2010年5月17日月曜日

【第三章 アメリカ政治思想の右左】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立

Ⅲ アメリカ政治思想の右左

保守対リベラル

アメリカ国民を説明する、使い古された表現に、「50-50 nation」がある。これは、彼らが様々な問題に関して、常に二つの相反する立場に分かれて議論をするという意味である。50というのは50%のことだ。もちろん、この単純な説明がいつでも現実のアメリカに当てはまるわけではない。しかし、このモデルは、アメリカの政治的な論争を見る上ではある程度有効である。

何と何の対立なのか? それは、保守主義(右翼)とリベラリズム(左翼)である。アメリカを50-50状態にさせる問題には様々なものがある。妊娠中絶を許すべきか禁止すべきか。税金を増やすべきか減らすべきか。そういった問題をめぐる対立には、ある程度、二項対立の構図が当てはまる。二大政党のうち共和党が保守、民主党がリベラルの立場を代表する。妊娠中絶に関しては、保守たちは反対し、リベラルたちは賛成する。税金に関しては、保守たちが減税、リベラルたちが増税を望む。もちろん、個々の保守たちやリベラルたちがすべてこの対立に当てはまるとは限らない。しかし、大きな構図としては、アメリカの社会問題をめぐる議論は、「保守対リベラル」で説明できることが多い。それは、本稿の主題である多文化主義においてもそれは例外ではない。そして、その対立をよく見てみると、保守主義がⅠ章で扱った自由主義、リベラリズムがⅡ章で扱った多文化主義と深いつながりを持っているのだ。本章では、アメリカの保守主義とリベラリズムを考察することで、そのつながりを確認する。

独立宣言の意味

アメリカ合衆国を成立させたのが、1776年の独立宣言である。この文書は、歴史的重要性と有名さは計り知れないが、分量はわずかだ。インターネットのサイトからダウンロードしてA4の紙に印刷すると、サイトによって多少の違いはあるだろうが、3枚程度に収まる。そのうち、1枚以上を56人による署名が占め、宣言そのものは2枚にも満たない。

そのわずかな分量のうち約半分は、英国の王が犯した罪の列挙である。「彼は~という罪を犯した」という書き方で王を糾弾しているのだが、王を指す彼(he)という単語が19回も出てくる。その内容を手短にまとめるとこうなる:「私たちを支配する英国の王は、暴君である。王や英国本土の議会に対する再三の請願にも関わらず状態は改善されなかった。この圧政は改善の気配がない。したがって我々はこの王から独立する」。

「我々」というのは、英国の君主の統治方法に我慢ならない州の集まりである。植民地時代のアメリカには13の州が存在し、それぞれが独立した国家だった。それらの州が、英国の支配から脱却するために、団結したのだ。これがアメリカ合衆国という国名の由来である。つまり、植民状態から抜け出すために一体となった (united) 州の集まり(states)なのである。

この独立宣言は、Ⅰ章で紹介したジョン・ロックの思想の具現化である。つまり、自由主義的なのだ。中でもそれを示すのが、この箇所である。

われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の諸権利を付与され、その中に生命、自由および幸福の追求のふくまれることを信ずる。また、これらの権利を確保するために人類の間に政府が組織されること、そしてその正当な権力は被治者の同意に由来するものであることを信ずる(*65)。
*65 松本ほか編、232

最初の文は、すべての個人が平等に権利を持つという自然権の考えだ。次の文は、権利を守るために政府が存在するのであって、恣意的な支配は許さないという、国家の役割を抑制する考えである。国民のために国家があるのであって、その逆ではないのだ。独立宣言が示すのは、アメリカが、その出発点において絶対的な支配者を持たなかったことである。自由主義的な、恣意的な権力の拒否が、この国の原点であり、伝統なのである(*66)。

*66 アメリカは「古い世界」たるヨーロッパの社会因習から脱皮した、自由な、「新しい世界」だと言われることがある。アメリカのラムズフェルド国防長官は以前、イラク戦争でアメリカと足並みを揃えようとしないドイツやフランスを「古いヨーロッパ(old Europe)」と愚弄し論争を呼んだが、これにはそういう背景がある。

