2010年5月17日月曜日

【第一章 自由主義の解剖】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立

I 自由主義の解剖

「リベラル」の意味

よく評論家や学者について話すときに、あの人はリベラル派だとか、保守派だとかいう言い方をする。そのときの「リベラル」は、日本語にすると「自由」である。リベラル派が信じる思想である「リベラリズム」が、説明するまでもなく「自由主義」である。しかし、筆者がこの章で説明しようとする「自由主義」は、多くの人が「リベラル」という語から想起するその思想と同じではない。

どういうことだろうか? まず、頭の中に「リベラルな」評論家あるいは学者を思い浮かべていただきたい。仮に大学教授としよう。その人は、どういう意見を持つ人だろうか? 一つ、問いを出してみたい。

問い:「社会には毎日遊んで暮らしていけるお金持ちもいれば、明日のご飯を食べられるように必死で暮らしている貧乏人もいる。この現実をどう見るか。また、どうすべきか」。もしリベラルな教授がこの題目でエッセイを書くならば、その回答はどうなるか。論旨を要約せよ。

答え:「そのような不平等は許しがたい。社会は平等であるべきだ。毎日遊んでいても暮らしていける人は、必要以上にお金を持っている。この状況は、ぜひ解消しなくてはいけない。そのために、政府が福祉政策を通じて、富を正しく分配し、平等化に努めるべきである」。

ここまで率直な文章を書く教授が実際にいるかは別として、多くの人は頭の中に、上のような内容の回答を思い浮かべたのではないか。あまり評論家や学者たちの論争に馴染みがない人でも、上の回答を見せられ、「これがリベラルな意見だ」と言われると、まあそうだろうなと納得できる人が多いはずである。なぜなら、この回答が、現在の多くの「リベラル」な人たちの考えのエッセンスだからである。現在、リベラリズムと言ったら、多くの人たちは上のような思想を頭に浮かべる。

では、上の考え方はどうリベラル(自由)なのか? 誰が、どのようにして自由になっているのか? 答えに詰まる人が多いはずだ。なぜなら、それらの質問には答えようがないのだ。上に示された発想は、本来の「自由主義」からすると、まったく自由な考え方でもないし、誰も自由になっていない。むしろ、本来の「自由主義」とは正反対の思想ですらある。

この章の題材は、本来の自由主義である。「本来の」というのは、「過去の」という意味ではない。この自由主義は、近代社会を形成する根本的な思想として、今日の世界にも息づいている。しかし混乱を招くことに、現在「リベラル」とみなされる思想との名称上の区別なしに使われることが多い。また「本来の」意味で使われることもある。

名前を区別す場合は、よく元来の自由主義を「古典的自由主義(classical liberalism)」と呼ぶ。しかし、本稿ではそのまま「自由主義」と呼び、現代のいわゆる「リベラルな」考え方をカタカナで「リベラリズム」と呼ぶ。この二者の峻別が、本稿を理解するうえで肝要である。

この章の目的は、自由や平等といった重要概念の分析を通して、自由主義がどのような思想なのかを探ることである。ただし、章の最後や「最後に」でもことわるように、本章で解説するのは自由主義の一つのあり方であって、同じ名前に分類される思想全体の見取り図の作成は意図していない。

二つの原則

自由主義とは何か、その本質を一言で述べよと言われたら、筆者はこう答える。社会を「公(public)」と「私(private)」に分け、前者から後者を守る思想である、と。自由主義は、詳細に説明していくと複雑にならざるを得ないが、本質はこれに尽きる。そこで、最初に、自由主義にとって重要なこの二原則を頭に入れていただきたい。

1)社会を厳密に「公(public)」と「私(private)」に分類する
2)「私(private)」の自由を目指す。「公(public)」がそれに干渉するのを嫌う

