対象にするのはraceだと言っていた。
平等とは、さっきちらっと言ったように、結果の平等。(平等には、権利、機会、結果の三段階がある、デイヴィッド・ボウツ曰く。)
*多文化主義の定義や内容については、いくつか文献(特に支持者が書いたもの)を見ておく必要がある。
●リベラル・デモクラシーとは?
まず、多くの日本人は「民主主義」という言葉を使うが、民主主義という思想はないんだ。この訳語は有害で、誤解を招く。
我々が「民主主義」と呼ぶものは、自由主義とデモクラシーに分けることができる。前者が思想で、後者は政治制度。前者を土台に後者が存在するのが近代デモクラシー。リベラル・デモクラシーと言われる。自由民主主義と訳されている。これらをしっかり区別するのが大事なんだ。
自由主義とは、国家権力の干渉から、個人の自由、財産、生命を守ること。根底にあるのが、人はみな平等で奪えない権利を持つのだから(生まれつき。自然権)、人が人を支配することはできない。だから政府は認めても最小限。その役割は人々の権利を守ること。そして外敵から守ること。極端な場合は無政府主義。積極的な政治参加にはどう考えてもつながらない。「政治からの自由」。
経済がすべて。バーナード・クリックが言っていたように、「自由主義者にとってのマスター・サイエンスは経済学」。「政治が悪いから経済がよくない」んじゃない。「政府が個人の競争に干渉するから経済がよくない」、「政治がある(ありすぎる)から経済がよくない」んだ。小室直樹も『田中角栄の呪い』で儒教倫理と相反するものとして説明していた。夜警国家。
自由主義の反対が権威主義だ。大きな政府→社会主義、共産主義。
*自然権という概念について、改めて学ぶ必要がある。ロックはちょっとしか言っていないから。レオ・シュトラウスがよさげな本を書いていた。
人間社会の差別と平等について思うこと(3) (2004年6月22日執筆)
●平等の意味
現在の自分が考える、平等な社会の定義は、「大多数の人間が納得するやり方で差別が存在している社会」だ。これはどういうことかというと、いかなる平等も、必ず何らかの差別に基づかなければ成立しない、ということだ。つまり、差別は平等のための必要条件である。
たしかにそうだ。平等と一口に言っても、「機会の平等」「結果の平等」のように、「~~の」という形でしか存在しえないのだから。その「~~」の部分を差別の材料にしなければ、平等という概念は実体を持てない。
差別の材料に何を使うかで、その中身はまったく異なる。機会の平等と結果の平等の違いは、資本主義と社会主義の違いだ。根本にどのような哲学、価値観を持ち、それを差別の材料にするかで、平等の意味は変わる。
だから、平等とは、差別がない状態ではない。平等とは、皆が納得する基準で差別をすることである。皆が認める基準なので、差別に見えないだけだ。その基準が何かは、時代や社会によって変わるだろう。たしかに、こう考えることもできる。つまり、個人を尊重するのが普遍的な価値で、それは時代や社会を問わない。徐々にその普遍的な価値の実現に向けて進んでいる現状が、差別がなくなっているということだ。しかし、それも個人主義というフィルターを通した見方でしかない。個人主義が正しいという前提なしでは成り立たない。
今は、その個人主義が世界的に(?)優勢になっている。過剰な個人主義が批判されることはあっても、少なくとも欧米や日本では、個人を尊重し、権利の平等を推進する考えそれ自体が、大きな反発を受けることはない。社会の大多数が、個人主義という基準を通した差別を肯定する。それが、平等と呼ばれるのだ。
●自分の限界/可能性を知るということ
だから、平等な社会なら誰でも同じようにチャンスがあるわけではない。生まれつきの能力とそれを上げる力が異なるのだから。
もし、すべての人々が、まったく同じ能力を持ちうるのなら、社会は成り立たない。たとえば、子供達にアンケートをとって、回答者全員がサッカー選手になりたいと答えたとする。
それで全員サッカー選手として同じレベルに到達することが可能だったらどうするよ。サッカー選手なんて、ゴマンとある社会の機能の中の一つにすぎないのに、そこに多くの人が集中しうる状況が発生したら、他の機能を果たす人が足りなくなる。
もちろん、全員というのはありえないが、実際のアンケートでも、特定の職業に人気が集中するのはご存知の通りだ。ところが、その集計結果は、実際に彼らが就く職業を正しく反映しない。
何が起きたんだろうか。単に、彼らが希望や趣向を変えただけだろうか。それもあるだろうが、それだけではない。成長するにしたがって、何かに気付かされるのだ。単なる、「やればできる」という次元の台詞では説明できない、何かに。人をして諦めさせる、何かに。自分について考えて、思い当たるフシがない人はほとんどいないんじゃないかな?
