2010年5月17日月曜日

【最後に~参考文献】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立

最後に(*117)

*117 この終章を「結論」ではなく「最後に」にしたのには意味がある。日本では多数派とは言わないまでも多くの人々が、最後の章の役割が、論文で最も重要な主張を明らかにすることだと考えている。しかしそれは間違いである。これはおそらく、「conclusion」の誤訳から来るものだと筆者は考えている。ほとんどの人は、この単語を「結論」、すなわち最終的な主張、と捉えている。この考え方からすれば、最後の章ではじめて論文の骨子、主張が明らかにされるのだ。実際、後述する共同発表会でも、その勘違いによるものかは不明だが「肝心の結論が聞きたかった」というような感想を受けた。しかし、conclusionという言葉には「結論」という意味と、「最後の締め」という意味がある。論文の最後の章にあてられるconclusionは、普通、後者の意味である。その証拠に、アメリカで出版された、論文の書き方に関する本やウェブサイトを読むと、conclusionの章で行うべきは、本論の簡単な要約をした上で、その議論の意味合いを探ったり発展させたりすることだ、と書いてある。そこではじめて主張を示せ、という助言は聞いたことがない(たとえばVan Evaraを参照)。論文の主張は「はじめに」で明らかにし、本論で証明するのだ。最後の章は本論を軽く振り返った上で、議論を補足したり発展させたりするのが基本だ。なお、これを読まれている学生がいれば、論文やレポートの書き方についてはCohenほかを推薦する。また卒業論文の書き方についてはStudents Helping Studentsも参考になった。

本稿で筆者は、多文化主義論争におけるアメリカ政治思想の対立を「自由主義 vs. 多文化主義」に求めた。誤解して欲しくないのは、このモデルはあくまで多文化主義をめぐる思想的対立の描写であってそれ以外ではないという点だ。本稿の主張は、アメリカの保守主義が自由主義と同じだということでもなければ、自由主義と多文化主義が対立するということでもない。筆者が論証しようとしたのは、「自由主義 vs. 多文化主義」というモデルが、多文化主義をめぐる保守とリベラルの対決を説明する上で有効な切り口だということだ。

この「最後に」では、主に本稿を完成する以前に受けた批判に答えることを通じて本論の補足や発展を図りたい。本論を読まれた読者の中には、内容について色々と批判的な見方をされている人もいるかもしれない。また、まず論文や本の最初と最後を読む習慣の方でも、既に首を傾げている方がいるかもしれない。幸いにも筆者は、現段階でいくつかの批判に答える機会に恵まれている。

筆者は本稿の内容について、いくつかの研究会共同での発表会で発表を行った。質疑応答の時間と、終了後に提出する仕組みの「フィードバック・シート」で、複数の人々から所感を受け取った。その中にはいくつか、批判的な感想が含まれていた。ここではそれらからいくつか取り上げて返答する。本稿の読者にも同じような不満を持つ人がいた場合に有益と考えるからだ。内容の性質上、Ⅴ章までに比べて文体が戦闘的にならざるを得なかったところも若干あるが、ご了承いただきたい。

批判1:実際の社会現象や政治思想は複雑。筆者はそれを単純に整理しようと焦っている

これは、ある言語学者による批判である。筋違いもいいところだ。筆者の答え:世の中が複雑だからこそ単純化するのだ。それが学問の役割だ。単純化をしないで何をするというのか? この批判者は、複雑な現象や思想対立を、複雑なまま提示してほしかったのだろうか? そもそもそれは可能なのだろうか? 可能だとしても意味はない。そんなことをすれば一つのまとまりを持った論文は作れない。どうやらこの学者には、複雑な対象を、単純なものとみなすことと、特定の切り口から見ることで単純化することの区別がつかないようである。卒業論文とは英語でthesis(テーゼ)であるが、この言葉は主張という意味も持つ。「あなたのテーゼは何だ?」と問われて、手短に言い切れる主張、仮説、モデルがなければ論文とは言えないのである。そのためには単純化や、事物が持つ特定の側面の捨象は避けられない。筆者の知識が未熟なのは百も承知である。それが原因で、この博識な学者からすると筆者のモデルが頼りなく写ったのかもしれない。しかし、知識を十分な段階まで積み上げるべきだというのは一般論として正しいが、だからといって、ある高みに達しないとモデルを作ってはいけないということはまったくない。この言語学者による不平は、類推するならば、自分の意見を表明する習慣を持ったことがない大人が、積極的に意見を発言する子供を見て「何も知らない子供のくせに生意気なことを言いやがって」と愚痴っているのと同じである。

