最後に(*117)
*117 この終章を「結論」ではなく「最後に」にしたのには意味がある。日本では多数派とは言わないまでも多くの人々が、最後の章の役割が、論文で最も重要な主張を明らかにすることだと考えている。しかしそれは間違いである。これはおそらく、「conclusion」の誤訳から来るものだと筆者は考えている。ほとんどの人は、この単語を「結論」、すなわち最終的な主張、と捉えている。この考え方からすれば、最後の章ではじめて論文の骨子、主張が明らかにされるのだ。実際、後述する共同発表会でも、その勘違いによるものかは不明だが「肝心の結論が聞きたかった」というような感想を受けた。しかし、conclusionという言葉には「結論」という意味と、「最後の締め」という意味がある。論文の最後の章にあてられるconclusionは、普通、後者の意味である。その証拠に、アメリカで出版された、論文の書き方に関する本やウェブサイトを読むと、conclusionの章で行うべきは、本論の簡単な要約をした上で、その議論の意味合いを探ったり発展させたりすることだ、と書いてある。そこではじめて主張を示せ、という助言は聞いたことがない(たとえばVan Evaraを参照)。論文の主張は「はじめに」で明らかにし、本論で証明するのだ。最後の章は本論を軽く振り返った上で、議論を補足したり発展させたりするのが基本だ。なお、これを読まれている学生がいれば、論文やレポートの書き方についてはCohenほかを推薦する。また卒業論文の書き方についてはStudents Helping Studentsも参考になった。
本稿で筆者は、多文化主義論争におけるアメリカ政治思想の対立を「自由主義 vs. 多文化主義」に求めた。誤解して欲しくないのは、このモデルはあくまで多文化主義をめぐる思想的対立の描写であってそれ以外ではないという点だ。本稿の主張は、アメリカの保守主義が自由主義と同じだということでもなければ、自由主義と多文化主義が対立するということでもない。筆者が論証しようとしたのは、「自由主義 vs. 多文化主義」というモデルが、多文化主義をめぐる保守とリベラルの対決を説明する上で有効な切り口だということだ。
この「最後に」では、主に本稿を完成する以前に受けた批判に答えることを通じて本論の補足や発展を図りたい。本論を読まれた読者の中には、内容について色々と批判的な見方をされている人もいるかもしれない。また、まず論文や本の最初と最後を読む習慣の方でも、既に首を傾げている方がいるかもしれない。幸いにも筆者は、現段階でいくつかの批判に答える機会に恵まれている。
筆者は本稿の内容について、いくつかの研究会共同での発表会で発表を行った。質疑応答の時間と、終了後に提出する仕組みの「フィードバック・シート」で、複数の人々から所感を受け取った。その中にはいくつか、批判的な感想が含まれていた。ここではそれらからいくつか取り上げて返答する。本稿の読者にも同じような不満を持つ人がいた場合に有益と考えるからだ。内容の性質上、Ⅴ章までに比べて文体が戦闘的にならざるを得なかったところも若干あるが、ご了承いただきたい。
2010年5月17日月曜日
【第五章 多文化主義から見た自由主義の問題点】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立
Ⅴ 多文化主義から見た自由主義の問題点
自由主義にも問題がある
自由主義は、Ⅰ章で述べたように私たちが身を置く近代社会の前提となる重要な思想である。そう考えると、その枠組みを否定しかねない多文化主義は、一種の危険思想にすら見えてくる。しかし、そう断定するだけではいささか単純すぎる。多文化主義が誕生し、滅んでいないのにはそれなりの理由がある。自由主義にも問題があるのだ。
個人による差別
自由主義は、致命的な限界を抱えている。それは、法的な差別、国家による差別をなくすことはできても、権力の干渉を受けない「自由な個人」が行う差別を解決できないことだ。Ⅰ章におけるディズニーやレストランの例を思い出していただきたい。自由主義は、国家権力の干渉から個人を守る思想である。個人が商売をする相手に誰を選ぶか、自分が経営する学校や企業に誰を受け入れるかは、国家権力が決める問題ではない。人々がそういった問題で意思を決める背景には、人種差別があるかもしれないのは想像に難くない。ところが、それに対しては、自由主義は為す術がない。なぜなら、個人がどういう考えを抱いて生きるかは、国家権力が踏み入れるべき領域ではないのだ。私たちには良心の自由がある。個人がどのような思想・世界観を持とうと国家権力とは関係ないのだ。自由主義社会に思想警察は存在しない。もちろん、ある行動が法律を侵害した場合には罰則を受ける。しかし、たとえば筆者が誰かを殺そうと頭の中だけで考え、具体的な行動には一切出なかったとしたら、それは犯罪ではない。
しかし、そもそもなぜ多文化主義が登場したのか? 大きな理由の一つが、差別の解消だった。アメリカは、黒人たちに対して奴隷制を敷き、それが終わったあとも彼らを法的に隔離してきた。その歴史を垣間見るに、法的な保護が平等になった途端「平等な社会」が現れ、アメリカが抱えていたすべての差別が解消したと考えるのはどんなロマンティストにとっても難しい。しかし、自由主義においては、「平等な社会」は権利が平等な社会でしかあり得ない。世の中に厳然として存在する差別に対し、権利の平等以上の指針を指し示すことはできないのだ。実際、アメリカの保守たちは、差別問題になると概して口が重い。彼らがアメリカ社会の差別について問われた際、返す答えの典型がこれである:「たしかに人種間の関係はまだ完璧とは言えないかも知れない。しかし、もう差別は終わった。過去のことばかりにこだわるのは止めよう!」。これはどう贔屓目に見ても詭弁だが、ある意味仕方ない。なぜなら、保守主義が拠って立つ自由主義の枠組みでは、たしかに差別は「終わった」のだ。
政治学者のトーマス・パワーズは、「自由主義の変遷、1964年から2001年(”The Transformation of Liberalism, 1964 to 2001”)」という論文で、アメリカの政治的論争を、反差別と自由主義との対立という視点から解読した(*107)。ここではこの論文を読み解くことで、多文化主義を含む政府による差別撤廃措置が明らかにした自由主義の限界を浮き彫りにしたい。パワーズによると、アメリカ政府による反差別政策は、自由主義的枠組みの弱点の暴露であった。アメリカの自由主義は、個人による差別を政府の関心事から外すことで、白人による黒人への人種差別を放置した。
*107 Powers