保守主義と小さな政府

この前提が、アメリカの政治思想における保守とリベラルの意味を特殊にした。ヨーロッパと比べて、簡単に言えば、「リベラル」の意味が逆転したのである。ヨーロッパでは、保守主義が伝統的な権威を擁護する立場なのに対し、自由主義が権威を否定する立場だった。しかし、アメリカは、初めから擁護すべき権威を持たなかった。英国の王を拒否した自由主義が、出発点であり、したがって守るべき伝統になったのだ。ヨーロッパでは自由主義であったものが、本来は逆の概念である保守主義の源流となった。ルイス・ハーツによると、アメリカには、ヨーロッパと違って、封建主義が存在しなかった。ロック流の自由主義がアメリカを支配しており、人々は、非合理的なまでに自由主義に傾倒している(*67)。アメリカの保守主義は、佐々木毅が言うように「自由主義や人民主権という大前提を否定するのではなく、むしろ、それを受け入れる形で成立してくる(*68)」のだ。

*67 Hartz, 3-11
*68 佐々木、11

事実、アメリカの「保守」たちは、かなり自由主義的である。種明かしをすると、Ⅰ章で紹介したラジオ番組は、アメリカでは保守的な番組として有名なのだ。リンボーは1988年からラジオで全米規模の政治番組を始めた。リンボーの一人しゃべりが中心だが、リスナーが電話をかけて参加できる。週5回、1日3時間の放送だ。今では約600のラジオ局に毎週2000万人のリスナーを抱えるとされている(*69)。ディズニーの判断が「検閲」ではないから規制できないという主張は、実際にラッシュ・リンボーによってなされたことがあるが、彼は自他ともに認める「保守のアイコン」である。もちろん、代役ホスト、ウィリアムズによる、法律による規制でなければ黒人を入れないレストランがあってもよいという主張も(例の極端さからすべての保守が同意するとは到底思えないが)保守的なのだ。

*69 “Rush Limbaugh,” 550 WWNC-AM Asheville, NC. http://www.wwnc.com/rushlimbaugh.htmlなど

もちろん、一口に保守と言っても、彼らの思想は一枚岩ではなく、一つの定義を提示するのは困難な仕事である。ここでは、三つの切り口から保守主義を見ることで、複合的に定義する。まず、第一の視点:保守とは小さな政府を支持する人のことである。これは、保守の定義として最も多くのアメリカ人が受け入れるものではないか。小さな政府は保守主義の芯を為す一大理念であり、これを捨てるならば保守主義は存在意義を失う。たとえば、リンボーは1994年にポリシー・レヴュー誌に寄せた「アメリカの声:なぜリベラルたちが私を怖がるか(”Voice of America: Why Liberals Fear Me”)」という文章で、こう喝破している。

リベラルたちは、金さえ手渡せば政府が何でも面倒を見てくれると約束することで、アメリカ人を寝かしつけようとしている。(しかし)すでに何百万人もの人々が、連邦政府に毎年1.5兆ドルを渡すことの賢明さを、真剣に疑い始めている。郵便局は郵便の配達を間に合わせることすらできないし、配達がだるいときには投げ捨てているのだ。私は多くのアメリカ人が抱いている政府の「効率性」への懐疑を・・・(ラジオ番組で)確証する。それがリベラルたちを怒らせる。彼らは政府がよいもので、大きければ大きいほど好ましいという発想に執着しているのだ(*70)。
*70 Limbaugh

リンボーから見ると、政府はよくないもので、小さければ小さいほど好ましいのだ。もちろん、個別の問題を見ていくと、彼がいつでも小さな政府を最優先して議論しているとは限らないが、10年以上たった現在でも、基本的な立場は変わらない。このリンボーの見地は、彼特有のものではなく、アメリカでは保守的な態度として典型的である。Ⅰ章にリンボーの代役ホストとして登場したウィリアムズは、『より多くの自由とはより小さな政府を意味する:建国者たちはこれをよく分かっていた(More Liberty Means Less Government: Our Founders Knew This Well)』という題名の本を出している(*71)。これは、政府の干渉のない状態が自由を表すという、Ⅰ章で解説した自由主義や、本章で紹介した独立宣言の精神をよく表している。