「公(public)」と「私(private)」の意味は、それぞれ後に「立」を入れて例を思い浮かべていただければ分かりやすいだろう。私たちの身近にある存在としては、学校には(国)公立と私立がある。それらの違いは、所有・経営するのが政府か、個人かという点である。大雑把に言えば、「公(public)」とは政府(国家権力)のことであり、「私(private)」とは国民一人一人のことである。前者は「公共(部門、セクター)」、後者は「民間(部門、セクター)」と、日本語では言うこともある。

もちろん、これらの二単語が持つ用法はこれに尽きない。日常生活で使われる上で優勢な意味としては、誰でも見たり利用できたりする、つまりみんなに開かれているのがpublicであり、逆に個人の秘密に関することで利用・閲覧が制限されているのがprivateである。例を挙げれば、あなたが個人的にノートに書いた文章はprivateなものであり、それを出版すればpublicな性質を持つようになる。また、個人が作ったクラブも、皆に開かれていればpublicな団体である。これは、国家権力や個人云々とは別の次元の話である。

しかし、自由主義的な視点から社会を二つに分ける際には、publicを国家権力、privateを個人と捉える視点が重要である。後で詳しく論じるように、自由主義が目指す個人の自由とは、国家権力が個人に干渉しないことを指す。そのために、社会を個人と国家権力に厳しく分類することが必要なのだ。ここからの記述は複雑になるが、頭が混乱した際は、上記の二原則に立ち戻っていただきたい。

なお、本稿では権力という言葉を国家権力という意味で用いる。国家権力、権力、政府、権威を同義とする。

モデル

自由主義が上記の二原則を導き出すためには、「自然状態」というモデルが大きな役割を果たしている。このモデルは、自由主義について論じる際に避けて通れない英国の思想家、ジョン・ロック(1632‐1704)によって作られた。彼は、福田歓一によると「後世に自由主義と言われるものの一つのモデルを作った(*1)」人物である。彼の名前は、自由主義そして近代デモクラシーに関する文章を読めば、自然に目に付いてくる。ロックの名前を知らない人も、彼が近代社会に与えた影響から自由ではない。

*1 福田、425。ロックの思想については、同書の423-452および岩田、185-193を参考にした。

まず、自然状態の内容に入る前に、モデルとは何か? 小室直樹が『論理の方法』で言うにそれは「本質的なものだけを強調して抜き出し、あとは棄て去る作業(*2)」である。つまり、物事を、ある要素だけを見ることで単純化したものがモデルである。そうすることで把握しやすくなる。

*2 小室、『論理の方法』、ii

モデルは、現実の誇張や、あり得ない仮定をもとに作られる。単純化をしたがうが、それによって見えてくるものがある。たとえば、ジャンボジェット機は目の前に立ってもその大きさのあまり、全体の形状や構造をつかむことは困難だ。だが、それを手のひらサイズのプラ「モデル」にすれば、容易にその形をつかむことができる。小ささのあまり、細部は再現できないが、その一方で飛行機とは何かのエッセンスを教えてくれるのである。また、物理学に慣性の法則がある。これは、「すべて物体はこれに加えられる力によってその状態を変えられぬ限りは、静止または一様の直線運動を続ける(*3)」というものである。たとえば、空気抵抗や摩擦など、外部から働く力が皆無の状態では、止まっている物体は永遠に止まり続け、動いている場合は常に同じように動き続けるのだ。これはモデルの産物である。『物理学はいかに創られたか』でアインシュタインとインフェルトが説明するには、この法則は実際の実験によって明らかにされたわけではない。なぜなら、その実験を行うには、外部の力がまったく存在しない状態が必要だが、それは現実世界には存在しないからである。慣性の法則は、現実にはありえない仮定を前提にした、「理想化された実験」によって解明されたのである(*4) 。つまり、ここでは物体の運動の決まりを見出すために、空気抵抗や摩擦が無視されているのである。実現のできない仮定(モデル)をもとにした実験を想定することで、それまでは見えなかった法則が発見されたのだ。

