「可愛いとは思ってるけど人気があるとは思ってません。」
正確な時期は分からないが、おそらくモーニング娘。に加入して(2003年)間もない頃のテレビ出演動画だった。
モーニング娘。構成員たちが一列に並び、メンバー内で(世間から)一番人気があるのは自分だと思う場合、手元にあるボタンを押す、という場面だった。
ボタンを押した3人の中に、道重さゆみは入っていなかった。
「どうした道重?」と不思議そうに尋ねる矢口真里にほぼ真顔で道重さゆみが返したのが、最初の言葉である。
ネットで動画を見た私は、機転の利いた対応に大笑いした。
しかし、それ以上に気になったのが、最近の発言とのずれである。
「(もし自分がAKBの一員で)総選挙をやったら一位になると思う」(2011年3月8日「ロンドンハーツ」)
「(私は)世間では一番可愛いと言われている」(2011年4月5日「PON!」)
上記の発言は、「私は一番可愛いと自分で思っているし、それは社会的にも認められている」という信念がなければ成立しない。
しかし、どうも動画から判断するかぎり、デビュー間もない頃は「私は一番可愛いと自分で思っているが、それは社会的には認められていない」というのが基本的な姿勢だったようなのだ。
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人の評価には、二つの側面がある。
一つは、自分による、自分に対する評価。
もう一つは、他者による、自分に対する評価。
その二つが完全に合致することは、まずあり得ない。
人気商売の芸能界に限った話ではない。会社の人事評価でも一緒だ。いくら自分が最高評価に値する成果を出したと自負していたとしても、自分の成績を自分で決めることはできない。上司が同じ考えとはかぎらないからだ。部下の自己評価と上司による評価を何らかの形ですり合わせていくのが、企業における一般的な評価面接のはずだ。
人は、自己評価と社会的承認の狭間で揺れ動く。あるときは自信過剰になり、あるときは自己卑下に陥る。
人は、根拠のない自信と、他人と比較した上での自信喪失の間で揺れ動く。俺は出来ると確信して止まないときもあれば、他人がまぶしくてくじけそうになるときもある。
人は、理想と現実の、どちらにも安住したがらない動物のようだ。
事実、道重さゆみもごく稀に、弱気な一面を見せることがある。
「まあ正直にね、今(この場に他のモーニング娘。)メンバーもいないし話しますけど皆さんだけに。別に、可愛くないですからね、大して」(2009年8月18日「アメーバスタジオ公開生放送」)
しかし、2003年からの8年間で、道重さゆみは経験を積み、数多くの成功を収めてきた。特にここ2年くらいは「現役の」モーニング娘。への一般的注目度が下がる中、数多くのバラエティ番組に出演し、古豪アイドル集団の屋台骨といっても過言ではない孤軍奮闘の活躍を見せた。
その過程で、自己評価と社会からの承認が接近してきたと実感できたのかもしれない。
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いや、人は実績や経験の裏付けがあってこそ本当に自信を持てるだなんてつまらないことを言うために、わざわざ私はブログを更新しているわけではない。
たしかに、自己評価の世界に閉じこもり、自分が見えなくなった人は、痛々しい。こんな俺の価値が分からない社会が悪いんだなんて叫んでみたって、誰も聞いてはくれない。
でも道重さゆみの場合は、突出した自己評価を素直に表に出す姿勢を最初から貫いていなければ、今の地位を確立できていたはずはないのだ。
きっと彼女にとって「私は可愛い」という命題は、すべての前提であり、出発点なのである。
つまり、道重さゆみにとって「私は可愛い」という命題は、宗教にとっての「神は存在する」という命題と同じなのである。
したがって、論理的に証明することではないのである。疑問を差し挟むことに、何の意味もないのである。
「神は存在する」と信じなければ、神は存在しない。その時点で、宗教は存在自体を否定されるのである。
それと同様、「道重さゆみは可愛い」と信じなければ、道重さゆみは可愛くない。その時点で、道重さゆみは存在自体を否定されるのである。
道重さゆみによる「私は可愛い」は、「道重さゆみは可愛い」という現実を作るための、自己評価なのである。
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現実とは何か。