時として、諦める、自分の能力の限界を知る、自分が何かに向いていないことに気付く、ということが、厳しいことだが、人生では大事なんだと思う。これは裏を返すと、自分の可能性に気付く、自分が何に向いているかを知ることでもある。それが生きていて一番難しいことの一つかもしれない。
要するに、人には色んな能力、色んな適性がある。人には向き不向きがあり、出来ることもあれば、出来ないこともある。
それが、色々な仕事を生む。仕事とは、社会における人の役割だ。つまり、多くの仕事とは多くの役割のことだ。数多くの役割が存在することが、社会におけるさまざまな欲求と需要が満たされることにつながる。そうやって、社会は回ってるんだと思う。職業によって社会的評価や待遇が違うし、それが差別、社会の階層化を生むものだが、人間が集まって社会を作る以上、それらは避けられないことなのだろう。
現在の自分が考える、平等な社会の定義は、「大多数の人間が納得するやり方で差別が存在している社会」だ。これはどういうことかというと、いかなる平等も、必ず何らかの差別に基づかなければ成立しない、ということだ。つまり、差別は平等のための必要条件である。
たしかにそうだ。平等と一口に言っても、「機会の平等」「結果の平等」のように、「~~の」という形でしか存在しえないのだから。その「~~」の部分を差別の材料にしなければ、平等という概念は実体を持てない。
差別の材料に何を使うかで、その中身はまったく異なる。機会の平等と結果の平等の違いは、資本主義と社会主義の違いだ。根本にどのような哲学、価値観を持ち、それを差別の材料にするかで、平等の意味は変わる。
だから、平等とは、差別がない状態ではない。平等とは、皆が納得する基準で差別をすることである。皆が認める基準なので、差別に見えないだけだ。その基準が何かは、時代や社会によって変わるだろう。たしかに、こう考えることもできる。つまり、個人を尊重するのが普遍的な価値で、それは時代や社会を問わない。徐々にその普遍的な価値の実現に向けて進んでいる現状が、差別がなくなっているということだ。しかし、それも個人主義というフィルターを通した見方でしかない。個人主義が正しいという前提なしでは成り立たない。
今は、その個人主義が世界的に(?)優勢になっている。過剰な個人主義が批判されることはあっても、少なくとも欧米や日本では、個人を尊重し、権利の平等を推進する考えそれ自体が、大きな反発を受けることはない。社会の大多数が、個人主義という基準を通した差別を肯定する。それが、平等と呼ばれるのだ。
●自分の限界/可能性を知るということ
だから、平等な社会なら誰でも同じようにチャンスがあるわけではない。生まれつきの能力とそれを上げる力が異なるのだから。
もし、すべての人々が、まったく同じ能力を持ちうるのなら、社会は成り立たない。たとえば、子供達にアンケートをとって、回答者全員がサッカー選手になりたいと答えたとする。
それで全員サッカー選手として同じレベルに到達することが可能だったらどうするよ。サッカー選手なんて、ゴマンとある社会の機能の中の一つにすぎないのに、そこに多くの人が集中しうる状況が発生したら、他の機能を果たす人が足りなくなる。
もちろん、全員というのはありえないが、実際のアンケートでも、特定の職業に人気が集中するのはご存知の通りだ。ところが、その集計結果は、実際に彼らが就く職業を正しく反映しない。
何が起きたんだろうか。単に、彼らが希望や趣向を変えただけだろうか。それもあるだろうが、それだけではない。成長するにしたがって、何かに気付かされるのだ。単なる、「やればできる」という次元の台詞では説明できない、何かに。人をして諦めさせる、何かに。自分について考えて、思い当たるフシがない人はほとんどいないんじゃないかな?