*71 Williams

政策レベルでも、この考え方は生きている。共和党の政治家は減税と政府支出の削減を主張するのが定番だ。たとえば福祉は、成功した人から金を奪い、失敗した人たちに分け与える政府の行為だ。これは自由競争に対する政府の横槍であり、個人から自己責任を奪うため、余計なお世話なのだ(*72)。税金がすべての政府活動の動力源である。政府を小さくしようとするなら税金も支出も減らし、市場に対する政府の規制を緩和すべきなのだ。何を隠そう、今ではイラクを占領し海外におけるアメリカ政府の役割を拡大したジョージ・W・ブッシュ大統領も、就任前には「控えめな外交政策」を約束していたのである(*73)。保守主義の原理に忠実たらんとする人々の中には、このブッシュの「転向」を厳しく追及する人々もいる(*74)。彼らに言わせれば、ブッシュはもはや保守ではない。たとえば、アメリカの政治雑誌の中で最も激しいブッシュ批判を繰り広げているという一誌が、アメリカン・コンサヴァティヴ(直訳すると「アメリカの保守」)誌である。雑誌や新聞はよく、大統領選挙が近づくと、どの候補者を支持するかを明らかにする。保守系の雑誌なら、もちろん共和党の候補者を支持する論説文を載せる。しかしアメリカン・コンサヴァティヴは2004年の選挙直前の号ではそれをせずに、複数の執筆者がそれぞれ別の候補者を支持するという特集を組んだ(*75)。この雑誌によるブッシュ批判は外交、内政の両面に及び、また論者によって論点は異なるものの、一つの芯となっているのが、ブッシュが小さな政府という原則を踏みにじっているという怒りである。新保守主義(いわゆるネオコン)の台頭によって保守主義と小さな政府のつながりが、以前ほど強固ではなくなってきている。だが、この原則は、アメリカの保守たちが立ち戻るべき重要な原点であるのもたしかだ。

*72 ただ、軍事費は支出削減要求の矛先にならないことも多い。この矛盾はリベラルたちにとっては攻撃のしどころである。
*73 “Foreign Policy Divide Is Slim For Bush, Kerry,” Los Angeles Times http://www.latimes.com/news/politics/la-na-policy30sep30,1,4692298.story?coll=la-home-politics&ctrack=1&cset=true
*74 ブッシュは不要な相手を侵攻し占領することで無駄な金を使い、政府を大きくしたというのが、イラク戦争に反対する保守的な論点の一つである。
*75 The American Conservative, Nov. 8, 2004. 民主党のケリーや第三党の候補者をすすめる論者もいれば、無投票を推薦する人もいた。

キリスト教

第二の視点:保守とは宗教的な人のことである。宗教とは、もちろんキリスト教だ。キリスト教の倫理は、多くの保守たちの社会問題に対する態度を決めている。アメリカは先進国の中で飛びぬけて宗教的である。エコノミスト誌によると、西ヨーロッパでは定期的に礼拝に参加するのは人口の20%に過ぎず、東ヨーロッパではその数字は14%に落ち込む。しかし、アメリカでは47%の人々が、調査に対し最低週に一度は礼拝に行くと答えた。アメリカ人で無神論者なのは全体の2%である。教会に所属する人の数は19世紀から20世紀にかけて増加しており、2000年の段階で約60%を記録している(*76)。

*76 Hill, C. (2002): “The Fight For God,” Economist.com, Dec. 19, 2002 http://www.economist.com/displaystory.cfm?story_id=1487612