ハンティントンは、自身の「文明の衝突」モデル(仮説)を、その単純さを理由に批判された。その批判に応えて、ハンティントンは評論文を書いた。単純だという批判を否定したのではない。むしろ肯定したのである。この際のいきさつを、奥山はこう振り返る。

まずターゲットになったのは、「文明の衝突?」論における、その理論の単純さであった。この批判に・・・ハンチントンは・・・反論し、理論の単純さ、シンプルさこそがまさにその論文のポイントであると論じた。ハンチントンにすれば、細かい部分では「文明の衝突」は起こっていないことは承知であり、しかもその理論は「これからそうなっていくであろう」という仮説なのである。多少の細かい間違いがあっても、考えやすく単純化したモデルを提供して世に広めるのが学者の役割であるとするハンチントンの姿勢からは全く矛盾がないのだ(*118)。
*118 奥山、229-230

筆者は、このハンティントンの姿勢に共感する。これはもちろん、彼の具体的な主張に同意するかしないかとは関係ない。単純化は学問の命だ。学問を職業にする人からそれを否定するかのような意見をちょうだいするとは意外だった。ましてや、キャリアの長い学者としての「権威」を利用するかのように、「焦っている」云々と個人的で幼稚な精神論に持ち込むなど言語道断である。もし筆者がこの学者の発表を聞いて、同じように大上段から「焦っているのでは?」などと忠告しようものなら、「失礼だ」と目の色を変えるのが目に見えている。

批判2:自由主義の定義が狭すぎる

これは、政治思想に造詣がある学者による知的な批判である。彼によると、筆者がこの論文のⅠ章で解説したのは、自由主義というよりはリバータリアニズムであり、自由主義はより幅を持つ思想なのだという。そして、それはジョン・ロールズや井上達夫の本を読めば分かるのだという。リバータリアニズムと自由主義をどれだけ明確に区別できるかという疑問は残るものの、この意見自体に対しては、筆者は特に反論はない。自由主義は思想家や解釈によって中身が異なる。しかし、Ⅰ章の目的は、前述のように、「自由主義」と言われている思想全体を分類し、それらを解釈することではなかった。そもそもなぜⅠ章が存在するのか? アメリカの保守主義を説明するための伏線を引くためだ。アメリカの独立宣言を支え、保守主義に息づいているのはロックの自由主義であるから、それを取り上げてモデルを作ったのは正しい選択である。あの章で筆者は、自由主義を解釈しようとしたというよりは、間接的にアメリカの保守主義を解釈しようとしたのである。同じ「自由主義」という名前に分類されるからという理由で、ロックとは異なる思想、もしくはそれを発展させた現代の論者の思想を持ち出すことが、果たしてⅠ章で意味を持つのだろうか?

もちろん、思想は時代背景の変化によって修正を迫られる。一度誰かが確立した思想も、時代の変遷にしたがって再解釈や再定義を必要とするようになる。それは思想研究者が常に突きつけられる課題である。したがって、筆者による「自由主義 vs. 多文化主義」というモデルは、自由主義をある歴史的な時点において樹立された、古い思想に限定しすぎており、それ以外の理論や理論発展を無視していると思う人もいるかもしれない。Ⅰ章の自由主義を、「それは私の好きな自由主義ではない」と抗議したくなる自由主義者もいるだろう。

しかし、ここで問題にすべきは一つだ:アメリカの保守主義と手を携える自由主義とは何なのか? ロールズや井上の自由主義を、保守主義とつなげることは可能なのだろうか? まず時期的な問題をおさえると、ロールズは1921年に生まれ2002年に没した。井上は1954年生まれで現在も健在だ。彼らが1776年まで遡るアメリカ独立に影響を与えるのは不可能だ。では、近年に保守主義に影響を与えた可能性はどうだろうか? これを執筆している段階の筆者の知識では断言はできない。しかし、たとえば哲学研究者のロジャー・スクルトンは、ロールズをアメリカの保守主義ではなく、リベラリズムとつなげて論じている。
・・・アメリカの学界における政治哲学は、リベラルたちと、福祉国家を正当化する正義理論を作るプロジェクトによって占領されてきた。このプロジェクトには末期のジョン・ロールズが人生を捧げた(*119)。
*119 Scruton, R. (2002): “A Question of Temperament,” Opinion Journal. http://www.opinionjournal.com/extra/?id=110002746