時として、諦める、自分の能力の限界を知る、自分が何かに向いていないことに気付く、ということが、厳しいことだが、人生では大事なんだと思う。これは裏を返すと、自分の可能性に気付く、自分が何に向いているかを知ることでもある。それが生きていて一番難しいことの一つかもしれない。
要するに、人には色んな能力、色んな適性がある。人には向き不向きがあり、出来ることもあれば、出来ないこともある。
それが、色々な仕事を生む。仕事とは、社会における人の役割だ。つまり、多くの仕事とは多くの役割のことだ。数多くの役割が存在することが、社会におけるさまざまな欲求と需要が満たされることにつながる。そうやって、社会は回ってるんだと思う。職業によって社会的評価や待遇が違うし、それが差別、社会の階層化を生むものだが、人間が集まって社会を作る以上、それらは避けられないことなのだろう。
人間社会の差別と平等について思うこと(2) (2004年6月22日執筆)
●空気の入っていない風船
能力差別を肯定する論拠があるなら、それはこれにつきるだろう。つまり、性別や人種は生まれつき決まっていて、個人の意思で変える性質のものではない。それに対して、能力は生後の努力で向上させることができる。だから、能力差別は許される。
これは、ある程度説得的である。何の世界でもいい、世界レベルで活躍している人を思い浮かべてみると、ほぼ例外なく、努力によって能力を磨いてきた人たちだ。たとえば、もし中田英寿が、生まれてからサッカーをせずに生きてきたら、今のようなサッカー選手になれなかったのは明瞭だ。だから、能力は、生まれつき決まっている人種や性別と完全に同じではない。
しかし、どこまでが「生まれつき決まっていない」のだろうか。これは難しい問いだ。いや、もちろん、生まれてこの方サッカーをやったことない奴が、20歳になって突然プロ契約を結んで代表に入って、なんて馬鹿げた話はありえない。人の能力は、生まれてから何をするかで、明らかに違ってくる。
しかし、だからと言って、生まれた時点で皆スタートラインが一緒で、そこからの条件(環境も含めて)がすべてを決めるとは思わない。
俺はこう考えている:人はそれぞれ、能力の限界や方向が決まっていて、生まれてからの努力で決められるのは、そこに何をどれくらい入れるかに過ぎないのではないか。努力する力も、人によって違うのではないか。
つまり、たとえるならば、人は生まれた時点では、空気の入っていない風船なのだ。それも、空気を注入した結果、どういう形になるかは人によって違う。大きさも異なる。そして、空気を入れる能力も、人によって違う。そして、先ほどのスタートラインという比喩を使うなら、そもそも人は、同じレースに参加するためのラインに立っているすら疑わしいのだ。
●身体と精神
人は、身体と精神に分けることができる。身体に関しては、人によって、身長にせよ、容姿にせよ、動体視力にせよ、生まれた時点で条件が異なっていて、それが何らかの格差を生み出していることは、あまりに自明だ。だから、たとえば容姿で悩んでいる女性に「あなたも努力次第で彼女と同じくらい美しくなれる」と言ったり、運動神経が鈍くて足の遅い小学生に対して、「お前がみんなに負けているのは努力が足りなかったからだ。これからの練習次第でいくらでも速くなる」と言ったりするのには、さすがにどんな偽善者でも多少はためらいを覚えるだろう。
精神も、身体と同じくらい不平等なのではないか。精神が体と違うのは、「お前だってがんばれば」式のレトリックが通用しやすいことだ。なぜだろうか。それは、精神が体と違って見えないからだ。ある女性が「美人」か「ブス」か、男性が「カッコイイ」か「キモい」(?)かは、誰でも(もちろん人によって判断尺度は異なるが)見るだけで判断できる(個人レベルで考えると、あなたはすべての異性に対してまったく同じように接しているだろうか?)。容姿は主観が入るし化粧とかの技術も入ってくるけど、身長となると完全に数字の問題だ。
