2014年3月31日月曜日

音楽家の苦労話ではなく、音楽を聴こう。

Twitterを眺めていたら、あるジャーナリストが「(前略)感動した」という言葉を添えて上原ひろみが公式サイトに載せた文章を共有していた。

メキシコへの長い旅」という、3月25日付けの記事だった。夜にメキシコでの公演を控えた上原ひろみトリオ。前日にもアメリカでコンサートをやったばかり。少し仮眠を取っただけでほとんど寝ていない。

アメリカからメキシコへの移動中に問題が発生する。国内で乗り継ぎの際、空港で機内へのベースの持ち込みを許可してくれない。国内便は楽器の持ち込みが出来るという法律があるはずなのに、いくら粘っても航空会社の職員はダメだの一点張り。大切な楽器を雑に扱われて壊されることを考えると、上原の側も譲れない。

ここで展開を全部なぞっても仕方がないので詳細は割愛するが、最終的には上原が不屈の精神でベースを飛行機に持ちこむことに成功する。メキシコでは観客を大満足させ、公演は成功裏に終わる。

上原たちはベースの持ち込み拒否の他にも様々な困難に襲われている。記事をざっと一読しただけでは起きた問題のすべてを正確に把握するのが難しいほどである。

そんな過酷な状況を、とにもかくにも歯を食いしばって粘り強く乗り越えて、最後には大きな喜びを手に入れる。

上原は記事をこう締めくくる。
そして、次の日のメキシコ公演、その次の日のロス公演を終え、
私は今ルーマニアにいる。
さぁ、今日も限界まで、やってやろうじゃないか。
勝利の美酒を味わう暇もなさそうである。手に汗を握る展開。焦燥感と疾走感、達成感がこぼれ出てくる、勢いのある文章だ。

これだけのガッツと体力を持ち合わせた上原ひろみ。もし彼女が会社員だったらベンチャーを渡り歩いていただろうかなどと無職ながらに想像した。

ただ、機材の移動に苦しんだかどうか、飛行機のダブル・ブッキングに見舞われたかどうか、睡眠をきちんと取れているかどうか。それらは彼女の音楽の美しさと愉しさとは関係がない。むしろ機材もメンバーも余裕を持って現場に到着してほしい。その方が余計なことに神経を使わず音楽に集中出来るだろう。可能な限りたっぷり休養を取って、ちゃんと寝てほしい。心身ともに健康で長く創作と演奏を続けてほしいからだ。あの上原ひろみがこんな苦労をしているからと言って、過労をしているからと言って、それらを美化する必要はまったくないのだ。

「成功者がこういう苦労をしている」、だから「そういう苦労は成功するために大事なんだ」という思考回路を断ち切らないといけない。他の誰かが上原ひろみの苦労を真似したところで上原ひろみにはなれないのである。

成功に、人生に、再現性などない。「私はこうやって成功した。だからあなたも同じことをやれば成功する」というビジネス書が掃いて捨てるほど書店に並んでいるのに、読者は一向に成功しない。

℃-uteの武道館公演が決まったときメンバーの誰かが「夢は口に出すと実現する。だからみんな自分の夢を周りに言おう」というようなことを言っていた。だが世の中に夢を公言した人は他にも山ほどいるわけで、その大多数は夢を実現出来なかったはずだ。ただその人たちが「夢は口に出しても実現しない。だから他人には言うのはやめよう」と言わないだけの話だ。

世の中には、自分の苦労を延々と自慢して「だからお前も苦労しろ」という意味不明な説教をしてくる始末に負えない馬鹿までいる。これも、前述の「成功者(ここでは自分)がこういう苦労をしている」と「そういう苦労は成功するために大事なんだ」を結びつける思考が前提にある。人生で苦しかったり大変だったりしたことは、それを乗り越えてからいい思い出になる。「あの頃があったから今の私がある」と後付けで意味を与えたくなる。それは自分に留めておくべきで、一般的な法則として他人に語るべきではない。同様に、成功者の苦労話から何かしらの教訓や指針を導き出そうとするのも馬鹿げている。

私は上原ひろみの独創的な音楽と、演奏しているときのチャーミングで情熱的な姿がこれ以上ないくらいに大好きだ。私たちが「感動」して共有すべきは彼女の類まれなる音楽であって、苦労話ではない。だからもし彼女の音楽に触れたことがなくてあの文章を面白いと思ったら、彼女のCDを何か一枚でも買って聴き込みましょうよ。どれを買っても外れはないから。5月21日には新しいアルバム『ALIVE』が出ますよ。

