2010年5月12日水曜日

構想走り書き(2004年9月2日執筆)

大学生時代の卒論構想。当時の個人的メモ。

俺は来学期、卒業論文を書く予定だ。何を書くかは、ちょっと前から考えていて、メモ帳を作って、時間があったときに何回かに分けて、ブレイン・ストーミング的に、思いつくままに構想(内容の案)を書いていた。自分に語りかけながら考えていった。別にこれで思考が完結したわけでもないのだが、ちょっと修正して、丸ごと載せる。こうやって、別にまとまった文章を書こうと意気込まないで書いた方が筆が進む。

●論文の目的は?

多文化主義がリベラル・デモクラシーの原理といかに相容れないかを検証すること。仮タイトル:「リベラル・デモクラシーの敵としての多文化主義 Multiculturalism as an Enemy of Liberal Democracy」。

俺は2003年春学期に「アメリカの保守主義から見たアファーマティブ・アクションの問題点」というペーパーを書いた。その究極の目的は、自由主義(そしてアメリカの保守主義)から見た多文化主義の問題点を、アファーマティブ・アクションという事例を通して分析することだった。

しかし、どうもアファーマティブ・アクションという事例を超えて多文化主義そのものまで問題をえぐることができなかった。それが今考えると少し心残り。だから、今回はある意味で、そのペーパーの拡張版を書きたい。なしえなかったことを補完して、自分の大学生活の思考の集大成としたい。

●まず、多文化主義とは?

これが普通の定義だ。「一つの社会あるいは国家の中における複数の文化の共存を目指す思想」。

しかし、これでは本質が分からない。なぜなら、「誰が」その「共存を目指す」のかが分からないからだ。この定義では、人々が勝手に自分の頭の中だけで文化相対主義を信じているだけで「多文化主義」になる。

だが、多文化主義は単に個人の内面の問題ではない。文化相対主義は、多文化主義の前提にはなるだろうが、多文化主義そのものではない。

そこで、俺はこの定義を提示したい。「政府の介入を通して社会における集団的な結果の平等を目指すことを支持する考え方」。つまり、複数の文化の共存を目指すのは、政府なのだ。社会を文化によって分けて、それらの平等を政策によって実現しようとするのが多文化主義だ。その際の分類は主に人種、民族だ。(ここでのとてつもなく重要なキーワードが多様性(diversity)だ。最近読んだ"Diversity: The Invention of a Concept"は力作だった。その本の著者もdiversityが主に対象にするのはraceだと言っていた。

平等とは、さっきちらっと言ったように、結果の平等。(平等には、権利、機会、結果の三段階がある、デイヴィッド・ボウツ曰く。)

*多文化主義の定義や内容については、いくつか文献(特に支持者が書いたもの)を見ておく必要がある。

●リベラル・デモクラシーとは?

まず、多くの日本人は「民主主義」という言葉を使うが、民主主義という思想はないんだ。この訳語は有害で、誤解を招く。

我々が「民主主義」と呼ぶものは、自由主義とデモクラシーに分けることができる。前者が思想で、後者は政治制度。前者を土台に後者が存在するのが近代デモクラシー。リベラル・デモクラシーと言われる。自由民主主義と訳されている。これらをしっかり区別するのが大事なんだ。

自由主義とは、国家権力の干渉から、個人の自由、財産、生命を守ること。根底にあるのが、人はみな平等で奪えない権利を持つのだから(生まれつき。自然権)、人が人を支配することはできない。だから政府は認めても最小限。その役割は人々の権利を守ること。そして外敵から守ること。極端な場合は無政府主義。積極的な政治参加にはどう考えてもつながらない。「政治からの自由」。

経済がすべて。バーナード・クリックが言っていたように、「自由主義者にとってのマスター・サイエンスは経済学」。「政治が悪いから経済がよくない」んじゃない。「政府が個人の競争に干渉するから経済がよくない」、「政治がある(ありすぎる)から経済がよくない」んだ。小室直樹も『田中角栄の呪い』で儒教倫理と相反するものとして説明していた。夜警国家。

自由主義の反対が権威主義だ。大きな政府→社会主義、共産主義。

*自然権という概念について、改めて学ぶ必要がある。ロックはちょっとしか言っていないから。レオ・シュトラウスがよさげな本を書いていた。

一方、デモクラシーとは、市民が投票を通して自分たちの支配者を選ぶ、そして気に食わないときにはまた投票によって権力から引きずり落とす政治制度。
「政治への自由」。ただ、今俺が読んでる『大衆の反逆』でオルテガは1930年の段階で、政治制度がリベラル・デモクラシーを超えた「超デモクラシー」になっていて、大衆が支配者を選ぶにとどまらず自らが支配者になっている風なことを書いていた。ただ、みんながみんなを支配するというのは意味を為さない。