しかし、頭がいいか悪いかは、見ただけでは分からない。人は知識を生まれつき持っているわけではない。たとえば、いくら頭が悪くて知識の少ない人でも、生まれたばかりの天才よりは知識が多いだろう! それが話を難しくする。はっきりとは分からない。だが、身体が不平等で、精神だけがなぜか平等、なんてありうるのだろうか。ありえないだろう。どれだけ賢くなれるかは、生まれつき決まっていると思う。知性を発揮できる方向も、人によって違うと思う。
忘れて欲しくないが、俺がここで話しているのは、単に能力の高さだけについてだけじゃない。志向、方向の問題でもある。つまり、運動が得意な奴もいれば、頭を使うのが得意な奴もいる。運動の中でも、たとえばサッカーという競技に限っても、GKで開花する人もいれば、FWで大成する人もいる。頭を使うと一言で言っても、数字を扱うのが得意な人もいれば、哲学的概念をこねくりまわすのに適性を見つける人もいる。複数の適性を高い次元で持つ人もいる。
そういう視点から見れば、むしろ、すべての人が生まれた時点で白紙で、それからどうするかで結果が決まると考える方がおかしい。もしそうなら、時代とか適応する社会によって、人間というもの自体の性質が大きく変わってしまうだろう。
「あなたもやればできる」というのは、裏返して言えば、やっていないからできていない、つまり「お前は努力が足りないから他の人より劣った結果を得ているんだ」ということだ。でも、人によってできること、得意なことは違うんだから、一律に「できる」なんて言うのは、ものすごく残酷でありうる。むやみに、考えずに使うべき言葉ではない、と思う。
能力差別を肯定する論拠があるなら、それはこれにつきるだろう。つまり、性別や人種は生まれつき決まっていて、個人の意思で変える性質のものではない。それに対して、能力は生後の努力で向上させることができる。だから、能力差別は許される。
これは、ある程度説得的である。何の世界でもいい、世界レベルで活躍している人を思い浮かべてみると、ほぼ例外なく、努力によって能力を磨いてきた人たちだ。たとえば、もし中田英寿が、生まれてからサッカーをせずに生きてきたら、今のようなサッカー選手になれなかったのは明瞭だ。だから、能力は、生まれつき決まっている人種や性別と完全に同じではない。
しかし、どこまでが「生まれつき決まっていない」のだろうか。これは難しい問いだ。いや、もちろん、生まれてこの方サッカーをやったことない奴が、20歳になって突然プロ契約を結んで代表に入って、なんて馬鹿げた話はありえない。人の能力は、生まれてから何をするかで、明らかに違ってくる。
しかし、だからと言って、生まれた時点で皆スタートラインが一緒で、そこからの条件(環境も含めて)がすべてを決めるとは思わない。
俺はこう考えている:人はそれぞれ、能力の限界や方向が決まっていて、生まれてからの努力で決められるのは、そこに何をどれくらい入れるかに過ぎないのではないか。努力する力も、人によって違うのではないか。
つまり、たとえるならば、人は生まれた時点では、空気の入っていない風船なのだ。それも、空気を注入した結果、どういう形になるかは人によって違う。大きさも異なる。そして、空気を入れる能力も、人によって違う。そして、先ほどのスタートラインという比喩を使うなら、そもそも人は、同じレースに参加するためのラインに立っているすら疑わしいのだ。
●身体と精神