一般的に、1964年の公民権法は、自由主義思想の結実だとされることが多い。果たしてそうだろうか? パワーズによると違う。この法律は、Ⅱ章で述べたように、民間による差別を禁止する効果を持っている。それが、多文化主義の実践が公共部門だけでなく民間部門でも大いに発達することを可能にした。パワーズによると、公民権法は、自由主義の論理的帰結ではなく、むしろ限界の暴露だった。公民権法以前にアメリカを支配していたのは、公的空間における差別の禁止という自由主義の哲学だった。ところが、これでは私空間での差別をなくすことはできなかった。さらに、特に南部においては公的空間での平等すら達成することができなかった。これは、「自由主義の限界を越えた政策のみがアメリカにおける人種差別の問題を解決し得る(*108)」ことを明らかにした。自由主義の理論では、政府は、人々がどう生きるべきか、どういう考えを持つべきかには関知しない。しかしそれでは不十分なのだ。差別をなくすために、民間における人々の内面に踏み込んだ政策が必要になったのだ。そして、私的空間での差別をなくすための重要な手段が多文化教育である。多文化教育は、差別のない社会の構成員を作るために必要な道徳を教える。
*108 同上
自由主義にも問題がある
自由主義は、Ⅰ章で述べたように私たちが身を置く近代社会の前提となる重要な思想である。そう考えると、その枠組みを否定しかねない多文化主義は、一種の危険思想にすら見えてくる。しかし、そう断定するだけではいささか単純すぎる。多文化主義が誕生し、滅んでいないのにはそれなりの理由がある。自由主義にも問題があるのだ。
個人による差別
自由主義は、致命的な限界を抱えている。それは、法的な差別、国家による差別をなくすことはできても、権力の干渉を受けない「自由な個人」が行う差別を解決できないことだ。Ⅰ章におけるディズニーやレストランの例を思い出していただきたい。自由主義は、国家権力の干渉から個人を守る思想である。個人が商売をする相手に誰を選ぶか、自分が経営する学校や企業に誰を受け入れるかは、国家権力が決める問題ではない。人々がそういった問題で意思を決める背景には、人種差別があるかもしれないのは想像に難くない。ところが、それに対しては、自由主義は為す術がない。なぜなら、個人がどういう考えを抱いて生きるかは、国家権力が踏み入れるべき領域ではないのだ。私たちには良心の自由がある。個人がどのような思想・世界観を持とうと国家権力とは関係ないのだ。自由主義社会に思想警察は存在しない。もちろん、ある行動が法律を侵害した場合には罰則を受ける。しかし、たとえば筆者が誰かを殺そうと頭の中だけで考え、具体的な行動には一切出なかったとしたら、それは犯罪ではない。
しかし、そもそもなぜ多文化主義が登場したのか? 大きな理由の一つが、差別の解消だった。アメリカは、黒人たちに対して奴隷制を敷き、それが終わったあとも彼らを法的に隔離してきた。その歴史を垣間見るに、法的な保護が平等になった途端「平等な社会」が現れ、アメリカが抱えていたすべての差別が解消したと考えるのはどんなロマンティストにとっても難しい。しかし、自由主義においては、「平等な社会」は権利が平等な社会でしかあり得ない。世の中に厳然として存在する差別に対し、権利の平等以上の指針を指し示すことはできないのだ。実際、アメリカの保守たちは、差別問題になると概して口が重い。彼らがアメリカ社会の差別について問われた際、返す答えの典型がこれである:「たしかに人種間の関係はまだ完璧とは言えないかも知れない。しかし、もう差別は終わった。過去のことばかりにこだわるのは止めよう!」。これはどう贔屓目に見ても詭弁だが、ある意味仕方ない。なぜなら、保守主義が拠って立つ自由主義の枠組みでは、たしかに差別は「終わった」のだ。
政治学者のトーマス・パワーズは、「自由主義の変遷、1964年から2001年(”The Transformation of Liberalism, 1964 to 2001”)」という論文で、アメリカの政治的論争を、反差別と自由主義との対立という視点から解読した(*107)。ここではこの論文を読み解くことで、多文化主義を含む政府による差別撤廃措置が明らかにした自由主義の限界を浮き彫りにしたい。パワーズによると、アメリカ政府による反差別政策は、自由主義的枠組みの弱点の暴露であった。アメリカの自由主義は、個人による差別を政府の関心事から外すことで、白人による黒人への人種差別を放置した。
*107 Powers
一般的に、1964年の公民権法は、自由主義思想の結実だとされることが多い。果たしてそうだろうか? パワーズによると違う。この法律は、Ⅱ章で述べたように、民間による差別を禁止する効果を持っている。それが、多文化主義の実践が公共部門だけでなく民間部門でも大いに発達することを可能にした。パワーズによると、公民権法は、自由主義の論理的帰結ではなく、むしろ限界の暴露だった。公民権法以前にアメリカを支配していたのは、公的空間における差別の禁止という自由主義の哲学だった。ところが、これでは私空間での差別をなくすことはできなかった。さらに、特に南部においては公的空間での平等すら達成することができなかった。これは、「自由主義の限界を越えた政策のみがアメリカにおける人種差別の問題を解決し得る(*108)」ことを明らかにした。自由主義の理論では、政府は、人々がどう生きるべきか、どういう考えを持つべきかには関知しない。しかしそれでは不十分なのだ。差別をなくすために、民間における人々の内面に踏み込んだ政策が必要になったのだ。そして、私的空間での差別をなくすための重要な手段が多文化教育である。多文化教育は、差別のない社会の構成員を作るために必要な道徳を教える。
*108 同上
【第四章 自由主義から見た多文化主義の問題点】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立
Ⅳ 自由主義から見た多文化主義の問題点
自由主義 vs. 多文化主義
Ⅲ章で、筆者はアメリカ政治思想の保守とリベラルを三つの視点から定義した。意図は二つあった。一つは、既に述べたとおり、この二者がそれぞれ自由主義と多文化主義とつながっていることを示すことだ。それ以外にもう一つあった。それは、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルの不十分さを補うことだ。アメリカの保守が常にⅠ章で述べたような個人の自由と平等のみを最優先するとは限らない。国益、愛国心、キリスト教といった、個人を「我々」にまとめ上げる力が、時に個人の自由よりも上に来ることがある。その例が、宗教右派による中絶医院への攻撃だった。逆に、大きな政府を志向し、個人の経済的な自由を制限しがちなリベラルが、特定の社会問題に関しては保守たちよりも個人の自由を認めることがある。「自由主義 vs. 多文化主義」というモデルは、アメリカの保守主義とリベラリズムをそっくりそのまま反映するわけではない。「保守主義 vs. リベラリズム」=「自由主義 vs. 多文化主義」ではないのだ。もちろん、「=」は不可能にしても、なるべく「≒」に近づけるのが理想だが、単純化の犠牲は避けられない。その犠牲をⅢ章で救出したかった。
