2013年6月27日木曜日

キリコに耳ヲ貸スベキ。

日本のヒップホップ音楽を聴くのであれば、ある時点でキリコを通る必要があるのではないだろうか。それくらい重要なMCだと思う。

キリコは、先人たちが作り上げてきた日本語ヒップホップをしっかり踏まえながら、それを批判的に継承しようと試み、自分なりのリアルなヒップホップを追い求めた(追い求めている)稀有なアーティストだ。

日本のヒップホップ創始者たちの地道な普及活動によって、2000年代の初頭には、ヒップホップを意識しせずともラップができるほどラップという技法が定着した。しかしながらそれは確固たる音楽ジャンルとしての「日本語ラップ・ミュージック」の登場にはつながったが、必ずしも「日本独自のヒップホップ」の定義にはつながらなかった。何がリアルで何かフェイクかの基準は明確ではなく、煎じ詰めると雰囲気(「ワルだからヒップホップ」?)や好き嫌い(「俺が気に入らないからフェイク」?)にすぎなかった。

そこに風穴を開けようともがいた異端児が、キリコである。

異端児と言ったが、キリコは単なる「個性派」や「キワモノ」ではない。先人たちの多大な影響下にあり、日本のヒップホップという文脈の上にしっかりと乗っかっている。

たとえば、2ndアルバム「BLAST」の「耳を貸すべきMC達」ではフックでライムスターの「耳ヲ貸スベキ」を引用している。同アルバムの「手も足も出ず」ではTHA BLUE HERBのMCであるILL BOSTINOと、Shingo2の二人を一曲丸ごと使ってほめ殺した上にTHA BLUE HERBの「THIS'98」にある「針は変えたんだろうな?」というイントロの台詞を引用している。

そういった直接的な引用は別にしても、キリコはラップを通して「日本のヒップホップよ、それでいいのか?」と問いかけている。彼はヒップホップを使ってヒップホップを評論しているのだ。彼の歌詞や作風は、日本のヒップホップをしっかり聴き込んでいないと理解できない。彼の音楽をちゃんと評価できるのは、ヒップホップにどっぷり浸かった人間だけだ。

キリコは、ヒップホップへの入門編として聴くべきアーティストではない。ヒップホップに馴染みがないのにヒップホップ評論を聴いても仕方がないからだ。そこが、キック・ザ・カン・クルーとの違いだ。キックは、J POPの中にポジションを取ることでヒップホップとは何かという小難しい問題から距離を置いて、大衆に受けるラップ音楽を売りさばき、商業的な成功を収めた。

これだけだとヒップホップの優等生以外の何者でもないかのように見えるが、キリコがヒップホップを表現したやり方を見ると、異端児と呼ばざるを得ないのだ。

キリコは従来自明とされてきた文法(たとえば韻や、悪ぶった歌詞、米国の模倣)を崩しそれらを茶化すことで、形式にはまって独自性を失った多くのアーティストたち、そしてリスナーたちも挑発している。

韻を放棄したのは、衝撃であった。これには私も戸惑った。キリコは、韻を踏めない訳ではない。むしろ上手い。たとえば未CD化音源集、「LOST TRAXX」の「良い音楽を」での畳み掛ける韻は、圧巻である。1stアルバムの「セルアウトをする気分を味わおう♪」でもきれいに韻を踏んでいる。でも大半の曲は前述した独自のフローで歌っている。

早口でまくし立て、語尾を繰り返す独特のフロー。強いて米国のアーティストを挙げると、キリコのラップの仕方は(2ndアルバム内の「ORIGINAL FLOW」で自ら影響を認めるように)ときたまSage Francisを感じさせる。あと「ありがとう名無しの2チャンネラー諸君」で2ちゃんねらーから指摘されてたように降神もたしかに。けど、「・・・みたい」では括れないな。

キリコは日本人がギャングスタ風ラップで悪ぶったり、ストリートを強調するのを否定し、正直なリリック、オリジナリティを推進している。雑に言えば、それが彼にとってのリアルである。

1stアルバム「僕は評価されない音楽家」は歌詞の9割(割合は実際に調べていない)が日本のヒップホップに対する愚痴、批判、皮肉、問題提起。ひたすらに独白的で、内省的。アルバムの題名にあるように、「どうせ俺の言っていることなんてみんなは分かってくれないし、誰も評価してくれないだろうけどな」というようなひねくれた思いが垣間見える。