これだけからは判断できないが、少なくともスクルトンはロールズを(古典的)自由主義ではなく(民主党的な)リベラリズムに位置づけている。また、井上に関しては、残念ながら、そもそも日本人の思想家、思想研究者がアメリカに何らかの影響を与えるという話をまず聞いたことがない。要するに、いくらロールズや井上の議論が高度であろうと、多文化主義に対するアメリカの保守主義の立場をモデル化するという目的には相応しくない。だからⅠ章に居場所はない。また、重ねて強調しておくが、本稿では古典的自由主義と、現代アメリカの民主党的なリベラリズムを明確に区別している。アメリカではロック流自由主義は、その歴史的重要性から、単なる自由主義の一定義やモデルにとどまらない存在である。本稿をまとめるために読んだ、アメリカで出版された論文でも、自由主義がⅠ章で紹介したような意味で用いられていた。本稿における自由主義の定義に不満を持たれる方には、パワーズ論文を一読されることを薦めたい。

その他

ある学生は「観念的すぎる、抽象的過ぎる」というコメントをよこした。正面から反論する意欲すら喪失させる批判である。これは、自分が興味をまったく持っておらず、したがって中身をよく理解できない発表や論文に遭遇した(しかしそれを自分のせいにしたくない)人がとる反応である。いうまでもなく、学問の世界には本稿より観念的、抽象的な論文はいくらでも存在する。興味がないのであれば、無理に感想を提出してもらわなくてよかった。

また、批判ではないが、いただいた感想には、論文の内容が若干間違って伝わっていると思われるものもあった。これは完全に筆者の発表のまずさから来るものであり、反省するばかりである。ただし、発表に許された時間はわずか9分間だったため話は大雑把にならざるを得ず、また聞いている人たちの関心分野にはばらつきがあったため、ある程度は仕方ない。自ら興味を持ってこの論文を読んでいただける人であれば、問題なく内容を理解していただけると確信している。本稿の主題に強い関心を払ってきていなくても、文章を読んで社会について考える習慣を持つ人であれば理解できるように書いたつもりだ。

過程としての自由主義

本稿の問題設定は保守主義とリベラリズム、自由主義と多文化主義の二項対立だった。しかしながら、片方が勝利を収めてもう片方が敗北するというほど単純な結末はあり得ない。自由主義にも多文化主義にも長所と欠陥があり、また自由主義の限界が多文化主義を産んだと言えるからだ。「お前の立場はどうなのか」と問いたい人もいるかもしれない。あえてどちらかを選ぶのであれば、自由主義だと答える。もちろん、差別をどうなくすべきかという問題への取り組みに関しては、完全に自由主義の側につくことはできない。Ⅴ章で述べたように、自由主義は、目指すべき理想であり、安住できる現実ではない。しかし、そこにこそ自由主義に希望を持てる理由がある。丸山真男は、『日本の思想』に収録されている「『である』ことと『する』こと」という評論文で、こう述べた。

私たちの社会が自由だと自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。自由は置き物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです(*120)。(傍点は原文のまま)
*120 丸山、155-156

自由主義を、あたかも完成された、安定した状態として捉え、それを単に守ろうとするのでは不十分だ。理論モデルとしての自由主義が、現実社会にどう表れているのかを見て、その両者の間にある溝をどう埋めるのかを考えなくてはいけない。自由の本質は、「である」ことではなく、「する」ことにあるのだ。逆にいえば、自由主義は、現状を批判するだけでは論破したことにはならない。

したがって、私たちには自由主義の枠組みに疑問を投げかける前に確認しておくべきことがある。それは、私たちを襲っているのが自由主義の限界なのか、それとも自由主義を実現しようとする力の不足なのか、という点である。自由主義はモデルだから、すべての面で自由な国家や社会は存在し得ない。また「制度」としての自由があっても、その中に生きる人たちが自由や平等を大事にしなければ意味がない。自由主義は近代社会の礎であるから、それを真っ向から否定することは「近代の終わり」を宣言するのと同じだ。宣言するのは自由だが、現実社会の方向性の提示としては現実味が薄い。