*3 アインシュタインほか、10
*4 同上、9-11

モデルに対して、「それは単純だ」とか「現実にはそんな条件はあり得ない」というのは、よほど本質的なことをいわないかぎり揚げ足取りでしかない。飛行機のプラモデルの大きさにケチをつけるようなものだ。モデルは単純であればあるほどそれまでには見えなかった全体像を明らかにする可能性があるのだ。

もちろん、ただでさえ数字だけで割り切れない社会系の学問、中でも思想や概念を扱う分野で、自然科学と同じ厳密さのモデルを期待するのには無理がある。しかし、計量的な分析だけでなく、概念的な分析でも、物事の単純化による理論構築は欠かせない役割を果たしている。たとえば、サミュエル・ハンティントンは有名な「文明の衝突(Clash of Civilizations)」という、世界の対立構図をあぶり出した。言うまでもなく、世界は文明以外にもさまざまな要素が複雑に絡み合って成り立っている。だが、そこであえて文明という点だけに着目し世界を見ることが、一つのはっきりした世界モデルの提示を可能にしたのである。学問の役割とは、物事を単純化し、人々に一つの明確な視点や仮説を与えることである(*5)。

*5 なお社会系の学問の役割については、参考文献に挙げた内田の本が示唆に富んでいる。

モデルは、私たちの日常的な言語使用を支配している。たとえば「石原慎太郎は右翼だ」というのはモデルである(*6)。なぜならこの表現は、石原慎太郎という人間の、政治的な部分だけを取り出して、それ以外を無視しているからだ。筆者は石原個人について多くを知らないが、たとえば「厳しい父親」かもしれないし、「蕎麦好き」かもしれないし、「巨人ファン」かもしれない。しかしそういった側面は無視されている。さらに、そもそも「右翼」という名前自体がモデルである。なぜなら個々の人間の思考や行動は複雑であり、政治的に右翼と言われる人でも、すべての人々が同じように考えて行動するわけではない。たとえば、靖国神社に毎年参拝する「右翼」は家に帰ると人知れず「赤旗」を愛読しているかもしれないのである。しかし、私たちは特定の考え方や行動だけを取り出し、右翼や左翼といった形で人々を類型化している。私たちは日常生活で無意識のうちにモデルを駆使しているのだ。

*6 ここで例文に石原という人物を取り上げたのには特に必然性はない。

権力からの自由

では、自由主義における「自然状態」では、ロックは何を取り出し、何を取り去ったのか? それによって何を発見したのか? 取り出されたのは個人であり、取り去られたのは政府などの社会を作る要素である。ロックは人間を純粋な個人に還元した。その自然状態という仮定からロックは、個人は自由であり平等であるというテーゼを導き出した。

自由とは何を意味するのか? それは、権力からの自由である。自由とは、単に人々が好き勝手に振舞っている状態ではない。人々が「自然法」のみにしたがい、それとは関係ないところでは自分以外の意思に服従しない状態である。ロックは述べる。
政治権力を正しく理解し、またその起源を尋ねるためには、われわれは、すべての人間が天然自然にはどういう状態に置かれているのかを考察しなければならない。そうしてそれは完全に自由な状態であって、そこでは自然法の範囲内で、自らの適当と信ずるところにしたがって、自分の行動を規律し、その財産と一身とを処置することができ、他人の許可も、他人の意志に依存することもいらないのである(*7)。(傍点は原文のまま)
*7 ロック、前掲書、10

自然法(natural law)とは、物事の善悪を規定する、すべての個人がしたがう普遍的な法のことである(*8)。ロックによると自然法とは理性であり、それは「すべての人類に、一切は平等かつ独立であるから、何人も他人の生命、健康、自由または財産を傷つけるべきではない(*9)」ことを示す。自然法は普遍的なので、人民の支配者もそれを蹂躙することはできない。つまり、「他人」は政治的支配者も含む。そのような人物といえども、人民に恣意的な干渉はできないのだ。この自由は、ロックが述べているように、個人の「絶対的恣意的権力からの自由(*10)」である。つまり、ここでの焦点は、権力と個人という縦の関係である。自由とは、恣意的な国家権力から守るものなのだ。