政治とは支配であり分配だ。これを否定する自由主義の上に、政治制度が乗っかっている。この矛盾が、近代のデモクラシーの特徴だ。

*『大衆の反逆』はこの辺りに関してかなり参考になる。オルテガもはっきり「自由主義的デモクラシー」という言葉を使っている。

たしかに、今デモクラシーと言ったら普通リベラル・デモクラシーを指すけど、自由主義とデモクラシーはしっかり概念的に区別しておかないと、議論は成り立たない。

*この注の一つ上のパラグラフだが、The American Conservative(たぶんレーガン追悼の号)にアメリカがイラクそして中東にデモクラシーを植えつけようとしていることに関して、政治制度を作るだけでは意味がない、その前に自由主義が必要なのに・・・という評論文があったな。

*トクヴィルがアメリカで自由主義とデモクラシーが両立していることに驚いたらしい。あれに書いてあるんだろうか、Democracy in Americaに。読まないとなあ。

*ここら辺に関しては俺が2003年秋に書いた「近代デモクラシーにおける市民権と参政権」(注:研究会で出したレポート)が参考になる。自分で言うが、今読み直してみたらなかなかいいことを書いている。

●そのリベラル・デモクラシーの原理というと?

要するに自由主義のことだ。近代デモクラシーの前提となっている原理のことだ。

「ミンシュシュギでは平等が重要だ」と言うと、何となくそうかという気になる。だが、その平等の意味は何なのか? 近代デモクラシーにおける平等とは、あくまで権利の平等である。

*権利の平等と書いたが、一般にはそうではなく機会の平等と言われている。機会の平等に必要なlevel playing fieldを作るためには権利の平等だけでは不十分だ。機会の平等と自由主義の関係についてはもう少し考えてみる必要があるかも。

小室直樹は、自由と平等が相反する概念であるということを、「自由に競争させた結果、不平等になる」と表現した(宮台の『野獣系で行こう!』内の対談にて)。たしかにそうだ。しかし、平等の意味を結果でなく「権利」に限定すると、自由と平等は両立する。

自由主義の観点からすると、平等を政府が実現するなど、言語道断である(これは多文化主義に反対する議論の一つだ。俺が書いた『アメリカの・・・』にもそうある)。政治が物事を解決するという思考は自由主義と矛盾する。個人の権利の平等をもとにした自由な競争、それが近代デモクラシーの前提というか、社会モデルである。

権威主義を、政府の干渉を、否定する、つまり個人主義。市場原理重視。政府の役割の否定。政治の否定。それが自由主義だ。

たとえば言論の自由というが、それは個人の言論を政府が統制しないということだ。とにかく、権力が人民を押さえつけることは悪なんだ。自由の敵なんだ。そして、政府の役割を規制するために憲法が重要だ。(小室直樹『痛快!憲法学』)

何度も言うが、これが近代デモクラシーの土台となる価値であることは、いくら強調してもしすぎということはない。

*これは事例を挙げて説明する必要がある。フクヤマが"The End of History and the Last Man"の中で明快に解説している。イランの例などを。

●なるほど。では、リベラル・デモクラシーから見た多文化主義の問題というのを、どうやって見ていくの? どこを舞台に?

舞台はアメリカ。アメリカがまさに自由主義の理念によって建国された国だからだ。アメリカ憲法はロックの理念を取り入れて書かれた。フェデラリストペーパーとかいうのも必読のようだ。(フェデラリスト論文は憲法の起草を促すために書かれた論文集らしい。読まなくては。)

現実にはその(自由主義の)価値が完全に実現されていた(いる)とは言いがたいが、少なくとも理論的には建国理念だ。そして、アメリカ人にはその価値を実現化しようとする努力がある。(近代の条件である「作為の契機」、つまり自分たちの力で現実を作るという発想と関係あるな。)

自由主義は保守主義に表れている。小さな政府。福祉反対。減税。リバータリアニズム。(リバータリアニズムと古典的自由主義の違いについては、フランシス・フクヤマが、"The Fall of the Libertarians"とかいう題名の評論分でちょこっとだけ触れていた。)