2014年3月29日土曜日

スキル競争。商品としての自分。鎮座DOPENESS。

凡人の働き手が身に付けるべきは「どこでもやっていけるスキル」ではなくツテではないだろうか。

「どこでもやっていけるスキル」を持った人材になるということは、労働市場の中の商品として上澄みになるということである。それを目指せるのは定義上、ごくわずかな人しかいない。もしくは、どんな雑用もこなす奴隷になるということである。(海老原嗣夫の『日本で働くのは本当に損なのか』に職業は習熟度が高くなればなるほど移動が出来なくなり、産業間を渡り歩けるのは一部の経営層かエントリー人材という指摘がある。)

市場は相対評価であり、減点法である。何かを多数の候補から一つに絞るときには消去法が必要になる。どれかを選ぶ理由だけでなく、それ以外を選ばない理由が必要なのだ。市場の商品になるということは欠点を探されるということである。

市場という客観的視点を抜きにして、加点法で自分のことを絶対的に評価してくれる人たちが、人生で最も大事にすべき人たちである。それは人によっては家族が当てはまるかもしれないし、親友がそうなのかもしれない。もちろん、自分にはそういう人などいないという人もいるかもしれない。

「お前と一緒に働きたい」と言ってくれる仲間が、会社員が手に入れられる最大の財産である。

漠然とした「世の中に必要とされるスキルを持った人材」として「まだ会ったこともない誰か」に評価されようとするのではなく、具体的な誰かに、盲目に選んでもらうようになるのが大事なのだ。

広く「世の中」や「業界」一般で生き抜こうとするのは、自分から固有の人格を剥ぎ取り、比較可能なデータに単純化することである。

比較可能なデータになればなるほど、不利なのだ。なぜなら自分と似たような価値を持つ人、自分より価値の高い人がいくらでもいるからだ。あなたである必要はないのだ。競争は値段(給料)も下げる。

市場の商品になってしまえば、人は「戦力」「人材」に抽象化される。人格を持った「○○さん」ではなくなるんだ。「○○歳くらいの、○○という経験を持った人が欲しい」という企業にとって、条件から外れる応募者の年齢は欠点なのである。しかし本来、年齢はその人の欠点でも何でもないのである。

鎮座DOPENESSというMCのバトル動画をYouTubeで観て衝撃を受けた。ろくに韻も踏まずに、時として内容ですら分が悪いように見えるのに、最後には勝ってしまう。対戦相手は「鎮座DOPENESS」と「韻など踏めず」で韻を踏んでそこを突くのだが、ビクともしない。韻のうまさは計測可能。そこで勝負しているMCはDOPENESSに勝てない。立ち振る舞いや雰囲気、独特のフロー(歌い方)で、DOPENESSは場を飲み込んでしまう。計測のできない魅力。

いつかのMCバトルで、メシアtheフライとの決勝戦の模様がYouTubeにあった。鎮座DOPENESSは、メシアtheフライが投げてくる色んな問いかけには正面から答えず、のらりくらりとかわしながら独自の世界を繰り広げ、どういうわけか最後には勝ってしまうのだ。

鎮座DOPENESSの虜になっている私から見ても、内容でも韻でもメシアtheフライが一枚上手に見えた(異論は認める)。鎮座DOPENESSのバトル動画を漁って見ていると、彼はヒップホップ用語で言うところのバイブス(雰囲気)や彼にしか出来ない予測の難しいフローを通して、技術を超えたところで対戦相手だけでなく観客や審査員をも圧倒しているのだ。

晋平太はバトルの中で鎮座DOPENESSの支持者を「信者」と揶揄していた。実際、バトルによっては少し鎮座DOPENSSに分が悪いように見えても、鎮座DOPENESSだから無条件に応援している人もいるような印象を受けた。でもそういう支持を集められるのが彼の強さなんだ。



競争が激化すると、その土俵に上がるために必要な基本的なスペックが高度になる。

例えば「これから生き残るには英語が必要だ」という風潮に対応するためにみんなが本当に英語を身に付けると、英語がある程度できるのを前提に別の能力や技能が「これから生き残るのに必要なスキル」の一覧に加わるだろう。生存の条件が底上げされるのだ。