Ⅰ章で論じたように、モデルとは複雑な対象から特定の部分だけを取り出し、残りを捨て去った理念型である。「自由主義 vs. 多文化主義」モデルで筆者は、保守主義の中の自由主義的な側面を取り出し、それと対比する形でリベラリズムを描いた結果、実際には自由主義の個人主義的な原則を保守が占有しているわけではないという事実を捨象した。つまり現実のある側面だけを切り取ったのだ。この二項対立モデルでは、多文化主義を支持する人々がみな、自由主義を完全に否定するかのような印象を与えるかもしれない。だが、前述のようにアメリカは国家全体が自由主義的な背景を持っている。実際、保守もリベラルも自由主義であることに変わりはないと解釈する学者もいるようだ。だが筆者のモデルは、自由主義をあたかも保守だけが占有する属性であるかのように扱っている。このように、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルは粗探しをしようとすれば欠点を指摘するのは難しくない。
しかし、「自由主義 vs. 多文化主義」は、多文化主義をめぐって保守主義とリベラリズムが抱える最も重要な対立点の一つの描写である。それを本章と続くⅤ章で示す。実際のアメリカ政治思想との関係を探るために、Ⅳ章は保守たちによる多文化主義批判の議論、Ⅴ章はリベラルたちによる多文化主義支持の議論と、それぞれつなげる。まず本章では、自由主義の視点に立って多文化主義を攻撃する。
自由主義 vs. 多文化主義
Ⅲ章で、筆者はアメリカ政治思想の保守とリベラルを三つの視点から定義した。意図は二つあった。一つは、既に述べたとおり、この二者がそれぞれ自由主義と多文化主義とつながっていることを示すことだ。それ以外にもう一つあった。それは、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルの不十分さを補うことだ。アメリカの保守が常にⅠ章で述べたような個人の自由と平等のみを最優先するとは限らない。国益、愛国心、キリスト教といった、個人を「我々」にまとめ上げる力が、時に個人の自由よりも上に来ることがある。その例が、宗教右派による中絶医院への攻撃だった。逆に、大きな政府を志向し、個人の経済的な自由を制限しがちなリベラルが、特定の社会問題に関しては保守たちよりも個人の自由を認めることがある。「自由主義 vs. 多文化主義」というモデルは、アメリカの保守主義とリベラリズムをそっくりそのまま反映するわけではない。「保守主義 vs. リベラリズム」=「自由主義 vs. 多文化主義」ではないのだ。もちろん、「=」は不可能にしても、なるべく「≒」に近づけるのが理想だが、単純化の犠牲は避けられない。その犠牲をⅢ章で救出したかった。
Ⅰ章で論じたように、モデルとは複雑な対象から特定の部分だけを取り出し、残りを捨て去った理念型である。「自由主義 vs. 多文化主義」モデルで筆者は、保守主義の中の自由主義的な側面を取り出し、それと対比する形でリベラリズムを描いた結果、実際には自由主義の個人主義的な原則を保守が占有しているわけではないという事実を捨象した。つまり現実のある側面だけを切り取ったのだ。この二項対立モデルでは、多文化主義を支持する人々がみな、自由主義を完全に否定するかのような印象を与えるかもしれない。だが、前述のようにアメリカは国家全体が自由主義的な背景を持っている。実際、保守もリベラルも自由主義であることに変わりはないと解釈する学者もいるようだ。だが筆者のモデルは、自由主義をあたかも保守だけが占有する属性であるかのように扱っている。このように、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルは粗探しをしようとすれば欠点を指摘するのは難しくない。
しかし、「自由主義 vs. 多文化主義」は、多文化主義をめぐって保守主義とリベラリズムが抱える最も重要な対立点の一つの描写である。それを本章と続くⅤ章で示す。実際のアメリカ政治思想との関係を探るために、Ⅳ章は保守たちによる多文化主義批判の議論、Ⅴ章はリベラルたちによる多文化主義支持の議論と、それぞれつなげる。まず本章では、自由主義の視点に立って多文化主義を攻撃する。
【第三章 アメリカ政治思想の右左】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立
Ⅲ アメリカ政治思想の右左
保守対リベラル
アメリカ国民を説明する、使い古された表現に、「50-50 nation」がある。これは、彼らが様々な問題に関して、常に二つの相反する立場に分かれて議論をするという意味である。50というのは50%のことだ。もちろん、この単純な説明がいつでも現実のアメリカに当てはまるわけではない。しかし、このモデルは、アメリカの政治的な論争を見る上ではある程度有効である。
何と何の対立なのか? それは、保守主義(右翼)とリベラリズム(左翼)である。アメリカを50-50状態にさせる問題には様々なものがある。妊娠中絶を許すべきか禁止すべきか。税金を増やすべきか減らすべきか。そういった問題をめぐる対立には、ある程度、二項対立の構図が当てはまる。二大政党のうち共和党が保守、民主党がリベラルの立場を代表する。妊娠中絶に関しては、保守たちは反対し、リベラルたちは賛成する。税金に関しては、保守たちが減税、リベラルたちが増税を望む。もちろん、個々の保守たちやリベラルたちがすべてこの対立に当てはまるとは限らない。しかし、大きな構図としては、アメリカの社会問題をめぐる議論は、「保守対リベラル」で説明できることが多い。それは、本稿の主題である多文化主義においてもそれは例外ではない。そして、その対立をよく見てみると、保守主義がⅠ章で扱った自由主義、リベラリズムがⅡ章で扱った多文化主義と深いつながりを持っているのだ。本章では、アメリカの保守主義とリベラリズムを考察することで、そのつながりを確認する。
保守対リベラル
アメリカ国民を説明する、使い古された表現に、「50-50 nation」がある。これは、彼らが様々な問題に関して、常に二つの相反する立場に分かれて議論をするという意味である。50というのは50%のことだ。もちろん、この単純な説明がいつでも現実のアメリカに当てはまるわけではない。しかし、このモデルは、アメリカの政治的な論争を見る上ではある程度有効である。
何と何の対立なのか? それは、保守主義(右翼)とリベラリズム(左翼)である。アメリカを50-50状態にさせる問題には様々なものがある。妊娠中絶を許すべきか禁止すべきか。税金を増やすべきか減らすべきか。そういった問題をめぐる対立には、ある程度、二項対立の構図が当てはまる。二大政党のうち共和党が保守、民主党がリベラルの立場を代表する。妊娠中絶に関しては、保守たちは反対し、リベラルたちは賛成する。税金に関しては、保守たちが減税、リベラルたちが増税を望む。もちろん、個々の保守たちやリベラルたちがすべてこの対立に当てはまるとは限らない。しかし、大きな構図としては、アメリカの社会問題をめぐる議論は、「保守対リベラル」で説明できることが多い。それは、本稿の主題である多文化主義においてもそれは例外ではない。そして、その対立をよく見てみると、保守主義がⅠ章で扱った自由主義、リベラリズムがⅡ章で扱った多文化主義と深いつながりを持っているのだ。本章では、アメリカの保守主義とリベラリズムを考察することで、そのつながりを確認する。
【第二章 多文化主義の解剖】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立