アメリカの多文化主義をめぐる論争は、私たちが目指すべき「自由」や「平等」とは何なのか、という大きな問いを私たちに投げかける。その答えは、特定の「である」定義を持ち出すだけでは出すことはできない。常に、現状を疑い真の自由や平等を模索「する」作業なくしては、自由主義は死ぬ。そう考えると、一見自由主義と相反する多文化主義も、見方によっては、新たな自由・平等を目指そうとするアメリカ国民の意志の表れである。自由主義が「する」ものだからこそ、テイラーが主張しているような、集団権と政府による再配分を認める新たな自由主義の誕生という視点が生まれてくるのかもしれない。

「自由主義 vs. 多文化主義」が、前者の勝利でも後者の勝利でも終わらないとするならば、何が起きるのか? どう進むのが望ましいのか? それは現在の筆者には結論を出せない。しかし、安易に答えを出そうとする前に、論争を整理し、全体を見ておく必要があるのはたしかだ。本稿は、その試みであった(*121)。

*121 本稿はアメリカを舞台に論じたが、日本社会に生きる私たちにとって「自由」や「平等」が何を意味するべきかを考える素材として筆者が注目しているのが、ジャーナリスト、斎藤貴男の作品である。彼の『カルト資本主義』は会社社会・日本で、私たちが自由に生きるとはどういうことなのかを考えさせる本だ。


感謝

慶應義塾大学の古石篤子先生には、関心分野が研究会のテーマと正面から一致しない筆者にも関わらず、ゼミに温かく受け入れていただいた。3学期間、本当にお世話になりました。特に、2003年度春学期のターム・ペーパー、「アメリカの保守主義から見たアファーマティブ・アクションの問題点」の執筆時には、何度も草稿に目を通して指導をしていただいた。もちろん、この卒業論文を書くにあたっても、有効な助言をいただいたり、参考文献をご教示いただいたりした。

オンライン図書館、Questia.comは、有料サイトとはいえ、感謝するに値する力強い味方だった。このサイトがなければ本稿の質は格段に落ちていただろう。宣伝をしても筆者には何も入らないが、英語文献を使用する人々にはこのサイトは必見である。

古石研究会の同僚たちからは、同じ論文や本を読み、議論をすることで、知的な刺激を得た。

慶應義塾大学総合政策学部4年の吉田資君、金子憲太郎君との会話は、学問におけるモデルの役割に対する筆者の考え方を深める上で有益だった。

言語コミュニケーション・クラスター共同の卒業制作発表会に参加者した人々のうち、真摯な感想を寄せていただいた方々からは執筆する上での刺激を得た。

同居する家族は、毎日のように深夜・早朝までコンピュータに向かって昼間に起きる不規則な生活を送る筆者を不平一つも漏らさず見守ってくれた。

最後に、本稿の執筆に至るまでには、これまでの22年間で、筆者の人生に直接的、あるいは間接的に影響を与えた人々の存在が欠かせない。本稿だけを独立したものとして見れば、使用した資料は限られている。だが、これまでの人生で培ってきた知的・情的な積み重ねがなければ、そもそもこれを書いていなかったはずである。したがって、文章に限らずこれまで接してきたすべての表現やその作者、直接出会って会話をしたすべての人々が「参考文献」であり「資料」である。これまで筆者の思考や生き方の形成に寄与してきた多くの人々に感謝することで、本稿の結びとしたい。


参考文献

本文と脚注で直接名を挙げるか使用した資料に限った。新聞や雑誌に該当し得る場合でも、基本的にウェブサイトは脚注のみとした。

1.日本語書籍

アインシュタイン、インフェルト(1939):『物理学はいかに創られたか』、岩波新書(訳:石原純)
岩田靖夫(2003):『ヨーロッパ思想入門』、岩波ジュニア新書
内田義彦(1985):『読書と社会科学』、岩波新書
奥山真司(2004):『地政学』、五月書房
ガーナー、J.(1995):『政治的に正しいおとぎ話』、ディーエイチシー(訳:スペクター、D. 田口佐紀子)
小室直樹(2001):『痛快!憲法学』、集英社インターナショナル
小室直樹(2002):『日本人のためのイスラム原論』、集英社インターナショナル
小室直樹(2003):『論理の方法』、東洋経済新報社
斉藤貴男(2000):『カルト資本主義』、文春文庫
佐々木毅(1993):『アメリカの保守とリベラル』、講談社学術文庫
スタインベック、J(2002):『アメリカとアメリカ人』、平凡社ライブラリー(訳:大前正臣)
センプリーニ、A(2003):『多文化主義とは何か』、白水社(訳:三浦信孝、長谷川秀樹)
副島隆彦(2001):『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』、講談社+α文庫
曽村保信(1984):『地政学入門』、中公新書
福田歓一(1998):『福田歓一著作集 第三巻 政治学史』、岩波書店
松本重治ほか編(1970):『世界の名著 33』、中央公論社
丸山真男(1961):『日本の思想』、岩波新書
矢部武(2004):『人種差別の帝国』、光文社ペーパーバックス
ルター、M.(1955):『キリスト者の自由 聖書への序言』、岩波文庫(訳:石原謙)
ロック(1968):『市民政府論』、岩波文庫(訳:鵜飼信成)
『新約聖書 福音書』(1963)、岩波文庫(訳:塚本虎二)