人は、身体と精神に分けることができる。身体に関しては、人によって、身長にせよ、容姿にせよ、動体視力にせよ、生まれた時点で条件が異なっていて、それが何らかの格差を生み出していることは、あまりに自明だ。だから、たとえば容姿で悩んでいる女性に「あなたも努力次第で彼女と同じくらい美しくなれる」と言ったり、運動神経が鈍くて足の遅い小学生に対して、「お前がみんなに負けているのは努力が足りなかったからだ。これからの練習次第でいくらでも速くなる」と言ったりするのには、さすがにどんな偽善者でも多少はためらいを覚えるだろう。
精神も、身体と同じくらい不平等なのではないか。精神が体と違うのは、「お前だってがんばれば」式のレトリックが通用しやすいことだ。なぜだろうか。それは、精神が体と違って見えないからだ。ある女性が「美人」か「ブス」か、男性が「カッコイイ」か「キモい」(?)かは、誰でも(もちろん人によって判断尺度は異なるが)見るだけで判断できる(個人レベルで考えると、あなたはすべての異性に対してまったく同じように接しているだろうか?)。容姿は主観が入るし化粧とかの技術も入ってくるけど、身長となると完全に数字の問題だ。
しかし、頭がいいか悪いかは、見ただけでは分からない。人は知識を生まれつき持っているわけではない。たとえば、いくら頭が悪くて知識の少ない人でも、生まれたばかりの天才よりは知識が多いだろう! それが話を難しくする。はっきりとは分からない。だが、身体が不平等で、精神だけがなぜか平等、なんてありうるのだろうか。ありえないだろう。どれだけ賢くなれるかは、生まれつき決まっていると思う。知性を発揮できる方向も、人によって違うと思う。
忘れて欲しくないが、俺がここで話しているのは、単に能力の高さだけについてだけじゃない。志向、方向の問題でもある。つまり、運動が得意な奴もいれば、頭を使うのが得意な奴もいる。運動の中でも、たとえばサッカーという競技に限っても、GKで開花する人もいれば、FWで大成する人もいる。頭を使うと一言で言っても、数字を扱うのが得意な人もいれば、哲学的概念をこねくりまわすのに適性を見つける人もいる。複数の適性を高い次元で持つ人もいる。
そういう視点から見れば、むしろ、すべての人が生まれた時点で白紙で、それからどうするかで結果が決まると考える方がおかしい。もしそうなら、時代とか適応する社会によって、人間というもの自体の性質が大きく変わってしまうだろう。
「あなたもやればできる」というのは、裏返して言えば、やっていないからできていない、つまり「お前は努力が足りないから他の人より劣った結果を得ているんだ」ということだ。でも、人によってできること、得意なことは違うんだから、一律に「できる」なんて言うのは、ものすごく残酷でありうる。むやみに、考えずに使うべき言葉ではない、と思う。
人間社会の差別と平等について思うこと(1) (2004年6月22日執筆)
●そもそも差別とは何か
「差別」と聞くと、誰でも悪いイメージを受けると思う。差別はよくないと言われて、または、差別をなくすべきだと言われて、真っ向から反論する人はいないだろう。反論したら、その人は相当な変人として扱われて、のけ者にされるだろう。差別がよくないという主張には、反論の余地がないように見える。
しかし、誰も反対できないような考えこそ、一度疑ってみる価値がある。思わぬ盲点が見つかるかもしれないからだ。
誤解しないで欲しい。別に俺は、差別はいいことだとか、差別に賛成だとか、そういう次元の話をしているんじゃない。考えているのは、もっと根本的なことだ。つまり、そもそも差別がいい・悪いの問題なのか?ということだ。
一見、悪いに決まってるように思える。差別と聞いて人々が思い起こすものと言えば、人種差別、性差別、宗教差別、学歴差別・・・。眉間にシワを寄せたくなるような言葉たちだ。それがいい・悪いの問題じゃないって? じゃあ何なんだ?