2ndアルバム「BLAST」では、前作で「評価された音楽家」になったためか、少し対話的になった。二つの曲で、一枚目にはなかった客演を呼んでいる。「ありがとう名無しの2チャンネラー諸君」では2ちゃんねるのキリコ・スレッドへの書き込みにアンサーするという前代未聞の試みで2ちゃんねらーたちと対話をしている。

3rdアルバム「DIS IS IT」は、中盤に「レトロなお家のレトロなパスタ feat. toto from SUIKA」という謎の「スイーツ(笑)」的な曲が挟まれるなど、余裕と遊び心を感じさせるアルバム。そんな中でも童子-Tやシーモの名前を出して当てこするなどディスの切れ味は健在で、1stからの一貫したヒップホップへのこだわりを痛切に感じさせる。



一枚目は本当にごく限られた人しか受け付けないであろうアルバムだったが、三枚目になるとだいぶ聴きやすくなっていった。尖りながらも、徐々に社会的になっていくキリコ自身の変化や成長を見るような三作品だった。たしか当時、2ちゃんねるのキリコ・スレッドでもそんなことを書いている人がいたような。

4thアルバム「GREYHOUND」では、過去三作からがらっと作風を変えてきた。正直、少し聴いただけであまり興味が惹かれず、未だにちゃんと聴いていない。これは勝手な想像だが、キリコは最初の三枚で、言いたいことは大方、言い尽くしてしまったのではないかと思う。評価されたからといって、惰性で同じことはやらない。キリコのアーティストとしての誠実さだと思う。



最後に、キリコに関して昔(2006年)のブログに書いていた投稿が残っていた。当時の自分の熱を伝える記録として、貼り付ける。

まず、1stアルバムを聴いた時の感想。

(引用開始)

達磨様がブログでキリコのアルバム「僕は評価されない音楽家」を取り上げていた。

http://app.blog.livedoor.jp/darumasan777/tb.cgi/50283676

アルバムに対する私の感想としては、気持ち悪いくらいのぶっ飛び具合で、最初は「何だこれ?」と若干引いた。しかし何回か聴くと、はまり込んでしまった。
韻の技術は高いのに、曲によっては、なぜかほとんど韻を踏まないという「反則技」を見せており、疑問が沸く。しかしフローや内容があまりに個性的で、そんなのはどうでもよくなってくる。(いや、よくないが。)
クセがあるが、クセになる。こんなアルバムにはそう頻繁には出会えない。

キリコにしても、達磨様にしても、普段、(何の仕事か知らないが)普通に働きながら、音楽活動をしている。仕事は仕事として割り切りながら、プライベートの時間で、日頃の鬱憤とか、本当にやりたいことを形にして爆発させているんだと思う。だから、HIP HOPへの姿勢が痛いくらいに純粋なんだろう。そういうところからは大いに学ぶところがある。

2006-11-21 21:10

(引用終了)

次に、キリコと対面したときの感想。

(引用開始)

土曜日に、横浜のHMVで、キリコが店内イベントをやっていた。

午後5時からだった。実家が横浜なので、週末帰るついでに参加するつもりだった。

会うのを楽しみにしていた。何か会話を交わして来ようと思っていた。

しかし、迂闊にも、原宿・青山をぶらついていたら、時計を見ると4時半。このまままっすぐ行っても、間に合わない。何だかんだでHMVに着くのは5時半とかになってしまう。

実際、横浜にそれくらいに着いた。おそらくちょうどイベントは終わっているくらいの時間だ。だが駄目元で、HMVに急いだ。

すると、いた! 案の定イベントは終わっていたが、終了後、店内のイベントステージ近くで、関係者っぽい人(マネージャー?)と一緒にいて、代わる代わる誰か(関係者?ファン?)と談笑して、人によっては握手していた。

キリコは横顔をネットでちらっと見た程度で、どういう人かよく知らない。けど、たぶんこの人だろうな、と思った。身長が高く(180近いか?)、小太りで、青いアディダスのTシャツを着て、人のよさそうな笑みを浮かべていた。ラッパーっぽくない。

数分間、その前で挙動不審にウロウロしてから、タイミングを見計らい、今だと思って近づいて話しかけた。

「すみません、キリコさんですか?」
「あ、はい、そうです」
「あの、僕、今日のイベントに間に合わなかったんですけど、アルバム、発売日に買いました。最高です!」(これを言っている最中に握手してもらった)
「ありがとうございます!」
「今後もCD出されるんですか?」
「とりあえずアナログを出します。あとクラブにも顔を出しますので、観に来てください」
「いつも注目してますんで、頑張ってください!」
「ありがとうございます!」