Ⅱ 多文化主義の解剖
「多様の統一」ではなく「多様」
上の引用は、『怒りの葡萄』などで知られるアメリカの作家、ジョン・スタインベックによるエッセイ、『アメリカとアメリカ人』の、第1章の、最初のパラグラフである。「多様の統一」とは、独立以来アメリカが掲げてきたモットーであり(*25)、現在もラテン語の「E Pluribus Unum」は、現在使われているすべての硬貨に刻まれている(*26)。英語にすると「Out of many, one(多くからなる一つ)」である。このモットーは元々、13の州からなる一つの国家(*27)という意味だったが、後に、流入してくる色々な人種的、民族的背景を持つ移民たちを統合し、同化させ、一つのアメリカ人を作るという意味合いを持つようになった(*28)。私たちに馴染み深い言葉で言えば、これは「メルティング・ポット(いわゆる『人種のるつぼ』)」の発想である。
*25 より正確には、1776年にベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムズ、トマス・ジェファソンがアメリカの印章に採用し、6年後に国の公式なモットーになった。The Columbia Encyclopedia, Sixth Edition, 15742
*26 スタインベック、220
*27 アメリカは、独立する以前は、13の独立した州だった。独立の背景については次の章で説明する。
*28 “E pluribus unum,” Wikipedia, the free encyclopedia. http://en.wikipedia.org/wiki/E_Pluribus_Unum
スタインベックの本が出版されたのは1966年だが、40年近くたった今では、その考え方への批判が激しい。多文化主義は、その表れである。同化は、アメリカ人たちが持つさまざまな人種的、民族的な多様性を無視し、彼らを一つの支配的な「アメリカ人」のモデルに押し込む作業であるから反対しなくてはいけない。目指すべきは、すべての集団が一つの型に融合する「メルティング・ポット」ではなく、それぞれの集団が個性を失わずに共存する「サラダ・ボウル」あるいは「シチュー」である(*29)。「多様の統一」は統一に焦点を置いた目標だが、多文化主義者たちはそれよりも多様性を重視する。差異は、統一するより祝福しなければならないのだ。
*29 Mitchellほか、143, 209, 272
また、人種や民族、また他の社会集団は、白人男性中心の社会において、政治的・経済的な面で、周辺に押しやられている。この状況も改善しなくてはならない。多文化主義を支えるのは、そういった哲学である。この章の使命は、多文化主義を定義し、その理論と実際の運用のされ方を探ることである。
「多様の統一」ではなく「多様」
われわれの国土には、あらゆる種類の地質と気候があり、われわれ国民もあらゆる種類の民族、人種から成り立っている。しかも、この国土は一つの国であり、人びとはみなアメリカ人である。モットーというのは、とかく願いごとや夢を盛りこむ。ところが、アメリカの「多様の統一」(E Pluribus Unum)というモットーは事実である。不思議な、信じられないようなことだが真実だ(*24)。*24 スタインベック、19
上の引用は、『怒りの葡萄』などで知られるアメリカの作家、ジョン・スタインベックによるエッセイ、『アメリカとアメリカ人』の、第1章の、最初のパラグラフである。「多様の統一」とは、独立以来アメリカが掲げてきたモットーであり(*25)、現在もラテン語の「E Pluribus Unum」は、現在使われているすべての硬貨に刻まれている(*26)。英語にすると「Out of many, one(多くからなる一つ)」である。このモットーは元々、13の州からなる一つの国家(*27)という意味だったが、後に、流入してくる色々な人種的、民族的背景を持つ移民たちを統合し、同化させ、一つのアメリカ人を作るという意味合いを持つようになった(*28)。私たちに馴染み深い言葉で言えば、これは「メルティング・ポット(いわゆる『人種のるつぼ』)」の発想である。
*25 より正確には、1776年にベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムズ、トマス・ジェファソンがアメリカの印章に採用し、6年後に国の公式なモットーになった。The Columbia Encyclopedia, Sixth Edition, 15742
*26 スタインベック、220
*27 アメリカは、独立する以前は、13の独立した州だった。独立の背景については次の章で説明する。
*28 “E pluribus unum,” Wikipedia, the free encyclopedia. http://en.wikipedia.org/wiki/E_Pluribus_Unum
スタインベックの本が出版されたのは1966年だが、40年近くたった今では、その考え方への批判が激しい。多文化主義は、その表れである。同化は、アメリカ人たちが持つさまざまな人種的、民族的な多様性を無視し、彼らを一つの支配的な「アメリカ人」のモデルに押し込む作業であるから反対しなくてはいけない。目指すべきは、すべての集団が一つの型に融合する「メルティング・ポット」ではなく、それぞれの集団が個性を失わずに共存する「サラダ・ボウル」あるいは「シチュー」である(*29)。「多様の統一」は統一に焦点を置いた目標だが、多文化主義者たちはそれよりも多様性を重視する。差異は、統一するより祝福しなければならないのだ。
*29 Mitchellほか、143, 209, 272
また、人種や民族、また他の社会集団は、白人男性中心の社会において、政治的・経済的な面で、周辺に押しやられている。この状況も改善しなくてはならない。多文化主義を支えるのは、そういった哲学である。この章の使命は、多文化主義を定義し、その理論と実際の運用のされ方を探ることである。
【第一章 自由主義の解剖】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立
I 自由主義の解剖
「リベラル」の意味
よく評論家や学者について話すときに、あの人はリベラル派だとか、保守派だとかいう言い方をする。そのときの「リベラル」は、日本語にすると「自由」である。リベラル派が信じる思想である「リベラリズム」が、説明するまでもなく「自由主義」である。しかし、筆者がこの章で説明しようとする「自由主義」は、多くの人が「リベラル」という語から想起するその思想と同じではない。
どういうことだろうか? まず、頭の中に「リベラルな」評論家あるいは学者を思い浮かべていただきたい。仮に大学教授としよう。その人は、どういう意見を持つ人だろうか? 一つ、問いを出してみたい。
問い:「社会には毎日遊んで暮らしていけるお金持ちもいれば、明日のご飯を食べられるように必死で暮らしている貧乏人もいる。この現実をどう見るか。また、どうすべきか」。もしリベラルな教授がこの題目でエッセイを書くならば、その回答はどうなるか。論旨を要約せよ。