落ち着いて欲しい。俺がここで言ってる「差別」は、そういう特定の差別のことではない。人間社会における、差別一般のことだ。つまり、すべての形の差別だ。
それを説明するには、差別という言葉を広く包括する定義が必要だ。そこで、ここでは「人間社会における差別」をこう定義する。「ある人が、ある基準を元に人を評価し、序列を作り、それをもとに選別(選択/排除)を行い、それにしたがって異なった扱いを与えること」。
たとえば、人種差別なら、人種を基準にして人を見て、たとえば白人が上で黒人がそれより下だったら、白人であることを黒人であることより高く評価し、白人を優遇することだ。性差別なら、性別というフィルターを通して人を見て、たとえば男性が女性より上とみなして、男性を女性より有利に扱うことだ。つまり、差別とは、ある角度から人を切り取り、それを基準にして評価し、扱うことだ。
●「差別がない社会」はありえない
この定義にしたがって差別を見ると、差別をいいとか悪いとか言って、それで終わらせるのは、表面的であまり意味がないことが分かる。なぜなら、人間であるということは、差別をするということだからだ。差別をしなければ、人間ではない。人間社会そのものが、差別によって成り立っている。最近、これは、最近、俺が到達した確信だ。
逆を考えてみるといい。差別をしないとはどういうことか。それは、あなたが人を評価する基準を何も持たず、何の序列も作らず、扱いを変えないことだ。言い換えると、差別をしないとは、価値観を持たないことである。価値観を持たないことは、考えないことである。なぜなら、いかなる考えも、何らかの哲学(価値判断の最終的なよりどころ)がないと成立しないからだ。考えないということは、人間ではなくなるということである。
たしかに、女性への差別、黒人への差別といった、特定の差別は、時代とか社会によって度合いや内容が異なるし、減らすこともできるだろう。しかし、差別一般は、絶対になくすことはできない。もしかしたら、減らすことすらできないのかもしれない。
差別のない社会とは何だろうか。多くの人が考えるには、それは、人が、人種、性別、信条、肌の色、出身国といった要素に関係なく、平等に評価されることだろう。では、「平等」に評価する、とはどういう意味だろうか。それは、人を見る際に、個人の能力だけを判断材料にする、ということだ。就職活動をしているときにも何回か聞いたよ。たとえば外資系メーカーの説明会で人事担当者が「うちは性別・人種などに関係なく活躍できる場所です」なんて言ってたな。
しかし、仮にそんな会社があったとして、そこでは差別がないのだろうか? ここでいう差別の意味は前に定義してあることをお忘れなく。「差別のない」会社は、社員を能力にしたがって序列付け、それを元に異なった額の給料を与えるだろう。つまり、差別をなくしたい人々が目指す「差別のない」社会とは、冷酷な「能力差別社会」に他ならない。それが、差別をなくしたい(と思っている)人たちの理想の、論理的帰結である。
つまり、差別はなくなっていない。人種や性別による差別にかわって、能力による差別が登場したのである。社会に何らかの競争があるなら、何らかの序列をつけなくてはいけない。そのためには差別が必要なのだ。
ここで問題なのは、人種や性別をもとにした差別と、能力をもとにした差別がどれほど違うのか、という点である。これが決定的に重要である。つまり、能力差別を正当化できるだけの相違が、この両者にはあるのだろうか。
残念ながら、今の自分ではそれにはっきりとした答えを出すことはできない。でも、今の仮説的な考えを、思い込みや勘違いが入っていることを承知で、言い切ってしまうことにする。どうせ、この問題を論じるのに必要な科学的知識なんて持ち合わせてないんだから。
「差別」と聞くと、誰でも悪いイメージを受けると思う。差別はよくないと言われて、または、差別をなくすべきだと言われて、真っ向から反論する人はいないだろう。反論したら、その人は相当な変人として扱われて、のけ者にされるだろう。差別がよくないという主張には、反論の余地がないように見える。
しかし、誰も反対できないような考えこそ、一度疑ってみる価値がある。思わぬ盲点が見つかるかもしれないからだ。
誤解しないで欲しい。別に俺は、差別はいいことだとか、差別に賛成だとか、そういう次元の話をしているんじゃない。考えているのは、もっと根本的なことだ。つまり、そもそも差別がいい・悪いの問題なのか?ということだ。
一見、悪いに決まってるように思える。差別と聞いて人々が思い起こすものと言えば、人種差別、性差別、宗教差別、学歴差別・・・。眉間にシワを寄せたくなるような言葉たちだ。それがいい・悪いの問題じゃないって? じゃあ何なんだ?