勇気を出して話しかけた割には、文字にすると大したことない会話だが、私には満足感と興奮が残った。

すっげーいい人だった。

2006-11-19 22:46

(引用終了)

2013年6月21日金曜日

ヒップホップ側からアイドルやJ POPをディスる幼稚さ。

ヒップホップにはまり出すと、アイドルやJ POPの音楽を馬鹿にしてみたくなるものだし、アイドルがラップでもしようものなら「ヒップホップを馬鹿にしている」とキレてみたくなるものだ。私もかつてはそうだった。今では幼稚だったと思っている。

ヒップホップ音楽がここまで主流になれば、他のジャンルに影響を与えるのは自然のはず。他ジャンルがラップを単なる歌唱法として取り入れていることに目くじらを立てても仕方がない。ヒップホップ支持者が怒るべきなのは、ヒップホップと呼ぶに相応しくない「自称ヒップホップ」である。

でも、ヒップホップというゲームの中でリアルとフェイクをしっかり見極めるのは簡単ではない。だから、楽な方に流れる。アイドルやJ POPといった攻撃しやすい相手を見つけて、フェイクと決め付けて、それをディスることで自分がリアル側に属していると思い込む。

往々にして人は、対象のことをロクに知らないでディスりがちだ。しかし、本来ディスるには対象をしっかりと理解しないといけない。学生の頃、小室直樹の本に「批判とは継承のことである」と書いてあって驚いた記憶がある。

批判とは、自分が相手と同じ世界に住んでいるという意思表示でもある。何かを批判するということは、少なくとも、対象の存在を認めること+自分が対象に興味があることを明らかにすること+対象を理解することを前提とするはずだ。だから批判している時点で、対象と土俵を共有しているのだ。それが出来なければ、おそらく批判にさえ至っていない。単なるいちゃもんや言いがかりと変わらない。

ラッパー同士で内輪でやる分にはいちゃもんだろうと言いがかりだろうといいのかもしれないが、ゲームのルールを共有しない他ジャンルに口を出すときにそれではいけない。以前買ったチャックDのアルバム日本版ブックレットの解説で、K DUB SHINEが「愛のない批評は要らない」みたいなことを書いていた記憶があるのだが、本当にその通りだと思う(K DUBはヒップホップ評論家がヒップホップ作品を評するときの態度について言っていたけど、これはヒップホップのファンが他ジャンルに言及するときも同じだと思う)。

Yamakouは、「Na~Na~Na~」という曲(アルバム「マイティー's Back」)でつんくをディスった。「ニセモノ増加中(中略)うぜえよな子供騙しのポップグループ ラップすんじゃねえよこのクズ たとえばDA PUMP つんくfromシャ乱Q FUCK WACK そろそろ消えろバタンキュー」。学生だった私はこの歌詞を聴いて溜飲を下げたものだ。



今考えると「ニセモノ」という言葉を持ち出してつんくをディスるのは、お門違いもいいところなんだよね。だって、何の「ニセモノ」よ? 仮につんくがヒップホップというゲームのプレイヤーであれば、ニセモノのラッパーなりプロデューサーなりとしてディスるのは成り立つんだけど、勝負している世界が違うからね。

ZEEBRAは昔やっていたTOKYO FMの番組で、ミニモニ。の曲(ジャンケン・ピョンのやつ)が流れたコマーシャル明けに「ピョンで、お願いしやーす」と心から馬鹿にした口調で言い放ちDJ KEN-BOも同調していた。これはラップがどうこうではなく(この曲にラップはなかったはず)、単にアイドルの曲への嫌悪感の発露。たしかにヒップホップ番組の雰囲気とはまったく合わないコマーシャルだった。

当時、私は高校生でハロプロも大嫌いだったのでZEEBRAに内心喝采していた。しかし今振り返ると彼の言動には「アイドルやJ POPを馬鹿にしている俺らはリアル」みたいな筋違いで痛い幼児性があったことは否定出来ない。そして当時の私もそうだった。

彼ら、そして私は、意識せずともダブル・スタンダードに陥っていた。つまり、一方ではJ POPやアイドルを(おそらくは)ろくに聴きもせずにディスりつつ、「くだらないJ POPをディスる俺ら」というJ POPに依拠した形で自分たちの居場所を確認していたのだ。馬鹿にする対象なくして自分たちの居場所を定義できなかったのだ。学校がくだらねえと言いながら毎日しっかり通い続ける不良のようだ。もっとも学生の私は、不良ではなくオタクだったわけだが。