*8 英語のnatural lawは、たとえば重力のような「自然法則」を意味することもある。しかし、ここでの意味はそれとは異なる。また、自然法が文章化されていない法であるのに対し、「実定法(positive law)」は文章化された法律のことである。自然法は普遍的だが、実定法は時代や場所によって内容が異なる。自然法における「法」は、法律というよりは法則に近い。副島、192-246が参考になる。
*9 ロック、前掲書、15
*10 同上、29

自由を守る手段は、憲法である。近代の憲法とは、小室直樹が指摘しているように、国家権力に対して書かれた法律であり、その目的は権力の力を制限してその横暴を防ぐことにある(*11)。だから自由主義者は憲法を大事にする。憲法違反は国家の暴走であり、個人の自由を侵害するおそれがある。これは、日本国憲法の9条を思い出していただければ分かりやすいのではないか。あの条文は、日本国政府に対して、国際紛争を解決するための戦争や、そのための戦力の保持を禁止しているのである。権力に縛りをかけているのである。それを破れば国家は暴走したことになる。

*11 小室、『痛快!憲法学』、29

また、この憲法にはいくつもの自由が定められているが、それを上の説明に当てはめるとどういう意味になるだろうか? いくつか例を挙げよう。思想・良心の自由とは、あなたが頭の中にどのような思想・良心を抱いていても、それを理由に国家権力に弾圧されないし、権力が思想・良心を強制することはできないという意味である。信教の自由とは、あなたがどのような宗教を信じるかは、国家権力が首を突っ込む問題ではないという意味である(*12)。他にも憲法には、たとえば居住・移転・職業選択の自由や学問の自由といった自由が規定されている。それらはいずれも、権力の恣意的な干渉からの、個人の自由を意味する。

*12 これは政教分離、つまり政治権力が特定の宗教に傾倒しないという原則を生む。

権利の平等、法の前の平等

自由主義における平等とは、権利の平等、法の前の平等である。私たちはよく「平等」について話すが、この言葉は「~の平等」という形ではないと意味は持たない。「~」に何が入るかによって意味は異なるからだ。人々がよく使う「平等」という用語は、多くの場合、誰もが同じだけの財産を持っている状態(結果の平等)を指している。だが、自由主義における平等はその意味ではない。財産の量は労働次第で変わるからである。

前に引用した自然状態の自由に関する記述に続いて、ロックはこう述べる。
それはまた、平等の状態でもある。そこでは、一切の権力と権限とは相互的であり、何人も他人より以上のものはもたない。同じ種、同じ級の被造物は、生れながら無差別にすべて同じ自然の利益を享受し、同じ能力を用い得るのであるから、もし彼らすべての唯一の主なる神が、なんらかの明瞭な権利をその者に付与するのではない限り、互いに平等であって、従属や服従があるべきではない、ということは明々白々であるからである(*13)。
*13 ロック、前掲書、15

前述のように、自然状態においては、人は純粋な個人である。したがって、権利を持つのは個人のみであって、人種でも、民族でも、性別でも、身分でも、政府でもない。「白人の権利」や「女性の権利」は存在しない。特定の属性を持たないと得られないのは、権利ではなく特権である。もちろん、たとえば女性には平等に権利が与えられていない、という意味で「女性の権利を守ろう」というのなら、それは正しい。しかし、女性ならではの権利は存在しない。権利を持つのはあくまで個人だけである。自由主義における平等とは、誰もが特権を持たず、同じように権利を持つことである。自然状態で人々が持つ平等な権利は、「自然権(natural rights)」と呼ばれ、自由主義の根幹を為している。