キリスト教信者の保守たちは、宗教(的な)右派(religious right)と呼ばれる勢力を形成している。彼らは1980年代に、同性愛者の権利や、女性が妊娠中絶をする権利を認めようとするリベラルたちの動きに対する反抗として沸き起こった(*77)。彼らは、単に宗教的な主張を繰り返すにとどまらず、ときには実力行使に出る。たとえば、妊娠中絶医院(*78)は格好の標的である。宗教的な保守たちの中絶に対する考え方はプロウ・ライフ(pro-life、「生命派」)である。これは胎児の生命を重要視し中絶を殺人と捉える立場である。反対運動者たちが施設を封鎖する事件は、1996年には7件、翌年には25件起きた。デモの数は1996年に3932回、1997年に7827回だった。暴力事件としては、まず1993年3月にデイヴィッド・ガン医師がクリニックの外で射殺された。これがこの問題をめぐる最初の殺人事件だった。同年の8月には医師のジョージ・ティラーが、医院の駐車場で腕を撃たれた。同月にジョン・ブリトン医師と彼のボディガードが殺害された。1994年の11月にはガースン・ロマリス医師が自宅で殺された。翌月にはジョン・サルヴィという人物が二つの妊娠中絶医院に押し掛け、2人の受付担当者を殺し5人を負傷させた。1997年1月にはアトランタの医院で二回の爆発が起きた。1年後には別の医院で爆発が起き、警備に当たっていた警察官が殺害され看護婦1人が重体に陥った。これは中絶医院の爆発事件による初の死亡事件だった。1994年には、妊娠中絶医院やそれを利用する人たちに脅迫や暴力を加えることを禁止する法律ができたが、効果は部分的にとどまった(*79)。

*77 副島、328
*78 アボーション・クリニック(abortion clinic)。中絶を専門に行う病院。
*79 Price

アメリカのキリスト教で最も力を持っているのはプロテスタンティズムだ。これは、聖書の教えに忠実たらんとする原理主義的な流派である。16世紀の宗教改革を先導したマルティン・ルターらが有名である 。テレビを利用して人々に福音主義を説く伝道師たちがいる。彼らはテレヴァンジェリスト(televangelists)と呼ばれる。これはテレビ(television)とエヴァンジェリスト(evangelist福音伝道者)を掛け合わせた造語である。奥山いわく彼らの主張は「中絶を認めるな」「学校で祈りの時間をつくれ」「ダーウィンの進化論を学校で教えるな」といったものであり、ゲイを否定し、「道徳」「美徳」「家族の価値」を政治に反映させようとする(*81)。

*80 ルター、また『新約聖書 福音書』を参照。
*81 奥山、147

政治も宗教右派の要求に呼応している。ジョージ・W・ブッシュ大統領は、伝統的な家族を重要する立場から、同性愛者同士の結婚に反対している。彼は2002年の演説で、異性同士の結婚を政府が守るべき「最も基本的な社会制度」と位置づけ、同性同士の結婚を不可能にする憲法改正の必要性を主張した(*82)。

*82 “Transcript of Bush Statement,” CNN.com. Feb. 24, 2004 http://www.cnn.com/2004/ALLPOLITICS/02/24/elec04.prez.bush.transcript/index.html

国家主権

最後の観点:保守とは国家主権にこだわる人のことである。保守は国家主権を至高の権威と考え、それが得る利益を最重要視する。それぞれの国家が、自分のことを自分で決めるべきである。その際の指標は国益だ。いわゆる「孤立主義」は、この発想の表れである。この思想を額面通りに、アメリカを孤立させようとする考え方だと受け止めるのは適当ではない。なぜなら、この名称は多分に、それに反対する人によるレッテルという性質を持ち、自分から積極的に孤立主義者を名乗ったり、アメリカは世界で孤立すべきだと唱えたりする人は、普通、いない。では、「孤立主義」とはどういう意味なのか? 副島隆彦によると「孤立主義」という日本語は誤訳で、「国内問題優先主義」という訳語が正しい。アメリカが他の国々への干渉を減らし、自国内の問題に取り組むべきだという考え方だ(*83)。筆者は本稿では副島の解釈にしたがう。国内問題優先主義を代表する論客が、1992年、1996年、2000年と三度の大統領選挙に立候補した経験を持つパトリック・ブキャナン、通称パット・ブキャナンである。彼は前述のアメリカン・コンサヴァティヴ誌の発起人の一人である。同誌やインターネットのウェブサイト(*84)で精力的にコラムを執筆し、再三に渡ってブッシュの外交政策を非難し、イラク撤退を要求している。彼の主著の一つが、『(アメリカは)共和国であって帝国ではない(A Republic, Not an Empire)』である。