2013年6月16日日曜日

トレード・オフ。

最近、ジャズにはまり込んでいて、CDを漁っている。困るのが、昔の名作は何度も再発売されているからAmazonで検索すると同じアルバムが何件も出てくる。バージョンによってリマスターされて音質がよくなっていることがよくあるのだが、Amazonのページではレビューが統合されているし判別がつきづらいのだ。

だから、最近のリマスター盤を買うのであれば、実店舗で商品を確認して買うのがよいと気付いた。リマスター盤の場合、帯に書いてあるから。

そこで気になった。リマスターとは、どういうことなんだろうか? 音質がよくなるとはどういうことだろうか? 少し気になって検索してみると、こんな記事を見つけた。

マスタリング、リマスタリングのお話/Jazzを聴こうぜBLOG版
http://blog.goo.ne.jp/taromiles/e/f9d2517f69d5654cf5c77b98eee1b228

自分はジャズに関しては新参なんだけど、この記事に書いてあることは結構、腑に落ちた。というのも、音を作りこむことと、生々しさや即興性とのトレード・オフというのは、ヒップホップのリスナーとして感じていることだったからだ。

ヒップホップの場合、きれいなトラックで流麗に歌い上げたラップよりも、雑音入りのラジオ音源でちょっと詰まっているくらいのフリースタイルが臨場感があってかえってよかったりする。少なくとも、私はそっちの方が好きだ。もちろん、フリースタイルがすべてではなくて、作品には作品のよさがあるのは言うまでもない。

ただ、ヒップホップを「フリースタイル」と「作品」の二項対立で見たときに、あまりにも「作品」に傾いてしまうと、個人的にはあまり楽しくないしヒップホップじゃないと感じてしまう。あらかじめ書かれた歌詞であっても、聴いていてどこかしら「次、何て言うんだ? どういう韻を踏むんだ?」というわくわくを感じさせてもらいたい。

私がKanye Westに付いて行けなくなったのは、そこだ。自分の中で至高なのは、一枚目アルバムの"College Dropout"と、"Freshmen Adjustment 1, 2"という海賊版デモ曲集(今調べたら、3も出てるのか)。この三枚は、大好きで、まさにヒップホップだと思っている。その次に好きなのが二枚目の"Late Registration"だけど、この時点で、自分が求めるヒップホップとはちょっと違うかなと思っていた。三枚目は耳が受け付けなくて、それ以降、彼のアルバムを追わなくなった。あまりにも、きれいな音楽になりすぎた。だからKanye Westに関しては、上述の四枚しかちゃんと聴いていない。



もちろん、Kanye Westの試みは、おそらくBlack musicとしては非常に高度なんだろうし、単に私が彼の進化に追い付けなかっただけだと思う。当時の私は、ヒップホップという枠組みへのこだわりが強くて、そこからはみ出る音を受け付けなかった。その時に比べたら他の音楽も聴き込んでいるので、今聴いてみたらいい音楽だと思えるのかもしれない。

基本的には、音質はよいに越したことはない。特に昔のアルバムは、リマスターによって現代の聴き手に手に取りやすくなるのであれば、どんどんするべきだと思う。たとえばキングギドラの「空からの力」なんかはリマスター再発売してほしいと思っている。そうやって古典を世の中に残していくのは大切。傑作とされているPublic Enemyの初期のアルバムは、音が悪すぎて、聴く気が失せたのを覚えている。



ただ、ヒップホップの場合、雑味を削ぎ落として、くっきりした、きれいで、計算された音楽作品を作り込もうとすればするほど、何かが失われていくのもたしか。で、その「何か」は、ヒップホップをヒップホップたらしめる重要な感覚なんだろうと思う。その原点がフリースタイルであったり、ラジカセから流れる音だったり、あとはレコードの音だったりするんだろうね。

Lootpackの"Lost Tapes"は2004年のリリースだけど、「レコード感」がすごく出ていると感じる。音が少しざらざらしていて、くっきりはっきりというよりは、少しこもっている。あえてそういう感じの音を作っているんだろうと思う。



で、その作り込んだり決められた通りにきれいにやるのとは対極な部分、たとえばフリースタイルとか即興とか、ヒップホップに求めていた部分がジャズにもある(むしろジャズの方が強い)というのが、今こうやってジャズに強く引き付けられている一つの大きな理由なんだろうと思う。