2.英語書籍

Taylor, C. (1994): “The Politics of Recognition,” pp. 25-73 (Appiah, A. et al. [1994]: Multiculturalism: Examining the Politics of Recognition, Princeton University Press)
Bentham, J. (2001): Selected Writings on Utilitarianism, Wordsworth Editions
Cohen, J. and Page, M. (2000): Yale Daily News Guide to Writing College Papers, Simon &Schuster
Buchanan, P. (2002): A Republic, Not an Empire, Regnery Publishing
Friedman, T. (2000): The Lexus and the Olive Tree, Anchor Books
Fukuyama, F. (2002): The End of History and the Last Man, Perrenial
Haines, R. and Hemphill, H. (1997): Discrimination, Harassment, and the Failure of Diversity Training: What to Do Now, Quorum Books
Hartz, L. (1955): The Liberal Tradition in America: An Interpretation of American Political Thought since the Revolution, Harcourt
Heywood, A. (2000): Key Concepts in Politics, Palgrave
Huntington, S. (1998): The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order, Touchstone Books
Locke, J. (1955): A Letter Concerning Toleration, A Liberal Arts Press Book
Marable, M. (1996): “Staying on the Path to Racial Equality,” pp. 3-15 (Curry, C. [ed] [1996] The Affirmative Action Debate, Addison-Wesley)
Mitchell, B. and Salsbury, R. (1999): Encyclopedia of Multicultural Education, Greenwood Press
Murray, C. and Owens Smith, J. (1995): “White Privilege: The Rhetoric and the Facts,” pp. 139-153 (Harris, D. [ed] [1995] Multiculturalism From the Margins: Non Dominant Voices on Difference and Diversity, Bergin & Garvey)
Staggenborg, S. (1994): The Pro-Choice Movement: Organization and Activism in Abortion Conflict, Oxford University Press
Students Helping Students. (2002): Conquering Your Undergraduate Thesis, Natavi Guides
Van Evara, S. (1997): Guide to Methods For Students of Political Science, Cornell University Press
Williams, W. (1999): More Liberty Means Less Government: Our Founders Knew This Well, Hoover Institution Press
Wood, P. (2003): Diversity: The Invention of a Concept, Encounter Books


3.雑誌、ジャーナル

越智敏夫(1999):「『他者』理解の政治学:多文化主義への政治理論的対応」、新潟国際情報大学情報文化学部紀要(http://www.nuis.ac.jp/ic/library/kiyou/2_ochi.pdf)

Banks, J. (1993): “Multicultural Education: Development, Dimension, and Challenges,” Phi Delta Kappan, Volume 75, Issue 1
Bendick, M. and Egan, M. and Lofhjelm, S. (2001): “Workforce Diversity Training: From Anti-Discrimination to Organizational Development,” Human Resource Planning, Volume 24, Issue 2
Gerring, J. (1997): “Continuities of Democratic Ideology in the 1996 Campaign,” Polity, 1997, Volume 30.
James Antle III, W. (2003): “Conservative Crack-Up,” The American Conservative, November 17, 2003
Limbaugh, R. (1994): “The Voice of America: Why Liberals Fear Me,” Policy Review, 1994, Issue 70
Podhoretz, N. (1996): “Neoconservatism: A Eulogy,” Commentary, March 1996.
Powers, T. (2001): “The Transformation of Liberalism, 1964 to 2001,” The Public Interest, Fall 2001


4.新聞

Price, J. “Birmingham Abortion Clinic Bombed,” The Washington Times, Jan. 30, 1998
Young, J. (2002): “Placing Groups over Individuals,” The Washington Times, Sep. 8, 2002