2010年5月12日水曜日

人間社会の差別と平等について思うこと(3) (2004年6月22日執筆)

●平等の意味

現在の自分が考える、平等な社会の定義は、「大多数の人間が納得するやり方で差別が存在している社会」だ。これはどういうことかというと、いかなる平等も、必ず何らかの差別に基づかなければ成立しない、ということだ。つまり、差別は平等のための必要条件である。

たしかにそうだ。平等と一口に言っても、「機会の平等」「結果の平等」のように、「~~の」という形でしか存在しえないのだから。その「~~」の部分を差別の材料にしなければ、平等という概念は実体を持てない。

差別の材料に何を使うかで、その中身はまったく異なる。機会の平等と結果の平等の違いは、資本主義と社会主義の違いだ。根本にどのような哲学、価値観を持ち、それを差別の材料にするかで、平等の意味は変わる。

だから、平等とは、差別がない状態ではない。平等とは、皆が納得する基準で差別をすることである。皆が認める基準なので、差別に見えないだけだ。その基準が何かは、時代や社会によって変わるだろう。たしかに、こう考えることもできる。つまり、個人を尊重するのが普遍的な価値で、それは時代や社会を問わない。徐々にその普遍的な価値の実現に向けて進んでいる現状が、差別がなくなっているということだ。しかし、それも個人主義というフィルターを通した見方でしかない。個人主義が正しいという前提なしでは成り立たない。

今は、その個人主義が世界的に(?)優勢になっている。過剰な個人主義が批判されることはあっても、少なくとも欧米や日本では、個人を尊重し、権利の平等を推進する考えそれ自体が、大きな反発を受けることはない。社会の大多数が、個人主義という基準を通した差別を肯定する。それが、平等と呼ばれるのだ。

●自分の限界/可能性を知るということ

だから、平等な社会なら誰でも同じようにチャンスがあるわけではない。生まれつきの能力とそれを上げる力が異なるのだから。

もし、すべての人々が、まったく同じ能力を持ちうるのなら、社会は成り立たない。たとえば、子供達にアンケートをとって、回答者全員がサッカー選手になりたいと答えたとする。

それで全員サッカー選手として同じレベルに到達することが可能だったらどうするよ。サッカー選手なんて、ゴマンとある社会の機能の中の一つにすぎないのに、そこに多くの人が集中しうる状況が発生したら、他の機能を果たす人が足りなくなる。

もちろん、全員というのはありえないが、実際のアンケートでも、特定の職業に人気が集中するのはご存知の通りだ。ところが、その集計結果は、実際に彼らが就く職業を正しく反映しない。

何が起きたんだろうか。単に、彼らが希望や趣向を変えただけだろうか。それもあるだろうが、それだけではない。成長するにしたがって、何かに気付かされるのだ。単なる、「やればできる」という次元の台詞では説明できない、何かに。人をして諦めさせる、何かに。自分について考えて、思い当たるフシがない人はほとんどいないんじゃないかな?

時として、諦める、自分の能力の限界を知る、自分が何かに向いていないことに気付く、ということが、厳しいことだが、人生では大事なんだと思う。これは裏を返すと、自分の可能性に気付く、自分が何に向いているかを知ることでもある。それが生きていて一番難しいことの一つかもしれない。

要するに、人には色んな能力、色んな適性がある。人には向き不向きがあり、出来ることもあれば、出来ないこともある。

それが、色々な仕事を生む。仕事とは、社会における人の役割だ。つまり、多くの仕事とは多くの役割のことだ。数多くの役割が存在することが、社会におけるさまざまな欲求と需要が満たされることにつながる。そうやって、社会は回ってるんだと思う。職業によって社会的評価や待遇が違うし、それが差別、社会の階層化を生むものだが、人間が集まって社会を作る以上、それらは避けられないことなのだろう。