答え:「そのような不平等は許しがたい。社会は平等であるべきだ。毎日遊んでいても暮らしていける人は、必要以上にお金を持っている。この状況は、ぜひ解消しなくてはいけない。そのために、政府が福祉政策を通じて、富を正しく分配し、平等化に努めるべきである」。
ここまで率直な文章を書く教授が実際にいるかは別として、多くの人は頭の中に、上のような内容の回答を思い浮かべたのではないか。あまり評論家や学者たちの論争に馴染みがない人でも、上の回答を見せられ、「これがリベラルな意見だ」と言われると、まあそうだろうなと納得できる人が多いはずである。なぜなら、この回答が、現在の多くの「リベラル」な人たちの考えのエッセンスだからである。現在、リベラリズムと言ったら、多くの人たちは上のような思想を頭に浮かべる。
では、上の考え方はどうリベラル(自由)なのか? 誰が、どのようにして自由になっているのか? 答えに詰まる人が多いはずだ。なぜなら、それらの質問には答えようがないのだ。上に示された発想は、本来の「自由主義」からすると、まったく自由な考え方でもないし、誰も自由になっていない。むしろ、本来の「自由主義」とは正反対の思想ですらある。
この章の題材は、本来の自由主義である。「本来の」というのは、「過去の」という意味ではない。この自由主義は、近代社会を形成する根本的な思想として、今日の世界にも息づいている。しかし混乱を招くことに、現在「リベラル」とみなされる思想との名称上の区別なしに使われることが多い。また「本来の」意味で使われることもある。
名前を区別す場合は、よく元来の自由主義を「古典的自由主義(classical liberalism)」と呼ぶ。しかし、本稿ではそのまま「自由主義」と呼び、現代のいわゆる「リベラルな」考え方をカタカナで「リベラリズム」と呼ぶ。この二者の峻別が、本稿を理解するうえで肝要である。
この章の目的は、自由や平等といった重要概念の分析を通して、自由主義がどのような思想なのかを探ることである。ただし、章の最後や「最後に」でもことわるように、本章で解説するのは自由主義の一つのあり方であって、同じ名前に分類される思想全体の見取り図の作成は意図していない。
「リベラル」の意味
よく評論家や学者について話すときに、あの人はリベラル派だとか、保守派だとかいう言い方をする。そのときの「リベラル」は、日本語にすると「自由」である。リベラル派が信じる思想である「リベラリズム」が、説明するまでもなく「自由主義」である。しかし、筆者がこの章で説明しようとする「自由主義」は、多くの人が「リベラル」という語から想起するその思想と同じではない。
どういうことだろうか? まず、頭の中に「リベラルな」評論家あるいは学者を思い浮かべていただきたい。仮に大学教授としよう。その人は、どういう意見を持つ人だろうか? 一つ、問いを出してみたい。
問い:「社会には毎日遊んで暮らしていけるお金持ちもいれば、明日のご飯を食べられるように必死で暮らしている貧乏人もいる。この現実をどう見るか。また、どうすべきか」。もしリベラルな教授がこの題目でエッセイを書くならば、その回答はどうなるか。論旨を要約せよ。
答え:「そのような不平等は許しがたい。社会は平等であるべきだ。毎日遊んでいても暮らしていける人は、必要以上にお金を持っている。この状況は、ぜひ解消しなくてはいけない。そのために、政府が福祉政策を通じて、富を正しく分配し、平等化に努めるべきである」。
ここまで率直な文章を書く教授が実際にいるかは別として、多くの人は頭の中に、上のような内容の回答を思い浮かべたのではないか。あまり評論家や学者たちの論争に馴染みがない人でも、上の回答を見せられ、「これがリベラルな意見だ」と言われると、まあそうだろうなと納得できる人が多いはずである。なぜなら、この回答が、現在の多くの「リベラル」な人たちの考えのエッセンスだからである。現在、リベラリズムと言ったら、多くの人たちは上のような思想を頭に浮かべる。
では、上の考え方はどうリベラル(自由)なのか? 誰が、どのようにして自由になっているのか? 答えに詰まる人が多いはずだ。なぜなら、それらの質問には答えようがないのだ。上に示された発想は、本来の「自由主義」からすると、まったく自由な考え方でもないし、誰も自由になっていない。むしろ、本来の「自由主義」とは正反対の思想ですらある。
この章の題材は、本来の自由主義である。「本来の」というのは、「過去の」という意味ではない。この自由主義は、近代社会を形成する根本的な思想として、今日の世界にも息づいている。しかし混乱を招くことに、現在「リベラル」とみなされる思想との名称上の区別なしに使われることが多い。また「本来の」意味で使われることもある。
名前を区別す場合は、よく元来の自由主義を「古典的自由主義(classical liberalism)」と呼ぶ。しかし、本稿ではそのまま「自由主義」と呼び、現代のいわゆる「リベラルな」考え方をカタカナで「リベラリズム」と呼ぶ。この二者の峻別が、本稿を理解するうえで肝要である。
この章の目的は、自由や平等といった重要概念の分析を通して、自由主義がどのような思想なのかを探ることである。ただし、章の最後や「最後に」でもことわるように、本章で解説するのは自由主義の一つのあり方であって、同じ名前に分類される思想全体の見取り図の作成は意図していない。
【構成~はじめに】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立
2004年秋学期優秀卒業制作(SFC AWARD)受賞
自由主義 vs. 多文化主義
アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立
白井健一郎
総合政策学部4年、70104541
構成
はじめに 3
Ⅰ 自由主義の解剖 5
‐「リベラル」の意味
‐二つの原則
‐モデル
‐権力からの自由
‐権利の平等、法の前の平等
‐ディズニーに検閲はできるか?
‐黒人を拒否するレストラン
‐政府の役割
‐リベラル・デモクラシー
‐功利主義
Ⅱ 多文化主義の解剖 15
‐「多様の統一」ではなく「多様」
‐多文化主義を定義する:三つの視点
‐文化とは属性のこと
‐「多様性」は集団間の結果の平等
‐「差異」と「多様性」は同じ
‐「オリジナル」の原理の不在
‐アファーマティブ・アクション
‐「人種差別解消」から「多様性」へ
‐学校教育
‐多様性トレーニング
‐ポリティカル・コレクトネス
Ⅲ アメリカ政治思想の右左 25
‐保守対リベラル
‐独立宣言の意味
‐保守主義と小さな政府
‐キリスト教
‐国家主権
‐リベラリズムと大きな政府
‐世俗性
‐越境
‐リバータリアニズム
Ⅳ 自由主義から見た多文化主義の問題点 35
‐自由主義 vs. 多文化主義
‐自由と平等
‐個人という単位はどこへ
‐AAと修正第14条
‐最高裁が合憲といえば合憲になるわけではない
Ⅴ 多文化主義から見た自由主義の問題点 40
‐自由主義にも限界がある
‐個人による差別
‐理論と現実
‐理想
‐自由主義とキリスト教