競争は相対的な優劣で勝負が決まるのであって、いくら自分が訓練を通して何かの技術を習得したとしても、それが他の多くの人たちでも出来ることであれば、商品としての自分の強みにはならないのだ。その技能の習得がどれだけ大変かはあまり関係がない。

そして、一旦「みんながある程度は出来る」ようになった技能は、「非常によく出来る」ことの価値も減退するのだ。仮に日本人の大半が文字が読めなければ、きちんと読み書きが出来るだけでそれなりに食い扶持を得ることはできたかもしれない。日本人のほとんどが識字出来る現代では、読み書きが出来ることで優位に立てる職業はほぼ皆無であろうし、同様に識字において高度に訓練されている(難解な漢字を書けるとか)ことが評価される仕事もほとんどないだろう。「ある程度」が全体に行き渡ると、その能力や技能そのものが陳腐化し、それが高度に出来ることもそれほど評価はされづらくなる。

日本のヒップホップにおける韻が、そういう技能になっている。出来るのが当たり前。特別うまくはなくてもあまり攻撃の材料にならない。かなり上手でもそれだけではふーんで済まされる。

かつては韻が踏める・踏めないがヒップホップであるかどうかを判断する上での一つの大きな指標だった。今ではJ POPの枠内にあるラップでさえきれいに韻を踏むようになった。「キック・ザ・カンクルーとは何だったのか。」でも書いた通りである。

キリコのようにあえて韻にこだわらないMCも頭角を現した。鎮座DOPENESSもそうだ。そういうMCが活躍できているのは「お前は韻が踏めていない」というのが日本のヒップホップにおいて有効な攻撃ではなくなったからだ。

韻がありふれた技能になったから、リスナーにとって、しっかりと韻を踏んだラップのありがたみが減った。以前は、韻そのものが珍しく、韻を上手に踏めばそれだけで面白いラップになった。極論すると。それをとことんまで突き詰めたのが走馬党クルーと言えるのではないか。

スペックのみの勝負だと、その商品の価値は誰が見ても大体同じだ。ある人は最高評価を与え、ある人は最低評価を与えるというのは考えにくい。英語がTOEIC 800点の人は(TOEICが英語の技能を判断するのに妥当かは別にして)誰が見ても「TOEIC 800点レベルの英語力を持った人材」なのであって、それ以上でも以下でもない。

「その人であること」それ自体が評価や支持の理由になれば、その人を好きな人は無条件で支持する。TOEICが何点だろうが関係ない。

企業の選考でいくら人柄を評価の項目にしたとしても、その「人柄」はあくまで他の候補と比較するスペックとしての人柄だ。「戦力」として自分たちの一員に加えたいかどうかを決める上での、商品を相対評価で査定する上での項目の一つにすぎない。家族や親友はその人がその人であるという理由だけで愛するのであって、誰それより優れているから付き合っているわけではない。

自営でお店をやっている人が家族を従業員にする理由は、家族だから。それだけだ。求人に応募した候補者たちを採点した結果「戦力」「人材」としてポイントが高かったからではない。

「戦力」「人材」という市場が発達していくと、要求されるスペックは、どんどん底上げされていく。値段も限界まで安くなっていく。その上、年齢という逆らえない指標も極めて大きな要素である。つまり、年齢を重ねていくだけで基本的に「戦力」「人材」としての値打ちは下がっていくのだ。そんな中、市場での評価を狙ってスペックを磨いていくのは大半の人たちにとっては分が悪すぎる勝負だ。

自分のことを「○○さんだから」という理由で信頼してくれる人を一人でも増やしていくのが、一時期もてはやされた「グローバル人材」のような浮ついた目標よりもよほど現実的ではないだろうか。

私は、個人的なツテをたどって転職する人のことを、最初は格好悪いと思っていた。一種のずるのように思っていた。自分の実力で勝負するべきだと思っていた。

でも、実力なんてものは明確に定義できるものではないし、ましてや書類と一時間の面接で得た印象で正確に推し測れるものでもない。

その人と実際に何年も仕事をした上でその人と一緒に働くのが好きだと思わせることが、働き手にとっては何よりの勲章であり、実力である。

面接のときに初めて顔を合わせる相手たちから疑いの目を向けられ、試され、品定めされる「就職市場・転職市場」は、かなりのクソゲーである。

理論上、求職者は企業と対等に交渉する立場である。実際には立場が強いのは企業に決まっている。就職や転職の市場において求職者は商品であり、企業は消費者である。消費者と商品が対等なわけがない。