落ち着いて欲しい。俺がここで言ってる「差別」は、そういう特定の差別のことではない。人間社会における、差別一般のことだ。つまり、すべての形の差別だ。
それを説明するには、差別という言葉を広く包括する定義が必要だ。そこで、ここでは「人間社会における差別」をこう定義する。「ある人が、ある基準を元に人を評価し、序列を作り、それをもとに選別(選択/排除)を行い、それにしたがって異なった扱いを与えること」。
たとえば、人種差別なら、人種を基準にして人を見て、たとえば白人が上で黒人がそれより下だったら、白人であることを黒人であることより高く評価し、白人を優遇することだ。性差別なら、性別というフィルターを通して人を見て、たとえば男性が女性より上とみなして、男性を女性より有利に扱うことだ。つまり、差別とは、ある角度から人を切り取り、それを基準にして評価し、扱うことだ。
●「差別がない社会」はありえない
この定義にしたがって差別を見ると、差別をいいとか悪いとか言って、それで終わらせるのは、表面的であまり意味がないことが分かる。なぜなら、人間であるということは、差別をするということだからだ。差別をしなければ、人間ではない。人間社会そのものが、差別によって成り立っている。最近、これは、最近、俺が到達した確信だ。
逆を考えてみるといい。差別をしないとはどういうことか。それは、あなたが人を評価する基準を何も持たず、何の序列も作らず、扱いを変えないことだ。言い換えると、差別をしないとは、価値観を持たないことである。価値観を持たないことは、考えないことである。なぜなら、いかなる考えも、何らかの哲学(価値判断の最終的なよりどころ)がないと成立しないからだ。考えないということは、人間ではなくなるということである。
たしかに、女性への差別、黒人への差別といった、特定の差別は、時代とか社会によって度合いや内容が異なるし、減らすこともできるだろう。しかし、差別一般は、絶対になくすことはできない。もしかしたら、減らすことすらできないのかもしれない。
差別のない社会とは何だろうか。多くの人が考えるには、それは、人が、人種、性別、信条、肌の色、出身国といった要素に関係なく、平等に評価されることだろう。では、「平等」に評価する、とはどういう意味だろうか。それは、人を見る際に、個人の能力だけを判断材料にする、ということだ。就職活動をしているときにも何回か聞いたよ。たとえば外資系メーカーの説明会で人事担当者が「うちは性別・人種などに関係なく活躍できる場所です」なんて言ってたな。
しかし、仮にそんな会社があったとして、そこでは差別がないのだろうか? ここでいう差別の意味は前に定義してあることをお忘れなく。「差別のない」会社は、社員を能力にしたがって序列付け、それを元に異なった額の給料を与えるだろう。つまり、差別をなくしたい人々が目指す「差別のない」社会とは、冷酷な「能力差別社会」に他ならない。それが、差別をなくしたい(と思っている)人たちの理想の、論理的帰結である。
つまり、差別はなくなっていない。人種や性別による差別にかわって、能力による差別が登場したのである。社会に何らかの競争があるなら、何らかの序列をつけなくてはいけない。そのためには差別が必要なのだ。
ここで問題なのは、人種や性別をもとにした差別と、能力をもとにした差別がどれほど違うのか、という点である。これが決定的に重要である。つまり、能力差別を正当化できるだけの相違が、この両者にはあるのだろうか。
残念ながら、今の自分ではそれにはっきりとした答えを出すことはできない。でも、今の仮説的な考えを、思い込みや勘違いが入っていることを承知で、言い切ってしまうことにする。どうせ、この問題を論じるのに必要な科学的知識なんて持ち合わせてないんだから。
