2010年5月12日水曜日

人間社会の差別と平等について思うこと(2) (2004年6月22日執筆)

●空気の入っていない風船

能力差別を肯定する論拠があるなら、それはこれにつきるだろう。つまり、性別や人種は生まれつき決まっていて、個人の意思で変える性質のものではない。それに対して、能力は生後の努力で向上させることができる。だから、能力差別は許される。

これは、ある程度説得的である。何の世界でもいい、世界レベルで活躍している人を思い浮かべてみると、ほぼ例外なく、努力によって能力を磨いてきた人たちだ。たとえば、もし中田英寿が、生まれてからサッカーをせずに生きてきたら、今のようなサッカー選手になれなかったのは明瞭だ。だから、能力は、生まれつき決まっている人種や性別と完全に同じではない。

しかし、どこまでが「生まれつき決まっていない」のだろうか。これは難しい問いだ。いや、もちろん、生まれてこの方サッカーをやったことない奴が、20歳になって突然プロ契約を結んで代表に入って、なんて馬鹿げた話はありえない。人の能力は、生まれてから何をするかで、明らかに違ってくる。

しかし、だからと言って、生まれた時点で皆スタートラインが一緒で、そこからの条件(環境も含めて)がすべてを決めるとは思わない。

俺はこう考えている:人はそれぞれ、能力の限界や方向が決まっていて、生まれてからの努力で決められるのは、そこに何をどれくらい入れるかに過ぎないのではないか。努力する力も、人によって違うのではないか。

つまり、たとえるならば、人は生まれた時点では、空気の入っていない風船なのだ。それも、空気を注入した結果、どういう形になるかは人によって違う。大きさも異なる。そして、空気を入れる能力も、人によって違う。そして、先ほどのスタートラインという比喩を使うなら、そもそも人は、同じレースに参加するためのラインに立っているすら疑わしいのだ。

●身体と精神

人は、身体と精神に分けることができる。身体に関しては、人によって、身長にせよ、容姿にせよ、動体視力にせよ、生まれた時点で条件が異なっていて、それが何らかの格差を生み出していることは、あまりに自明だ。だから、たとえば容姿で悩んでいる女性に「あなたも努力次第で彼女と同じくらい美しくなれる」と言ったり、運動神経が鈍くて足の遅い小学生に対して、「お前がみんなに負けているのは努力が足りなかったからだ。これからの練習次第でいくらでも速くなる」と言ったりするのには、さすがにどんな偽善者でも多少はためらいを覚えるだろう。

精神も、身体と同じくらい不平等なのではないか。精神が体と違うのは、「お前だってがんばれば」式のレトリックが通用しやすいことだ。なぜだろうか。それは、精神が体と違って見えないからだ。ある女性が「美人」か「ブス」か、男性が「カッコイイ」か「キモい」(?)かは、誰でも(もちろん人によって判断尺度は異なるが)見るだけで判断できる(個人レベルで考えると、あなたはすべての異性に対してまったく同じように接しているだろうか?)。容姿は主観が入るし化粧とかの技術も入ってくるけど、身長となると完全に数字の問題だ。

しかし、頭がいいか悪いかは、見ただけでは分からない。人は知識を生まれつき持っているわけではない。たとえば、いくら頭が悪くて知識の少ない人でも、生まれたばかりの天才よりは知識が多いだろう! それが話を難しくする。はっきりとは分からない。だが、身体が不平等で、精神だけがなぜか平等、なんてありうるのだろうか。ありえないだろう。どれだけ賢くなれるかは、生まれつき決まっていると思う。知性を発揮できる方向も、人によって違うと思う。

忘れて欲しくないが、俺がここで話しているのは、単に能力の高さだけについてだけじゃない。志向、方向の問題でもある。つまり、運動が得意な奴もいれば、頭を使うのが得意な奴もいる。運動の中でも、たとえばサッカーという競技に限っても、GKで開花する人もいれば、FWで大成する人もいる。頭を使うと一言で言っても、数字を扱うのが得意な人もいれば、哲学的概念をこねくりまわすのに適性を見つける人もいる。複数の適性を高い次元で持つ人もいる。

そういう視点から見れば、むしろ、すべての人が生まれた時点で白紙で、それからどうするかで結果が決まると考える方がおかしい。もしそうなら、時代とか適応する社会によって、人間というもの自体の性質が大きく変わってしまうだろう。

「あなたもやればできる」というのは、裏返して言えば、やっていないからできていない、つまり「お前は努力が足りないから他の人より劣った結果を得ているんだ」ということだ。でも、人によってできること、得意なことは違うんだから、一律に「できる」なんて言うのは、ものすごく残酷でありうる。むやみに、考えずに使うべき言葉ではない、と思う。