応募者を審査する側は、いくらでも落とす自由がある。求人を出して、数十人が応募してきて、十人を面接に呼んで、ピンと来なければ一人も採らないという選択が出来る。

労働者には会社に入ってから辞める自由と、ある会社に応募しない・行かない自由はあるが、好きな会社を選んで勤務する自由はない。働かない自由というのも一応はあるが、一時的ならともかく、何らかの理由で大金を持っていない限り長くは続けられない。生活が成り立たない。

応募者が求職時に職に就いているかどうかで企業との力関係は変わるかもしれない。「お宅に行かなくても食い扶持はあるんだ」「現にこれだけのお金をもらっているんだ」という事実があった方が交渉において有利だろう。だが、それでも対等ではない。

採用する側が「採用基準」を偉そうに語って本まで出版するのを見ることはあっても、求職者が「入社基準」を偉そうに語っても誰も相手にしない。

自分を市場に放り込むということは、自分を商品にするということ。資本主義の世の中では避けられない。でもそれ一辺倒になってしまうと苦しい。労働に重きを置く社会で、「自分」という商品が労働者の市場で売れないと、存在を否定された気持ちになるからだ。だから就職活動は疲れるし、大学生の自殺者まで出る。

鎮座DOPENESSは、リスナーや他のラッパーから韻が踏めないとディスられても痛くも痒くもないはずだ。(少なくとも業界で一般的に規定される形での)「スキル」という次元で、彼は勝負しているわけではないのだ。それどころか、彼はラッパー・MCという枠にもとらわれていないのではとさえ思う。私にとってバトル動画を通して見る彼の勇姿は、ひたすらに眩しいのである。

2014年3月25日火曜日

ラーメンたべたい?

アルバム『Get Together - LIVE IN TOKYO』で矢野顕子が歌う「ラーメンたべたい」という曲を聴いて、何とも言えない気持ちに襲われた。

たまたま同時期にテレビで矢野を追ったドキュメンタリー番組を観たのが影響している。その番組では国をまたいで活躍し長年のキャリアを積んで名声を得た今でも新しい音楽に意欲的に挑戦する、類まれなる表現者としての彼女の姿が見て取れた。

そういうアーティストとしての偉大さとは別に私の印象に残ったのは、この人はおそらくお金持ちな家庭で上品に育ったんだろうなと思わせる振る舞いやエピソードだった。拠点を構えるニューヨークで、馴染みの店でアクセサリーを物色する姿。番組の制作陣を同行しているのを見て「有名人だとは知らなかったです」という店員に「そんなんじゃないのよ」と返すときの、本当に感じのよい、嫌味のない仕草。公式ソングを歌うことになった伊勢丹は子供の頃からよく来ていて、以前から大好きだったという話。

矢野顕子はセルアウトして金持ち用の百貨店である伊勢丹の公式ソングを作ったのではなく、元から伊勢丹に通い詰めるお嬢様だったのだ。そういう出自なのであって、伊勢丹って素敵というのは彼女にとっては背伸びをしない等身大のリアルな思いなのだ。

そんな彼女が歌う「ラーメンたべたい」は、本人がどういう気持ちで歌っているかは別にして「裕福な家で上品に育ち今ではアーティストとして大成功しニューヨークで暮らしている私だってたまには庶民の味であるラーメンを食べたくなるものよ」と私には聞こえてしまうのである。もちろんここには私の勝手な想像や飛躍、妬みが大いに含まれるわけだが、どうしても純粋に聴くことが出来ないのだ。

だからラーメンへの熱い思いを歌い上げる矢野に対して、私としてはそうそう分かります、無性にラーメンが食べたいときってありますよね!と同調する気持ちは湧いてこない。おそらく「ラーメンたべたい」というのは多くの日本人が共感できる欲求なのだろうが、私にとっての「ラーメンたべたい」と矢野顕子にとっての「ラーメンたべたい」は違うのだ。

首相がテレビの庶民的なバラエティ番組を無形文化財といって褒め称えても、それらを本当に日々の生活で観ている庶民とでは住んでいる世界は違うのであって、その断層は埋めがたい。同様に、伊勢丹が大好きだという矢野顕子と、公式ソングのビデオクリップ撮影時に矢野の後ろで笑顔で踊っていた伊勢丹の販売員たちとの間にも、確固たる断層がある。あの販売員たち同様、私も破産せずに伊勢丹で気ままに買い物が出来る身分ではない。