最後に 45
‐批判に答える
‐批判1:実際の社会現象や政治思想は複雑。筆者はそれを単純に整理しようと焦っている
‐批判2:自由主義の定義が狭すぎる
‐その他
‐過程としての自由主義
感謝
参考文献
はじめに
1980年代頃から勢いを持ち始めた多文化主義は、アメリカ社会を動かす大きな原動力である。しかし、誰もがそれを支持しているわけではない。多文化主義をめぐる論争は熾烈である。アメリカの過去と現在をどう捉えるのか、これからアメリカがどう進むべきなのか、といった問いと直結しているからだ。支持者と反対者がともに譲れない哲学を持っており、一歩も引かない。多文化主義者にしても反多文化主義者にしても、発する言論は多くが党派的であり、論争全体を発展させないのはもちろん、下手をすると仲間内の自己満足で終わっている。最初から自分が正しくて敵が間違っていることが決まっているのである。多文化主義者の言葉は多文化主義者だけに向けられていて、反多文化主義者の言葉は反多文化主義者のみが聞いているかのごときである。
このような状況において、多文化主義とそれをめぐる思想的対立を真に理解するためには、一歩引いた位置から全体を観察する必要がある。この作業を叩き台にしなければ、全体の理解はもちろん、賛成と反対を越えた解決策を見出すことはできない。しかし、そのような試みは、意外に少ない。たとえばチャールズ・テイラーはこの分野で古典とされる有名な論文、「承認の政治を考察する(“Examining the Politics of Recognition”)」で「差異の政治」と「尊厳の政治」の対立というモデルを示した。筆者の視点はこれと重なる。だが彼の論文の目的は、多文化主義をめぐる議論の整理というよりは、高度な論理的積み上げによる多文化主義の擁護だった。テイラーの議論自体は並の言論人には及びもつかない質の高さを持つ反面、具体的なアメリカの政治思想対立や、多文化主義が実際にとっている形への言及が不足している。それ以外にも多文化主義をめぐる思想的対立モデルの描写は存在するが、アメリカの保守主義とリベラリズムの対立と直接結びつけその関係を探ろうとする人々は少ないように見受けられる。
また、一般的にいって、政治思想の専門家たちは、政治思想を用いて実際の社会を説明するモデルを作り、一般社会に問うという作業を怠っている。政治思想という学問分野のあり方には二つの潮流があると筆者は考えている。一つは、過去の偉大な古典文献を解釈して図鑑のように比較、分類する作業。もう一つは、特定の思想に立脚した「政治的な」意見を発露する作業。もちろん、それらの作業の重要性については改めて強調するまでもない。しかし、政治思想がどういう意味を持ち、世の中を理解するのにどう役立つのかを発信する作業も重要である。それがなくては、政治思想は、一般社会はもちろん、少しでも違う学問に携わる人々からも、役に立たないものとしてそっぽを向かれてしまう。言うまでもなく、世界に最も強い影響力を持つ国家であるアメリカを理解することは、専門家以外の人々にとっても重要な課題のはずである。そのためには、政治思想を現実社会の現象に当てはめなくてはならない。
本稿の目的は、多文化主義をめぐる現代アメリカの政治思想の対立モデルを提示することである。どういう対立モデルなのか? それは「自由主義 vs. 多文化主義」である。この説明は一見逆説的である。なぜなら、一般的に、アメリカではリベラルたちが多文化主義を支持し、保守たちが反対するからだ。自由主義はリベラリズムの訳語で、それを信じる人たちがリベラル(自由主義者)なのだから、「保守主義 vs. 多文化主義」と言わないとおかしいのではないか? おかしくないのだ。なぜなら、Ⅰ章で説明するように、現代「リベラル」とみなされる思想と本来の自由主義は同じではない。Ⅲ章で明らかになるように、アメリカではリベラルたちよりも保守たちの方が自由主義と強いつながりを持っている。多文化主義に反対する保守たちの後ろ盾は自由主義なのだ。
この論文の目標は、多文化主義の支持あるいは反対を表明することではない。片方が正しく、もう片方が間違っているという結論への予定調和も、こうすれば対立を乗り越えられるという解決策も、用意していない。本稿は、個々の読者が現実を理解したり自分の立場を決めたりするための材料、あるいは議論を発展させるための土台を提供する試みである。
Ⅰ章では、自由主義の特質を浮き彫りにする。主にジョン・ロックの思想を紐解くことで、「自由」が国家権力の干渉からの個人の自由、「平等」が個人を単位とする権利の平等を意味することを明らかにする。自由主義は、社会を国家権力と個人に分け、前者から後者を守る思想なのだ。それが持つ意味を、現代社会の例に当てはめて考察する。
Ⅱ章では、多文化主義を定義し、その理論と実態を探る。世の中に出回っている曖昧な定義を批判的に修正し、多文化主義を「ある国家内における社会集団を単位にした結果の平等を、主に政府の介入を通して上から目指すことを支持する考え方」と定義する。その定義の有効性を、アファーマティブ・アクション、多文化教育、多様性トレーニングなどを考察することで確認する。
Ⅲ章ではアメリカ政治思想の保守主義とリベラリズムの対立像を描く。前者とⅠ章の自由主義、後者とⅡ章の多文化主義とのつながりを明示し、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルの下敷きとする。ヨーロッパでは、権威を擁護するのが保守主義だったが、権威を打ち倒すことで成立したアメリカ合衆国ではその逆の自由主義が伝統となり、保守主義の源流となった。対するリベラリズムは社会主義的な再配分を肯定する思想である。またこの章では、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルから欠け落ちた視点も補う。
Ⅳ章では、まず「自由主義 vs. 多文化主義」モデルを説明した上で、自由主義の視点に立ち、多文化主義を批判する。多文化主義は、自由主義の芯を為す諸理念と真っ向から対立する。国家権力の介入によって社会を改良しようという動きは政府の暴走で、個人の自由を脅かす。人種や民族を単位に社会を分類する発想は個人主義に反するし、集団ごとに権利が異なるのは権利の平等を蹂躙している。
Ⅴ章では、Ⅳ章の逆を行う。つまり、多文化主義の立場から自由主義の問題点をえぐり出す。自由主義には限界がある。その最たるものは、私的領域での差別を解決できないことである。その盲点を突いたのが多文化主義だ。また社会は自由主義が前提とするように個人のみで構成されているわけではない。社会集団を標的にした差別が現に存在するのだ。その上、そもそも自由主義が普遍的な正しさを持っているかどうかも怪しい。
自由主義 vs. 多文化主義
アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立
白井健一郎
総合政策学部4年、70104541
構成
はじめに 3
Ⅰ 自由主義の解剖 5
‐「リベラル」の意味
‐二つの原則
‐モデル
‐権力からの自由
‐権利の平等、法の前の平等
‐ディズニーに検閲はできるか?