*83 副島
*84 The American Cause. http://www.theamericancause.org/

彼のような立場を取る人々のかけ声が「アメリカを第一に考えよう!(America first!)」である。これは、アメリカが世界一の素晴らしい国だ、という意味ではない。アメリカは「世界の警察官」であろうとするのではなく、国内問題の解決を優先させるべきだ、という意味だ。この「内向き」な考え方だと、他の国で何か問題が起こっていたとしても、アメリカの重大な国益に関わらない限り、干渉するのは極力避けるべきだ。ましてや自ら戦争を仕掛けるなどして首を突っ込むのはやめるべきだ。たとえその国が独裁国家であっても、彼らがアメリカの安全を脅かさない限りは放っておくか、封じ込めておくべきなのだ。だから、世界中にアメリカが軍事展開するのはおかしい。それぞれの国や地域に、自分たちの安全を守らせればよいのだ。

国内問題優先主義は、モンロー主義とは違う。この二者は、一見似ているように見えるが、実際はかなり異なっている。モンロー主義とは、南米も含めたアメリカ大陸の権益を、アメリカ合衆国が独占するための考え方である。アメリカ「大陸」全体が自分たちの縄張りだから、ヨーロッパは口を出すな、そのかわりヨーロッパの縄張りには干渉しない、という意味である。背景にあるのは、アメリカが先頭に立って、軍事介入を通して西半球の安全・利益を守るべきだという、汎米主義(パン・アメリカニズム)である。曽村保信は1984年にこう書いた:「最近のアメリカ人のなかには、一般にベトナム戦争の後遺症のせいもあって、モンロー主義を公然と口にすることを避ける傾向が強い(*85)」。モンロー主義とは、ベトナム戦争のような対外干渉とつながる発想なのであって、それに反する思想ではないのだ。モンロー主義が他からの干渉を排除する単位がアメリカ大陸なのに対し、国内問題優先主義ではそれがアメリカ合衆国なのだ。

*85 曽村、158 モンロー主義については同書の140-158に詳しい。

この立場に共鳴する人々は、物や人が国家をまたぐことを好ましく思わない。保守の中には、国をまたいだ自由貿易を公然と否定する人もいる(*86)。なぜなら、他の国の競争者がアメリカになだれ込んでくることにより、アメリカ人が営む産業が危機にさらされるからだ。アメリカの産業を守るために、他国の製品には関税を課さなければならない(*87)。また、国家を超える(超えようとする)権威もいかがわしいし絶対に認めることはできない。たとえば国連は、多くの保守から非難と嘲笑の的になっている。ジョージ・W・ブッシュ大統領が京都議定書を認めないのには複数の理由があるが、一つの説明としては、保守的な視点から見ると、国際的な機関や条約に、自分のことを自分で決めることを可能にする主権を少しでも譲り渡すことはできないのである。

*86 保守たちには国内での自由貿易には賛成し、国をまたいだ自由貿易に反対する傾向がある。
*87 これは、日本にとっての米産業との類推で考えると分かりやすい。

リベラリズムと大きな政府

リベラリズムは、それらの三点において、保守主義と逆の立場をとる考え方である。保守主義の芯にあるのが自由主義なのに対し、リベラリズムを支えるのは社会主義、より正確には社会民主主義(social democracy)である。社会主義は、資本主義の論理的帰結である経済的不平等に異議を申し立て、富の平等を目指す。ただし、アメリカのリベラリズムは、資本主義を完全に否定するわけではない。資本主義を打倒しようと民衆に訴えかける民主党の大統領候補はいない。アメリカという国自体が歴史的に自由主義的なので、自由主義への対抗もその枠内で行われる。アンドリュー・ヘイウッドによると、社会主義はその目的をめぐって原理主義的社会主義(fundamentalist socialism)と修正主義的社会主義(revisionist socialism)に分かれる。前者は資本主義を打ち壊そうとするのに対し、後者は市場の効率性と社会主義の道徳を調和させようとする。つまり後者は資本主義(自由主義)と社会主義の折衷を図ろうとする。その発想を最も強く体現する穏健な社会主義が、社会民主主義である(*88)。