*リバータリアニズムと共和党の関係については、The American Conservativeが一度カバー・ストーリーを組んだ。曰く、冷戦時代に共産主義と戦うために、伝統主義とリバータリアニズムが共和党で共闘した(がそれが崩れつつある)。なお、ブキャナンが一度、伝統主義から見たリバータリアニズムの問題を"Will Libertarianism Lead to Stalinism?"というコラムで書いていた。この両者の対立は、人や金、価値に「国境」を越えさせるかどうかだ。ただ、リバータリアンはネオコンと違って武力による強制や干渉、政府の役割は認めない。そもそも国家自体に反対しているに近い。(そういえばネオ・リベラルというのがよく分からないんだよな。)

*あと、リバータリアニズムは保守主義の一派という見方もあるが、リバータリアンたち自身は自分たちと保守との間に一線を引きたがるようだ。逆もまたしかり。また右でも左でもない第三の勢力、と言われることもある。ただ思想的な共有が根強いのもたしか。

ここで、アメリカ政治思想の対立の最単純モデル。「左に行けばいくほど政府が大きく、右に行けばいくほど政府が小さい」。この認める政府の大きさというのが、アメリカ政治思想を見る上でまず一義的に大事だと思う。

その次は何だ? それはおそらく、主権にこだわるか、そしてすべてにおいて国境をまたぐかまたがないかだ。つまり、主権にこだわる人は、個人主義の延長のように国民を一つの確固たる行動単位と考え、それへの他国の干渉を嫌がる。逆に自分たちが「帝国」として世界にデモクラシーと資本主義をばらまく、という類の思想に疑念を投げかける。さらに、たとえば国連のような機関に主権を少しでも譲るのを否定する。そして、自由貿易という概念を世界単位では認めず、自国の産業を守るための保護貿易を肯定する。この視点から導かれるモデルとは、「左に行けばいくほど主権にこだわらず、また価値や市場が国境を越えることを肯定する。右に行けばいくほど主権にこだわり、価値にせよ市場にせよ国内に収めるべきと考える」。

あともう一つ、それは宗教的であるかどうか。ここでの宗教はキリスト教のこと。たとえば、個人の自由よりも宗教倫理を重視すると、妊娠中絶やゲイの結婚には反対する。本来は強固な自由主義とそれから派生する個人主義という背景を持つはずの保守たちも、多数派は中絶やゲイの結婚を認めない。その理由は煎じ詰めると宗教倫理に行き着くだろう。

アメリカ思想の対立は、この三つの視点から見るのが有効だ。(国境を越える・越えないのくだりは、そういえば光文社の地政学本の著者がそんなことを述べていた。)リバータリアニズムは、最初の視点から見ると、右翼。二つ目の視点から見ると、左翼。三つ目から見ても左翼。

*ただ、リバータリアンが主権や国境にこだわりが薄いとは言っても、『アメリカの政治地図』という本にあるように彼らは外交政策に関する意見は内向きだ。それは、海外に干渉することがアメリカ国外での大きな政府を意味するからだ。「自由を強制するのはおかしい」という議論もある。古典的自由主義やリバータリアニズムの論理的帰結がグローバル資本主義なのかどうか、それが最近気になる。おそらくここに関しては内部に思想の対立があるんだろう。

俺が、この差別とも関わってくる問題を論じるにあたって一番課題だと思っているのが、アメリカで「実際のところ」どれくらい差別が深刻なのか、ということ。制度、意識において。ハワード・ディーンのコラムとか、DJ YUTAKAのインタビューなんか読んでると、まだまだものすごく深刻な問題なのかなと思う。AAも人種差別をなくしたいという切実な意図がなければそもそも開始していなかっただろう。一方、最近買った朝日新聞記者の本には「マイノリティであることに負い目を感じなくて済む社会」とか書いてあるし。あと昔読んだニューズウィークの黒人歌手のインタビューでは「フランスよりもアメリカの方がはるかに自由で才能を発揮できる」みたいに言っていた。あと最近のHIP HOPで人種差別がどうとか訴えてるラッパーはあまりいないんじゃないかな?

要するに、理論だけに走りすぎるのもどうかと。そうするにしても、現実をしっかり認識した上でないと。自分の頭の中だけで理論が完結してもそれじゃ単なる自己満足だ。ただ、それはある程度は仕方ない。学問は世界を単純化して切り取るのが役目であり、この論文は政治思想という観点から世界をモデル化しただけである、と断る必要があるかもな。ただ、それによって、下手に色々なことを考慮して書いても見えなかった、特定の切り口が見えてくるのもたしかだしな。

話がずれた。質問にあった「どうやって見ていく」か、つまり分析の方法は、持ち越し課題だ。
2004年9月2日(木)

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c-teki 2004/09/09/01:11:45
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