権利の中で最も根本的なのが、所有権である。ロックによると、人間はまず、自分自身を所有する。よって、自分の身体、生命は他者が恣にしたり、奪ったりすることはできない。また、共有状態にある土地や食べ物などに関しては、労働を投下することによってその人の財産となる。土地を耕せば、木から果実を取れば、動物を殺せば、それらの行為を為した人がそれらの対象に対して所有権を持つ。私有財産は労働によって成り立つ(*14)。言うまでもなく、自分の労働によって得た財産は国家権力のものではなく、自分のものである。この論理によると、多くの労働をこなした人は多くの財産を持ち、労働が少ない人が持つ財産は少ないのは自然なことである。

*14 ただしロックが警告するには、人は自分が利用できる上の物を所有することはできない。たとえば、果実を、食べ切れなくて腐らせてしまうほど取る権利はない。

自由主義における平等は「法の前の平等」とも呼ぶ。一つの普遍的な法や権利体系が、すべての人を同じように縛るという意味で人々は平等なのだ。これはたとえば、スポーツと同じことである。球技でも、陸上競技でも、競争と勝ち負けが絡んでくる競技においては、一つのルールが、すべての参加者に、同じように適用される。サッカーでは誰がどのように入れた点でも一点は一点だし、陸上競技では誰もが同じ距離を走るのだ。反則行為は誰がやっても同じように罰せられる。

ディズニーに検閲はできるか?

2004年に話題になった映画に、マイケル・ムーア監督の”Fahrenheit 911”(日本では「華氏911」として公開)がある。この映画は、ジョージ・W・ブッシュ大統領を非難する政治性が注目を浴び、アメリカ国内で大きな論争を招いた。

論争は、配給前から始まった。ウォルト・ディズニーが、子会社のミラマックスに、この映画の配給を止めるように働きかけるという事件があった。ニューヨーク・タイムズは、「ディズニー、ブッシュを批判する映画の配給妨害へ」という見出しでこれを報じた。

ワシントン、5月4日――ウォルト・ディズニー社は、同社が所有するミラマックス事業部が、マイケル・ムーアによるブッシュ大統領を厳しく批判するドキュメンタリー映画の配給を阻止しようとしている。火曜日にディズニーとミラマックスの役員が明らかにした。
その映画は「華氏911」で、ブッシュ氏とウサマ・ビン・ラディン一家を含む著名なサウジ・アラビア人とのつながりを指摘し、9月11日にテロ攻撃を受けた後のブッシュ氏の行動を批判するものだ(*15)。

*15 Rutenberg, J. (2004): “Disney Forbidding Distribution of Film That Criticizes Bush,” The New York Times, May 5, 2004.
http://www.nytimes.com/2004/05/05/national/05DISN.html?ex=1104382800&en=a713126a1f25f90e&ei=5070&oref=login&ei=5006&en=89982416bdce50c0&ex=1084334400&partner=ALTAVISTA1&pagewanted=print&position=

ディズニーに対する批判に、これが表現の自由を侵す検閲行為(censorship)だというものがあった。たしかに、ここではムーアの表現の自由が侵されているように見える。しかし、これは本当に検閲行為だろうか?

違う。これは検閲ではない。なぜ? それは、表現の自由を侵せるのは国家権力だけだからだ。検閲とは、国家権力が個人による言論や作品(表現活動)の内容を監視し、出版や発表、流布を阻害することなのである。それ以外ではない。だから、たとえば所属するレコード会社に歌の歌詞を問題視されて、CDを発売できなかった歌手は、「表現の自由を侵された」と裁判所に駆け込むことはできない。なぜなら、それは個人間の争い、意見の不一致にすぎない。国家権力を介さないところで「検閲」という言葉が使われたならば、それは誤用か比喩である。

ディズニーとムーアの関係は個人と個人であって、国家権力と個人ではない。したがって、ディズニーがムーアの映画を嫌って配給を禁止したとしても、ムーアの表現の自由は侵されていないし、その行為は、検閲とは次元が異なるのである。ではディズニーは何をしたのか? それは、ビジネス上の判断である。実際に、ムーアは憲法違反でディズニーを訴えなかった。違憲ではないからである。