「現実を見ろ」なんて言うように、多くの人は、世の中には私たち全員にとって共通の、一つの客観的な現実があると思っている。でも、それは間違っている。
なぜなら人はみな、自分にとって重要なものや、知っているものしか認識できないから、同じものを見ても、見えるものは違うのだ。
「・・・現実世界をそのまま認識している人は一人もいないのです。」(苫米地英人、『まずは親を超えなさい!』、フォレスト出版、p.26)
「・・・認知科学においては、現実世界やリアリティーの定義は簡単で、いま本人にとって臨場感のある世界がリアリティーなのです。」(苫米地、前掲書、p.29)
苫米地英人氏によれば「現実=イメージ×臨場感」であり、たとえば映画に入り込んでいるときは映画の世界が現実なのだ。(苫米地、前掲書、p.143)
「神が存在する」というのは、必ずしもすべての人にとって現実ではない。でも、神が存在すると臨場感を持って信じることができる人たちにとっては、紛れもなく現実なのだ。これは、彼らにとってはおそらく、私たちのほとんどにとってたとえば「空が青い」とか「世の中には男と女がいる」というのが自明であるのと同様なのである。
「道重さゆみは可愛い」という命題も、臨場感を持つことができれば、その人にとって道重さゆみは可愛いのである。それが現実だ。それでは単なる脳内の思い込みに過ぎないではないかと言う人もいるかもしれない。
でも、そもそも、客観的に見た可愛さって、何だ? そんなものが存在するのだろうか。そもそも物理的現実世界に「客観的に可愛い人」は存在しない。「可愛い人」や「可愛くない人」は人々の頭の中にしか存在しないのである。それは、特定の時代や集団、個人が抱いている幻想である。一歩その時代、集団、個人を離れれば、評価が一変してもおかしくない。
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私は以前、道重さゆみはHIP HOPである、と唱えた。
その記事で私は、道重さゆみにとっての「アイドルは可愛くなくてはいけない」という原則が、HIP HOPにおける「リアルでなくてはいけない」と重なるという指摘をした。
HIP HOPの世界でも、「リアルである」ことはまず、自分で決めるのである。そこで初めて、リアルか否かという判断の土俵に立てるのである。
謙遜して「いや、自分はリアルなんかじゃないよ」なんて謙遜するラッパーは(仮にいたとすれば)、その時点でリアルではない。リアルというのは、自分はリアルだと言ってはばからない、そんな傲慢な態度から始まるのである。
「俺はリアルだ」と言っているラッパーの世界にリスナーが臨場感を持つことができれば、リスナーとの間で、そのラッパーはリアルだという現実が共有される。
私が一番好きなラッパーの一人であるTalib Kweliは最近twitterで、こう言っていた。日本語に訳すと「昔、ラッパーは自分がドープだって証明しなきゃいけなかった。でも今では、ドープだということを説得しないといけなくなっている。」ドープだということを説得するということは、「ドープなラッパーである自分」という世界への臨場感をリスナーに共有してもらうよう、自ら積極的に働きかけるということだろう。
たとえばK DUB SHINEは、「知的な上タフなイメージ」「巷じゃ流行の最先端のやつが興味持つ俺の体験談」と歌詞で自己称賛している(radioaktiveprojeqtのアルバム"neworlder"、「これ超よくねぇ?」より)。
K DUB SHINEは本当に知的でタフなイメージを持たれているのであろうか? 本当に巷では流行の最先端のやつが彼の体験談を聞きたがっているのだろうか? それは分からない。でもこうラップすることでK DUB SHINE自身がその内容に臨場感を持ち、小気味良い韻に頭を振るうちにリスナーの頭の中でもそういうことになってしまえば、それが現実なのである。
同様に、道重さゆみ自身が信じて止まない「私が可愛い」という世界を、私たちが受け入れる。その時点において、道重さゆみにとっての現実世界と、私たち一人一人の現実世界が、融合するのである。
テレビで、ある一般人女性がこうコメントしていた。「(道重さゆみは)自分だけの世界で自分が可愛いと思っている」(2010年6月1日「バナナマンのブログ刑事」)
彼女の目の付けどころは、鋭い。事実、彼女自身は道重さゆみのことをそれほど可愛いと思っていないのだろう。それにケチをつけるつもりはまったくない。
でも。道重さゆみは既に、私たちの中に確固たる現実を作っているのである。