*88 Heywood, 75-76

リベラリズムの視点から見ると、社会の経済的不平等をなくすために、政府が資源を再配分する必要がある。資本主義的な競争は勝者と敗者、金持ちと貧乏人を生む。社会の貧困を克服するには、人々が得る富の量を均衡化するために政府が動かなければならない。単純化して言えば、お金をよりたくさん持っている人からより多くの税金を取り、より恵まれない人により多くの資金を流すのだ。それが大きな政府である。この考え方は民主党を定義づける特徴の一つである。だから、民主党の政治家たちは一般的に、共和党の政治家とは逆に、増税をして、国の富を福祉政策などを通じてより公正に配分することを望む。奥山真司によると、民主党には元々人種差別者が多く、南北戦争(1861~1865)では奴隷制を守ろうとする南部側を支持していた。しかし南北戦争の後は、「新しい移民をターゲットにした『労働者や貧乏人のための政党』」を標榜するようになった(*89)。ジョン・ゲリングによれば、1896年と1900年に民主党の大統領候補だったウィリアム・ブライアンが、この党に市場規制と再配分という目的を持ち込んだ。また1896年から1948年の期間を契機に、民主党は貧困の問題に焦点を置くようになった。1950年代からは彼らは貧困を社会問題として扱うようになった。その例がジョンソン大統領(在位1963~1969)の「偉大な社会」構想である(*90)。経済的不平等という社会問題を、政府の積極的な取り組みによって解決しようというのが、民主党そしてリベラリズムの姿勢だ。これは言うまでもなく、小さな政府とは逆の考え方である。保守たちはリベラルたちを「コミー(commie)(*91)」や「ピンコー(pinko)(*92)」と呼んで揶揄することがあるが、これは彼らから見てリベラルたちが政府に大きな役割を与えすぎているからだ。

*89 奥山、129
*90 Gerring
*91 共産主義者を意味するcommunistが語源。
*92 「ピンク野郎」くらいの意味。思想が完全に「アカ」ではないがアカがかっているから「ピンク」なのだ。

このリベラリズムの考え方に、多文化主義がすっぽりおさまることは明らかである。現状の社会が抱える「結果の不平等」を問題視し、それを、政府が積極的に動くことで、上からの統制で是正しようという発想が重なっている。自由主義が政府の役割の最小化を望み、個人の競争を重視するのに対し、リベラリズムは、政府が社会をどう動かすべきかの舵取り役であり、社会を改良すべきだという前提に立つのだ。この発想は「社会工学(social engineering)」と呼ばれる。筆者はⅡ章で、多文化主義を「上から」行うものと規定したが、それはこういう意味である。

世俗性

また、リベラルたちは保守たちと比べ、社会問題に関して宗教性の薄い立場をとる。たとえば、妊娠中絶に対しての彼らの考え方はプロウ・チョイス(pro-choice、選択派)である。これは、女性は子供を産むかどうかを選ぶ権利を持っている、だからその権利を守るべきだ、という意味である。中絶は19世紀に違法化され、1973年に合法化された。中絶の法的な禁止と許可の両方に、医者たちが大きな役割を果たした。合法化に向けての運動は、1960年代に始まった。二つの事件・事象がきっかけとなった。一つ目は、1962年に起きた。自身が服用していたサリドマイドという薬物が奇形を引き起こすことを知ったシェリ・フィンクバインという女性が、アメリカで中絶手術を受けようとしたが合法化されておらず、スウェーデンに渡って治療を受けたことだ。二つ目は、この時期に、妊娠している女性がかかった場合に奇形の原因となる風疹という疫病が広まったことである。この二つの出来事によって、メディアが中絶の問題を取り上げるようになり、一般の人々やリベラルな医者たちが妊娠中絶の合法化を支持するようになった(*93)。このように、法制化の発端は奇形児という、全体から見ると特殊な現象の防止のためだったが、現在ではそれにとどまらず、より広い意味での女性の「選択権」が中絶の論拠となっている。章の構成上、保守たちの立場を先に記述したが、この動きへの反応が保守たちのプロウ・ライフである。保守たちが最優先するのが、生まれてくるべき赤ん坊の「生きる権利」であるのに対し、リベラルたちが最も守りたいのは、女性たちが自ら産むかどうかを「選ぶ権利」である。