ディズニーは、自分たちの気に入らない映画は配給してもしなくてもよいのである。彼らにムーアの映画を配給する義務はない。もし、ムーアがディズニーから自分の映画を配給される権利を持つのであれば、それはディズニーからしてみれば強制である。権利は平等なのだから、他人に何かを強制する権利は成立しない。たとえば、筆者はこの論文をあなたに読んでもらう権利を主張することはできない。なぜならそれはあなたに何かを強いることになるからだ。もし政府がディズニーに「華氏911」を配給するよう圧力をかけたと仮定したら、それは彼らにとっては自由の侵害である(*16)。

*16 このように、世の中で権利と言われているものが本当に権利なのかは、それが権利の平等と矛盾しないかどうか点検すれば分かる。これについては、Boaz、59-93に詳しい。

黒人を拒否するレストラン

筆者は、ラッシュ・リンボーがホストを務める、リスナー参加型の政治ラジオ番組をよく聴いている(*17)。たまにリンボーは休暇をとり、代役のパーソナリティがしゃべるのだが、ある日聴いていると、ウォルター・ウィリアムズという黒人の経済学者がリンボーの代わりに話していた。話題が、アメリカで黒人がたどってきた道になった。以前は白人と黒人が法的に隔離されていたが、現在ではその法律は撤廃されていることに触れたウィリアムズは、しかし、当時の筆者には理解できないことを口走った。曰く、仮に今でも黒人を入れたくないレストランがあるならならば、それにはしたがわなくてはいけない、というのである。

*17 この番組は、現在はAFN(AM810)で毎週月曜~金曜の午後8時5分~9時に放送されている。アメリカでは毎日3時間の番組だが、日本で放送されているのは最初の1時間だ。

あるリスナーが電話をかけ、ウィリアムズに抗議した。そのやり取りは大筋、以下のようなものだった。

リスナー:「ウォルター、さっき君が言っていたことには少しがっかりしたよ。もし君がレストランに入って入店を拒否されたら嫌だろ? そんなことは許すべきじゃないよ」。
ウィリアムズ:「もちろん頭に来るさ。でも、その場合は黒人を入れてはいけないという法律があるわけじゃないだろう?」。
リスナー:「まあ、それはそうだが・・・」。
ウィリアムズ:「だったらいいんだ。もしその店主が黒人を入れたくないって言うんだったら、嫌だけど、それは受け入れるしかない。誰をレストランに入れるかは、その店主の自由なんだ」。

つまり、黒人を入れたくないというレストランもあれば、逆に白人を入れたくないというレストランもあるかもしれない。それはその店の所有者の自由であって、好まない人を店に入れる義務はない。客を選ぶのは国家権力ではなく個人である。これが自由主義である。

どの人種に入店を許すか、というのは少し極端な話かもしれない。しかしこれは、たとえば高級なレストランがネクタイを着用していない人を入店させないのと、論理的には同じことである。もちろん、人種とネクタイは実際の社会では異なった問題である。2002年のサッカーW杯の時に、日本の地方都市で、外国人記者が、外国人であったため入店を拒否されるという事件が起き反発を買った。これを聞いたら多くの人がレストランの店主に憤慨するだろう。一方、仮にネクタイ非着用のため店に入れず、それを差別だと騒ぐ人がいても、ほとんど相手にされないだろう。だが、レストランの経営者が、商売をしたい相手を自分で決定している点では、その判断基準が人種だろうがネクタイだろうが、本質的には同じである。

国家がレストランに対して、その客の人種が何であろうと接客しなければならない、と命令するならば、それはレストラン経営者から見ると強制であり、自由の阻害だと言うことも、見方によっては可能である。人は自分が入りたいと思うレストランに好きに入れてもらえる権利は持たないのである。