2014年3月23日日曜日

祭りの後。

友人の結婚式に行ってきた。人生の中でもそう何人も出会うことはない、いわゆる親友と言って差し支えがない奴だ。そうじゃなければ招待は断っていた。

俺は今、あまり他人の結婚式にのこのこ出かけていられる状況ではない。職がないからだ。何と言っても、金がない。ご祝儀を出せば生活が破綻する。気も進まなかった。企業の選考に応募しては書類で落ちたり面接で落ちたりというのを何度か繰り返しているうちに、悲観的な気分がデフォルトになってきた。毎日ほんの少しずつ精神は摩耗し、弱ってきている。こんな境遇と精神状態で他人の結婚におめでとうだなんて言う気は起きないのだ。

眠りについたらそのまますべてが終わりになってくれないだろうか。そうなってくれればどんなに楽だろう。布団の中でそう思ったこともある。それも悪くないかもなと思いかけた途端、先週会って一緒にお昼ご飯を食べた母親の顔が頭に浮かんだ。俺が死んだら母が悲しむ。何があっても親より先に死ぬことだけは避けたい。朝の8時過ぎになると自然に目は覚める。当たり前のように一日が始まる。憎らしいくらいに空は青い。布団を干す。洗濯をする。

子供の頃に歯が立たなかったファミコン・ゲームの攻略動画をYouTubeで観るのに最近はまっている。「バットマン」。「ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ」。「さんまの名探偵」。「ドラえもん」。あの頃に分からなかった謎が解明されていく。人生の伏線を回収しているというか、何かこう、人生を締めくくっているような気持ちになってくる。冗談のような、冗談ではないような。

人生の先行きは見えないが、精神状態が悪いときでも積極的に死にたいとまでは思わない。日付のついた楽しみが、俺を未来につなぎ止めている。5月に出る上原ひろみのアルバムを聴かずして、死ねるか。GW中のキース・ジャレットの公演を会場で観ずして、死ねるか。この間、精神的に凹んで頭がボーッとして布団の上で天井を見つめていたらインターフォンが鳴って、出たら再来週の℃-ute五反田公演のチケットの配達だった。あんまりいい席ではなかった。チケットに印刷された日付を見て、まだ生きなきゃなと思った。

披露宴では一人一人の席にメッセージが置いてあった。自分のを開けると彼にとって俺は「仕事、人生観、遊びと、自分に一番影響を与えてくれたかけがえのない友人」だと書いてあった。俺は彼から多大な影響を受けたが、俺が実際のところどれだけ彼に影響を与えたのか、分からない。

何人もの元同僚たちと再開した。「元気?」と何人かに聞かれてその都度「元気じゃねえよ(元気じゃないですよ)」と返した。ある人は顔を合わせるや否や「今、ニートなんでしょ?」と煽って笑ってきた。ある人は転職したときに活動に一年かかり、いま勤めている会社に決まるまで合計で20社に落ちたと言っていた。ある人は無職生活の精神的なつらさが分かると言ってくれた。彼は無職になったことはないが、仕事で先が見えない不安からパニック障害になったことがあるらしい。結婚式に呼んでくれた友人ともう一人の友人は、夏頃に一緒に山登りに行こうという話をしてくれた。企業の面接官たちと違い、元仲間として、人間として温かく接してくれる彼らのおかげで、だいぶ救われた。

結婚式という場は、人生への肯定感で溢れていた。みんな笑顔で、楽しく、祝って、笑っていた。社会への不満、人生への絶望、将来への不安が入り込む余地など微塵もなかった。それはそれで不自然ではあるが、自分が日々で忘れていた温かさがそこにはあった。

結婚式に参加することで、人生を肯定していて心に余裕がある多くの人たちと触れ合い、少しだけ心が浄化された気がした。安定した職に就き、生活の基盤が確立していて、社会的地位が確保されている人々だからこそ出せるゆとりを感じた。

他人の結婚式に出ることが人生で最大の娯楽になっている人々が一定の割合でいるのだろうと、盛り上がる参加者たちを見て、思った。彼らにとっての結婚式はハロヲタにとっての現場のようなものなのだろう。退場するとき握手会じゃないけど贈り物の手渡し会があるしね。

一晩明けて、披露宴でもらったメッセージを見返した。もし俺が本当に彼に影響を与え、彼の人生の中で少しでも重要な位置を占めてきたとすると、俺が自分の人生を否定すれば、それは彼の人生を否定することにもつながるのではないか。

死ねない理由が一つ増えた。