*93 Staggenborg, 13-15

越境

保守たちが国家主権や国益といった概念にしがみつくのに対し、リベラルたちは比較的、人、物、金、情報などが国をまたいで行き交うことに抵抗を持たない。いわゆる「グローバリゼーション」を支持するのだ。これからの時代、主権国家の役割は弱まって、さまざまな企業や個人が、世界全体を舞台に、自由に商売をする。現に、国際的な企業は世界の奥地にまで進出し、インターネットによって場所を問わず情報をやり取りできるようになった。時代の趨勢は、グローバル資本主義なのである。国境は曖昧になって、地球村ができあがるのだ。そういった考え方をよく表しているのが、トーマス・フリードマンのThe Lexus and the Olive Tree(『レクサスとオリーブの木』)である。フリードマンは、冷戦後の世界を動かす力を「グローバリゼーション」に求めた。彼はニューヨーク・タイムズ(*94)のコラムニストとして世界中を周った際の個人的な体験を織り込み、「グローバリゼーション」賛歌を歌っている(*95)。

*94 ニューヨーク・タイムズはリベラルな新聞である。アメリカの保守によるタイムズ批判は、日本の保守による朝日新聞攻撃を類推させる。
*95 Friedman

リベラルな考え方だと、国連などの国際機関や、国際的な合意は、積極的にその価値を認めなくてはいけない。たとえばイラクの侵攻、占領、復興は、自分たちだけでやろうとするのではなく、なるべく他国を巻き込んで協力させるべきだ。京都議定書のような国際的な合意の試みにも参加しなければならない。採るべきは一国主義(unilateralism、ユニラテラリズム)ではなく多国間主義(multilateralism、マルチラテラリズム)だ。

また、アメリカは「世界の警察官」であるべきだ。世界中でさまざまな国、地域が問題を抱えて困っている。アメリカのような、力を持つ大国には、世界の平和を維持する責務がある。人権を蹂躙する独裁者は打ち倒してその国の国民を解放しなければならないし、デモクラシーや自由を世界に広めなくてはいけない。そのためであれば、軍事的な介入も辞さないべきだ。

最後の部分を聞くと、リベラリズムではなく保守主義の間違いではないか、と思う人もいるだろう。しかし、これがリベラリズムなのである。たしかに、現在の「保守的な」ブッシュ政権は、イラクひいてはアラブ世界全体に自由とデモクラシーを輸出しようとしている。しかし、この外交政策のやり方は、伝統的な意味では保守的ではない。よく言われるように、新保守主義の具現化である。新保守主義とは、民主党から共和党に転向した「左翼くずれ」たちの思想である。元々の「保守主義」と違うから「新」を付けるのだ。この用語が本格的に使われ出したのは1960年の終わりごろだ。社会主義者のマイケル・ハリントンが、自分たちが信じてきた思想や政策の正しさを疑い右傾化した左翼のことを「新保守主義者」と呼ぶようになった。ハリントンがこの言葉を作ったと言われている。自身が新保守主義者のアーヴィング・クリストルによる「現実に襲われたリベラル」というのが、新保守主義者の定義として有名である(*96)。現実とは何か? それはソ連の脅威である。冷戦時、民主党はソ連に対して柔らかな態度をとった。これに対し、党の内部で強硬路線を主張する勢力が表れた。彼らが共和党に寝返り、新保守主義の運動を形作った。たしかに、新保守主義が確固たる位置を築き、「本来の」保守主義が歴史の彼方に消え去ってしまえば、それが「本来の保守主義とは違う」というのは思想史の解説にはなっても現実政治の解読にはあまり役立たないかもしれない。しかし、新保守主義を激しく拒絶する伝統的保守も、確固たる勢力として存在する。本稿では新保守主義は、保守主義とは別物と捉える。