‐黒人を拒否するレストラン
‐政府の役割
‐リベラル・デモクラシー
‐功利主義
Ⅱ 多文化主義の解剖 15
‐「多様の統一」ではなく「多様」
‐多文化主義を定義する:三つの視点
‐文化とは属性のこと
‐「多様性」は集団間の結果の平等
‐「差異」と「多様性」は同じ
‐「オリジナル」の原理の不在
‐アファーマティブ・アクション
‐「人種差別解消」から「多様性」へ
‐学校教育
‐多様性トレーニング
‐ポリティカル・コレクトネス
Ⅲ アメリカ政治思想の右左 25
‐保守対リベラル
‐独立宣言の意味
‐保守主義と小さな政府
‐キリスト教
‐国家主権
‐リベラリズムと大きな政府
‐世俗性
‐越境
‐リバータリアニズム
Ⅳ 自由主義から見た多文化主義の問題点 35
‐自由主義 vs. 多文化主義
‐自由と平等
‐個人という単位はどこへ
‐AAと修正第14条
‐最高裁が合憲といえば合憲になるわけではない
Ⅴ 多文化主義から見た自由主義の問題点 40
‐自由主義にも限界がある
‐個人による差別
‐理論と現実
‐理想
‐自由主義とキリスト教
最後に 45
‐批判に答える
‐批判1:実際の社会現象や政治思想は複雑。筆者はそれを単純に整理しようと焦っている
‐批判2:自由主義の定義が狭すぎる
‐その他
‐過程としての自由主義
感謝
参考文献
はじめに
1980年代頃から勢いを持ち始めた多文化主義は、アメリカ社会を動かす大きな原動力である。しかし、誰もがそれを支持しているわけではない。多文化主義をめぐる論争は熾烈である。アメリカの過去と現在をどう捉えるのか、これからアメリカがどう進むべきなのか、といった問いと直結しているからだ。支持者と反対者がともに譲れない哲学を持っており、一歩も引かない。多文化主義者にしても反多文化主義者にしても、発する言論は多くが党派的であり、論争全体を発展させないのはもちろん、下手をすると仲間内の自己満足で終わっている。最初から自分が正しくて敵が間違っていることが決まっているのである。多文化主義者の言葉は多文化主義者だけに向けられていて、反多文化主義者の言葉は反多文化主義者のみが聞いているかのごときである。
このような状況において、多文化主義とそれをめぐる思想的対立を真に理解するためには、一歩引いた位置から全体を観察する必要がある。この作業を叩き台にしなければ、全体の理解はもちろん、賛成と反対を越えた解決策を見出すことはできない。しかし、そのような試みは、意外に少ない。たとえばチャールズ・テイラーはこの分野で古典とされる有名な論文、「承認の政治を考察する(“Examining the Politics of Recognition”)」で「差異の政治」と「尊厳の政治」の対立というモデルを示した。筆者の視点はこれと重なる。だが彼の論文の目的は、多文化主義をめぐる議論の整理というよりは、高度な論理的積み上げによる多文化主義の擁護だった。テイラーの議論自体は並の言論人には及びもつかない質の高さを持つ反面、具体的なアメリカの政治思想対立や、多文化主義が実際にとっている形への言及が不足している。それ以外にも多文化主義をめぐる思想的対立モデルの描写は存在するが、アメリカの保守主義とリベラリズムの対立と直接結びつけその関係を探ろうとする人々は少ないように見受けられる。
また、一般的にいって、政治思想の専門家たちは、政治思想を用いて実際の社会を説明するモデルを作り、一般社会に問うという作業を怠っている。政治思想という学問分野のあり方には二つの潮流があると筆者は考えている。一つは、過去の偉大な古典文献を解釈して図鑑のように比較、分類する作業。もう一つは、特定の思想に立脚した「政治的な」意見を発露する作業。もちろん、それらの作業の重要性については改めて強調するまでもない。しかし、政治思想がどういう意味を持ち、世の中を理解するのにどう役立つのかを発信する作業も重要である。それがなくては、政治思想は、一般社会はもちろん、少しでも違う学問に携わる人々からも、役に立たないものとしてそっぽを向かれてしまう。言うまでもなく、世界に最も強い影響力を持つ国家であるアメリカを理解することは、専門家以外の人々にとっても重要な課題のはずである。そのためには、政治思想を現実社会の現象に当てはめなくてはならない。
本稿の目的は、多文化主義をめぐる現代アメリカの政治思想の対立モデルを提示することである。どういう対立モデルなのか? それは「自由主義 vs. 多文化主義」である。この説明は一見逆説的である。なぜなら、一般的に、アメリカではリベラルたちが多文化主義を支持し、保守たちが反対するからだ。自由主義はリベラリズムの訳語で、それを信じる人たちがリベラル(自由主義者)なのだから、「保守主義 vs. 多文化主義」と言わないとおかしいのではないか? おかしくないのだ。なぜなら、Ⅰ章で説明するように、現代「リベラル」とみなされる思想と本来の自由主義は同じではない。Ⅲ章で明らかになるように、アメリカではリベラルたちよりも保守たちの方が自由主義と強いつながりを持っている。多文化主義に反対する保守たちの後ろ盾は自由主義なのだ。
この論文の目標は、多文化主義の支持あるいは反対を表明することではない。片方が正しく、もう片方が間違っているという結論への予定調和も、こうすれば対立を乗り越えられるという解決策も、用意していない。本稿は、個々の読者が現実を理解したり自分の立場を決めたりするための材料、あるいは議論を発展させるための土台を提供する試みである。
Ⅰ章では、自由主義の特質を浮き彫りにする。主にジョン・ロックの思想を紐解くことで、「自由」が国家権力の干渉からの個人の自由、「平等」が個人を単位とする権利の平等を意味することを明らかにする。自由主義は、社会を国家権力と個人に分け、前者から後者を守る思想なのだ。それが持つ意味を、現代社会の例に当てはめて考察する。
Ⅱ章では、多文化主義を定義し、その理論と実態を探る。世の中に出回っている曖昧な定義を批判的に修正し、多文化主義を「ある国家内における社会集団を単位にした結果の平等を、主に政府の介入を通して上から目指すことを支持する考え方」と定義する。その定義の有効性を、アファーマティブ・アクション、多文化教育、多様性トレーニングなどを考察することで確認する。
Ⅲ章ではアメリカ政治思想の保守主義とリベラリズムの対立像を描く。前者とⅠ章の自由主義、後者とⅡ章の多文化主義とのつながりを明示し、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルの下敷きとする。ヨーロッパでは、権威を擁護するのが保守主義だったが、権威を打ち倒すことで成立したアメリカ合衆国ではその逆の自由主義が伝統となり、保守主義の源流となった。対するリベラリズムは社会主義的な再配分を肯定する思想である。またこの章では、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルから欠け落ちた視点も補う。
Ⅳ章では、まず「自由主義 vs. 多文化主義」モデルを説明した上で、自由主義の視点に立ち、多文化主義を批判する。多文化主義は、自由主義の芯を為す諸理念と真っ向から対立する。国家権力の介入によって社会を改良しようという動きは政府の暴走で、個人の自由を脅かす。人種や民族を単位に社会を分類する発想は個人主義に反するし、集団ごとに権利が異なるのは権利の平等を蹂躙している。
Ⅴ章では、Ⅳ章の逆を行う。つまり、多文化主義の立場から自由主義の問題点をえぐり出す。自由主義には限界がある。その最たるものは、私的領域での差別を解決できないことである。その盲点を突いたのが多文化主義だ。また社会は自由主義が前提とするように個人のみで構成されているわけではない。社会集団を標的にした差別が現に存在するのだ。その上、そもそも自由主義が普遍的な正しさを持っているかどうかも怪しい。
2010年5月12日水曜日
構想走り書き(2004年9月2日執筆)
大学生時代の卒論構想。当時の個人的メモ。
俺は来学期、卒業論文を書く予定だ。何を書くかは、ちょっと前から考えていて、メモ帳を作って、時間があったときに何回かに分けて、ブレイン・ストーミング的に、思いつくままに構想(内容の案)を書いていた。自分に語りかけながら考えていった。別にこれで思考が完結したわけでもないのだが、ちょっと修正して、丸ごと載せる。こうやって、別にまとまった文章を書こうと意気込まないで書いた方が筆が進む。
●論文の目的は?
多文化主義がリベラル・デモクラシーの原理といかに相容れないかを検証すること。仮タイトル:「リベラル・デモクラシーの敵としての多文化主義 Multiculturalism as an Enemy of Liberal Democracy」。
俺は2003年春学期に「アメリカの保守主義から見たアファーマティブ・アクションの問題点」というペーパーを書いた。その究極の目的は、自由主義(そしてアメリカの保守主義)から見た多文化主義の問題点を、アファーマティブ・アクションという事例を通して分析することだった。
しかし、どうもアファーマティブ・アクションという事例を超えて多文化主義そのものまで問題をえぐることができなかった。それが今考えると少し心残り。だから、今回はある意味で、そのペーパーの拡張版を書きたい。なしえなかったことを補完して、自分の大学生活の思考の集大成としたい。
●まず、多文化主義とは?