2010年5月9日日曜日
就職活動:今と昔(2004年2月15日執筆)
俺は、就職について考えるにあたって、たまに父の助言をもらっている。何せ、父は、社会に出て数十年間、金を稼いで、家庭を支えているのだ。俺を含めた家族の生活を成り立たせているのだ。その人に相談しない手はないわけで。
父から話を聞いて分かったことで、驚いたことがある。それは、今と昔で、就職活動というものの中身がかなり変化しているということだ。今、俺は大学3年の秋学期が終わったところで、かなり活動で忙しくなりつつある。(就職の)試験対策も含めて。3月、4月になると多くの企業が試験を行う。もう行っているところももちろんある。だが、父の時代には、大学4年の時の10月1日だかなんだかに「就職市場」が一斉解禁されて、それ以外の時期に企業を受けることはなかったし、企業同士でもそれ以外の時期に行動しないという取り決めがなされていたらしい。
で、それ以前に何をやるかっていうと、(4年生の)7月くらいに、ゼミなんかのつながりで、自分の行きたい企業で働いている先輩を見つけて、その人を訪ねる。そして、そこで根回しをして、実質、そこで就職が決まったような感じだったらしい。で、10月1日か何か(全会社が同時に始めるから、基本的に本命の企業しか行かないとか)に、実際に行きたい企業を受けて、その日のうちだったっけな?あるいは数日中だったけな?それくらいの時間でさらっと内定が決まったと父は言っていた。
「自己分析とか、企業分析とか、そういう手順は?」。聞いてみると、父は即答した。「そんなのはなかった」。父の時代と比較すると、今は、就職活動がもうかなり体系化されている。何月ごろに自己分析を行い、企業分析をこうやって行い、とかそういうあれだ。本屋に行って、就職部門の本の題名をざっと見るとよく分かる。さまざまな本が、見事に、対策別に分類されている。これは、あらかじめ、就活というのはこういう順序でやる、という前提があるからだ。
父から話を聞いて分かったことで、驚いたことがある。それは、今と昔で、就職活動というものの中身がかなり変化しているということだ。今、俺は大学3年の秋学期が終わったところで、かなり活動で忙しくなりつつある。(就職の)試験対策も含めて。3月、4月になると多くの企業が試験を行う。もう行っているところももちろんある。だが、父の時代には、大学4年の時の10月1日だかなんだかに「就職市場」が一斉解禁されて、それ以外の時期に企業を受けることはなかったし、企業同士でもそれ以外の時期に行動しないという取り決めがなされていたらしい。
で、それ以前に何をやるかっていうと、(4年生の)7月くらいに、ゼミなんかのつながりで、自分の行きたい企業で働いている先輩を見つけて、その人を訪ねる。そして、そこで根回しをして、実質、そこで就職が決まったような感じだったらしい。で、10月1日か何か(全会社が同時に始めるから、基本的に本命の企業しか行かないとか)に、実際に行きたい企業を受けて、その日のうちだったっけな?あるいは数日中だったけな?それくらいの時間でさらっと内定が決まったと父は言っていた。
「自己分析とか、企業分析とか、そういう手順は?」。聞いてみると、父は即答した。「そんなのはなかった」。父の時代と比較すると、今は、就職活動がもうかなり体系化されている。何月ごろに自己分析を行い、企業分析をこうやって行い、とかそういうあれだ。本屋に行って、就職部門の本の題名をざっと見るとよく分かる。さまざまな本が、見事に、対策別に分類されている。これは、あらかじめ、就活というのはこういう順序でやる、という前提があるからだ。
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