*96 Podhoretz

リバータリアニズム

ここでは保守主義とリベラリズムを三つの切り口から見てきた。保守主義は小さな政府を求め、リベラリズムは大きな政府を必要とする。保守主義は宗教的であり、リベラリズムは世俗的である。保守主義は国家主権への執着を持っており、リベラリズムは国境を越えることに寛容だ。保守あるいはリベラルとみなされるためには、それら三つの面すべてで片方の立場をとる必要はない。保守全員、リベラル全員が同じ考えを持っているわけではない。なお補足をするならば、これらの比較は、あくまでもう片方と比べての話である。たとえば保守が極端に宗教的で、リベラルがまったく世俗的だというような、ゼロか百かの対立ではない。

また、筆者はジョン・ロックの思想の具現化である独立宣言にアメリカ政治思想の伝統を求め、それを守ろうとするのが保守主義だという言い方をしたが、厄介なことに個人の自由を大事にするのが保守、というだけでは不十分なのだ。それは、保守主義と宗教、国家主権とのつながりが説明する。保守たちは宗教的な道徳や倫理、国家の利益を、個人の自由よりも上に置くことがあるのだ。彼らは、中絶や同性愛者の結婚の是非に関しては、自由の原則よりもキリスト教倫理によって態度を決めており、そういった問題においては逆にリベラルたちが個人の自由を打ち出している。他の例を挙げると、たとえば保守たちは概して、公教育が子供たちに愛国主義を育むことを認める。多くの保守たちにとっては、一つの国民国家、一つの宗教的倫理の徹底といった目標のためであれば、個人の自由が多少犠牲にされても構わないのだ。ロック流自由主義の教義を絶対と考えない保守は「伝統主義者」を名乗ることがある。

個人の自由、最小政府といった、自由主義の根本原理を徹底的に追い求める立場は、リバータリアニズム(libertarianism)という独立した名前を持っている。リバータリアニズムは日本語で「自由至上主義」と訳されることもある。ロバート・ノージックが創始者と言われている。この思想を標榜する雑誌にはたとえば月刊誌Reasonがある。リバータリアニズムはどこまでも個人主義的であり、またⅠ章で紹介した意味での自由や平等を教条的に追い求める。小さな政府を、無政府主義と紙一重なまでに追求する。保守主義の一派と捉える人もいれば、右でも左でもない第三の勢力と位置づける人もいる。

彼らはキリスト教への違反を理由に中絶医院を襲ったり、愛国主義の名の下に個人の自由を制限する「愛国法」を支持するような保守たちとは仲が悪い。しかし、リバータリアニズムは、経歴を見ると、民主党よりは共和党に、そしてリベラルよりは保守に近い。W・ジェームズ・アントレ3世によると、冷戦時代にはソ連と対抗するためにリバータリアニズムが共和党の伝統主義に合流した。ソ連といえば、大きな政府の論理的帰結のような存在である。リバータリアニズムと伝統主義が小さな政府を掲げる保守主義を形成したのだ。少し前まで、アメリカにおけるほとんどの保守的雑誌には、リバータリアニズムと伝統主義の視点が混在していた。純粋にリバータリアンな雑誌と比較しても、保守派の雑誌は扱う題材や執筆者、崇拝する知識人がかなり重なっていた(*97)。ソ連が崩壊した今、大きな政府、小さな政府という対立が、アメリカ政治思想において以前ほど強固ではなくなってきている。しかし、本稿で採用した三つの比較要素のうち、認める政府が小さいか大きいかに着目することが、アメリカ政治思想の左右対立を最も明確に描き出す。リベラルたちに対する批判で保守たちの足並みが最も揃う論点は、彼らが大きな政府を認めすぎるという点である。この点に関しては、リバータリアンも伝統主義者も、大筋で合意する。ソ連はもう存在しないが、その残骸としての社会主義、社会民主主義への対抗、反リベラリズムという点で保守たちはまとまりを持つ。

*97 James Antle III, W.