これが普通の定義だ。「一つの社会あるいは国家の中における複数の文化の共存を目指す思想」。
しかし、これでは本質が分からない。なぜなら、「誰が」その「共存を目指す」のかが分からないからだ。この定義では、人々が勝手に自分の頭の中だけで文化相対主義を信じているだけで「多文化主義」になる。
だが、多文化主義は単に個人の内面の問題ではない。文化相対主義は、多文化主義の前提にはなるだろうが、多文化主義そのものではない。
そこで、俺はこの定義を提示したい。「政府の介入を通して社会における集団的な結果の平等を目指すことを支持する考え方」。つまり、複数の文化の共存を目指すのは、政府なのだ。社会を文化によって分けて、それらの平等を政策によって実現しようとするのが多文化主義だ。その際の分類は主に人種、民族だ。(ここでのとてつもなく重要なキーワードが多様性(diversity)だ。最近読んだ"Diversity: The Invention of a Concept"は力作だった。その本の著者もdiversityが主に対象にするのはraceだと言っていた。
平等とは、さっきちらっと言ったように、結果の平等。(平等には、権利、機会、結果の三段階がある、デイヴィッド・ボウツ曰く。)
*多文化主義の定義や内容については、いくつか文献(特に支持者が書いたもの)を見ておく必要がある。
●リベラル・デモクラシーとは?
まず、多くの日本人は「民主主義」という言葉を使うが、民主主義という思想はないんだ。この訳語は有害で、誤解を招く。
我々が「民主主義」と呼ぶものは、自由主義とデモクラシーに分けることができる。前者が思想で、後者は政治制度。前者を土台に後者が存在するのが近代デモクラシー。リベラル・デモクラシーと言われる。自由民主主義と訳されている。これらをしっかり区別するのが大事なんだ。
自由主義とは、国家権力の干渉から、個人の自由、財産、生命を守ること。根底にあるのが、人はみな平等で奪えない権利を持つのだから(生まれつき。自然権)、人が人を支配することはできない。だから政府は認めても最小限。その役割は人々の権利を守ること。そして外敵から守ること。極端な場合は無政府主義。積極的な政治参加にはどう考えてもつながらない。「政治からの自由」。
経済がすべて。バーナード・クリックが言っていたように、「自由主義者にとってのマスター・サイエンスは経済学」。「政治が悪いから経済がよくない」んじゃない。「政府が個人の競争に干渉するから経済がよくない」、「政治がある(ありすぎる)から経済がよくない」んだ。小室直樹も『田中角栄の呪い』で儒教倫理と相反するものとして説明していた。夜警国家。
自由主義の反対が権威主義だ。大きな政府→社会主義、共産主義。
*自然権という概念について、改めて学ぶ必要がある。ロックはちょっとしか言っていないから。レオ・シュトラウスがよさげな本を書いていた。
俺は来学期、卒業論文を書く予定だ。何を書くかは、ちょっと前から考えていて、メモ帳を作って、時間があったときに何回かに分けて、ブレイン・ストーミング的に、思いつくままに構想(内容の案)を書いていた。自分に語りかけながら考えていった。別にこれで思考が完結したわけでもないのだが、ちょっと修正して、丸ごと載せる。こうやって、別にまとまった文章を書こうと意気込まないで書いた方が筆が進む。
●論文の目的は?
多文化主義がリベラル・デモクラシーの原理といかに相容れないかを検証すること。仮タイトル:「リベラル・デモクラシーの敵としての多文化主義 Multiculturalism as an Enemy of Liberal Democracy」。
俺は2003年春学期に「アメリカの保守主義から見たアファーマティブ・アクションの問題点」というペーパーを書いた。その究極の目的は、自由主義(そしてアメリカの保守主義)から見た多文化主義の問題点を、アファーマティブ・アクションという事例を通して分析することだった。
しかし、どうもアファーマティブ・アクションという事例を超えて多文化主義そのものまで問題をえぐることができなかった。それが今考えると少し心残り。だから、今回はある意味で、そのペーパーの拡張版を書きたい。なしえなかったことを補完して、自分の大学生活の思考の集大成としたい。
●まず、多文化主義とは?
これが普通の定義だ。「一つの社会あるいは国家の中における複数の文化の共存を目指す思想」。
しかし、これでは本質が分からない。なぜなら、「誰が」その「共存を目指す」のかが分からないからだ。この定義では、人々が勝手に自分の頭の中だけで文化相対主義を信じているだけで「多文化主義」になる。
だが、多文化主義は単に個人の内面の問題ではない。文化相対主義は、多文化主義の前提にはなるだろうが、多文化主義そのものではない。
そこで、俺はこの定義を提示したい。「政府の介入を通して社会における集団的な結果の平等を目指すことを支持する考え方」。つまり、複数の文化の共存を目指すのは、政府なのだ。社会を文化によって分けて、それらの平等を政策によって実現しようとするのが多文化主義だ。その際の分類は主に人種、民族だ。(ここでのとてつもなく重要なキーワードが多様性(diversity)だ。最近読んだ"Diversity: The Invention of a Concept"は力作だった。その本の著者もdiversityが主に対象にするのはraceだと言っていた。
平等とは、さっきちらっと言ったように、結果の平等。(平等には、権利、機会、結果の三段階がある、デイヴィッド・ボウツ曰く。)
*多文化主義の定義や内容については、いくつか文献(特に支持者が書いたもの)を見ておく必要がある。
●リベラル・デモクラシーとは?
まず、多くの日本人は「民主主義」という言葉を使うが、民主主義という思想はないんだ。この訳語は有害で、誤解を招く。
我々が「民主主義」と呼ぶものは、自由主義とデモクラシーに分けることができる。前者が思想で、後者は政治制度。前者を土台に後者が存在するのが近代デモクラシー。リベラル・デモクラシーと言われる。自由民主主義と訳されている。これらをしっかり区別するのが大事なんだ。
自由主義とは、国家権力の干渉から、個人の自由、財産、生命を守ること。根底にあるのが、人はみな平等で奪えない権利を持つのだから(生まれつき。自然権)、人が人を支配することはできない。だから政府は認めても最小限。その役割は人々の権利を守ること。そして外敵から守ること。極端な場合は無政府主義。積極的な政治参加にはどう考えてもつながらない。「政治からの自由」。
経済がすべて。バーナード・クリックが言っていたように、「自由主義者にとってのマスター・サイエンスは経済学」。「政治が悪いから経済がよくない」んじゃない。「政府が個人の競争に干渉するから経済がよくない」、「政治がある(ありすぎる)から経済がよくない」んだ。小室直樹も『田中角栄の呪い』で儒教倫理と相反するものとして説明していた。夜警国家。
自由主義の反対が権威主義だ。大きな政府→社会主義、共産主義。
*自然権という概念について、改めて学ぶ必要がある。ロックはちょっとしか言っていないから。レオ・シュトラウスがよさげな本を書いていた。
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