この二つの例が示すように、政府による個人間の差別撤廃措置は、自由主義とは相容れないのである。この問題についてはⅤ章でさらに触れる。

これらの例でディズニーやレストラン経営者にあるのは、契約の自由である。個人同士が同意して好きな内容の取引を行うのである。その内容や取引相手は、国家権力が命令して決めることはできないのである。人は、自分が所有する会社や土地、財産を用いて、自由に契約を結ぶことができる。私たちが他人との同意の上で好きなことをするためには、広い意味で契約の自由が必要である。

政府の役割

ここまでの記述で、国家権力が個人に干渉してはいけないことは明らかにされたが、では、政府は何もやってはいけないのか? たしかに資本主義は政府がなくても成立するが、自由主義で政府の存在を認めないのは極端な立場である。では、政府が担うべき役割とは何なのか? それは、個人の自由や権利を守ることである。ロックによると、前述した自然法を破る、つまり他者の生命、自由や財産を侵害する人物が出てくると、その人を処罰する必要がある。だが、その役目を個人に任せていると、社会は無秩序状態に陥る。それを防ぐために、人々は自然状態で持っていた私刑の権利を国家に譲り、刑罰を定める権利(立法権)を持つ政治社会(市民社会)を作った(*18)。

*18 ロック、前掲書、88-91

自由主義の国家観は、いわゆる「夜警国家」であり、「小さな政府」である。つまり、国家の役割は、人々の安全を守るなど、必要最小限に抑えられるべきである。権力が経済を統制したり、個人の生活に介入するなどもってのほかである。国家のために個人が存在するのではない。個人のために国家が存在するのだ。社会を動かすのは個人であって、政府ではない。政府は英語でgovernmentだが、この語は他にも政治、統治という意味を持つ。政府を最小限にするということは、社会の政治を最小限にし、上からの統治・支配を最小限にし、世の中を自由な個人による経済活動で回そうという考え方である。自由主義者にとっては、政府(政治)が何をするかよりも、何をしないかの方が重要である。

よって自由主義は、資本主義と密接につながっている(*19)。資本主義とは、世の経済活動を個人の自由な契約、取引、革新、競争に任せ、それに政府の関与を極力はさまないことである。個人が所有権を持ち、それをもとに市場で自由な経済活動を行うのだ。フランシス・フクヤマによると、資本主義という用語は「経済的自由主義(economic liberalism)」や「自由市場経済(free-market economics)」と置き換え可能である(*20)。ここでの「自由」とは、言うまでもなく、政府が介入しないという意味である。競争は自由なかわりに、その結果として生まれた個人の富の不平等は、それぞれの人々の責任である。なお、自由主義のこのような経済的な側面については、ロックよりは、The Wealth of Nations(『諸国民の富』)を著したアダム・スミスなどが有名である。自由競争を重視する立場は英国古典派と呼ばれる経済学派を形成している。

*19 本稿では資本主義を近代資本主義という意味で用いる。
*20 Fukuyama, 44.

リベラル・デモクラシー

自由主義と現代社会とのつながりは、私たちが普通「民主主義」と呼ぶものの中に見出すことができる。言うまでもなく、「民主主義」とは私たちの社会の基礎を為す一大理念である。

しかし、この言葉の意味について深く考える人はあまりいない。「民主主義」という言葉は、特に定義もされないまま、当たり前のように使われる。しかし、その「当たり前」によって、あることに気付きにくくなっているのだ。それは、「民主主義」という言葉の中に、自由主義が隠れていることである。

「民主主義」という言葉は、デモクラシー(democracy)の訳語だが、近代社会のデモクラシーとは、自由主義+デモクラシーを意味するのである。デモクラシーとは、市民が自分たちの支配者(政府)を選ぶという、政治のやり方のことである。この定義は、政治学辞典を持ち出すまでもなく、一般の英語国民が使用する英語辞書のdemocracyの項目を見れば一目瞭然である。つまり、デモクラシーは純粋な意味においては制度であり、思想ではないのだ。

しかし、それだけではどうも腑に落ちない読者もいるはずである。なぜなら、どう考えても、「民主主義」という言葉は思想色を帯びており、何らかの価値を示すものとして使われるではないか? それはもっともだ。というのも、「民主主義」という言葉は、政治制度の意味でも、自由主義の意味でも使われるからだ。この言葉を学者や評論家が使うとき、それはときには選挙を意味し、またときには権力からの個人の自由を指す。私たちの会話における「民主主義」は「自由主義」と、「民主的」は「自由主義的」と置き換え可能なことが多い。自由主義的な個人の自由と平等が存在するかは、私たちがある社会が近代的であるかどうかを判断する際の主な指標である。

現代ではデモクラシーというと、普通、近代デモクラシーを指す。そのため、デモクラシーという一語に、自由主義+デモクラシーという意味が含まれることが多い。そこでは、自由主義の存在は暗黙の了解なのである。この言葉を用いて議論する人々が、その前提を共有していれば問題はないだろう。しかし日本においては、用語の上だけでなく、人々の理解においても、自由主義とデモクラシーが一緒くたにされている。学者や評論家も含めての話である。中にはあえて自由主義+デモクラシーということを強調するために「近代デモクラシー」や「自由民主主義」といった表現を使う人もいる。

フクヤマは、The End of History and the Last Man(『歴史の終わり』)において、自由主義とデモクラシーの関係について注目すべき考察を行っている。彼によると、デモクラシーとは、すべての市民が政治に参加する権利を持つことである。自由主義とは、政治的には政府の統制から個人を守るための法の支配を敷き、経済的には所有と市場をもとにした経済活動の自由を認める思想である。自由主義とデモクラシーは、多くの場合は手を携えるものだが、片方だけが個別に存在する場合もある。つまり、自由だがデモクラシーがない国、デモクラシーはあるが自由ではない国もあり得るのだ。たとえば、フクヤマによると、18世紀の英国は前者だった。そこでは諸権利が、社会的エリートのみに保障されていた。また、イランは後者に当てはまる。定期的に選挙が開かれており市民が政治に参加できるが、言論の自由、集会の自由、そしてイスラム教が国教となっていることから宗教の自由がない(*21)。フクヤマが挙げたこれらの例は、自由主義とデモクラシーを分けるということを知らないと理解不可能である。

*21 Fukuyama, 43-44

自由主義は、ある時代に有名な思想家が唱えた、化石化した思想ではない。私たちが現に生きているこの社会にもしっかりと腰をおろした、重要な思想なのである。それは、「民主主義」の、自由主義とデモクラシーへの分解によって確認できるのだ。

功利主義

本章では、主にロックを引用することで自由主義を論じてきたが、ロックの思想は自由主義のすべてではない。たとえば、自由主義の中の功利主義という立場は、自然状態における権利や所有といった概念を否定する。功利主義の元祖、ジェレミー・ベンサムは、私たちが政府の存在前(自然状態)から権利を持っているというテーゼを否定した。彼によると、権利は政府があってはじめて成り立つ(*22)。

*22 Bentham

ただし、この論文では、ロック流(ロッキアン、Lockean, Lockian)自由主義のみを焦点とする。なぜなら、Ⅲ章で述べるように、アメリカ建国の背景にあるのがロックの思想であり、それが国の思想的土台になるとともに保守主義の源流を為しているからである。アメリカで「古典的自由主義」というときには、本章で紹介したような思想を指すことが多い。本稿で自由主義というときは、ロック流の自由主義を意味する。本章は、自由主義と呼ばれる思想の全体像を描写する試みではないことを強調しておく(*23)。

*23 なお、個人の自由については、インターネットのサイト、International Society for Individual Libertyで見られる10分ほどのアニメーション、”Animated Introduction to the Philosophy of Individual Liberty”が参考になる。http://www.isil.org/resources/introduction.html