2013年6月21日金曜日

ヒップホップ側からアイドルやJ POPをディスる幼稚さ。

ヒップホップにはまり出すと、アイドルやJ POPの音楽を馬鹿にしてみたくなるものだし、アイドルがラップでもしようものなら「ヒップホップを馬鹿にしている」とキレてみたくなるものだ。私もかつてはそうだった。今では幼稚だったと思っている。

ヒップホップ音楽がここまで主流になれば、他のジャンルに影響を与えるのは自然のはず。他ジャンルがラップを単なる歌唱法として取り入れていることに目くじらを立てても仕方がない。ヒップホップ支持者が怒るべきなのは、ヒップホップと呼ぶに相応しくない「自称ヒップホップ」である。

でも、ヒップホップというゲームの中でリアルとフェイクをしっかり見極めるのは簡単ではない。だから、楽な方に流れる。アイドルやJ POPといった攻撃しやすい相手を見つけて、フェイクと決め付けて、それをディスることで自分がリアル側に属していると思い込む。

往々にして人は、対象のことをロクに知らないでディスりがちだ。しかし、本来ディスるには対象をしっかりと理解しないといけない。学生の頃、小室直樹の本に「批判とは継承のことである」と書いてあって驚いた記憶がある。

批判とは、自分が相手と同じ世界に住んでいるという意思表示でもある。何かを批判するということは、少なくとも、対象の存在を認めること+自分が対象に興味があることを明らかにすること+対象を理解することを前提とするはずだ。だから批判している時点で、対象と土俵を共有しているのだ。それが出来なければ、おそらく批判にさえ至っていない。単なるいちゃもんや言いがかりと変わらない。

ラッパー同士で内輪でやる分にはいちゃもんだろうと言いがかりだろうといいのかもしれないが、ゲームのルールを共有しない他ジャンルに口を出すときにそれではいけない。以前買ったチャックDのアルバム日本版ブックレットの解説で、K DUB SHINEが「愛のない批評は要らない」みたいなことを書いていた記憶があるのだが、本当にその通りだと思う(K DUBはヒップホップ評論家がヒップホップ作品を評するときの態度について言っていたけど、これはヒップホップのファンが他ジャンルに言及するときも同じだと思う)。

Yamakouは、「Na~Na~Na~」という曲(アルバム「マイティー's Back」)でつんくをディスった。「ニセモノ増加中(中略)うぜえよな子供騙しのポップグループ ラップすんじゃねえよこのクズ たとえばDA PUMP つんくfromシャ乱Q FUCK WACK そろそろ消えろバタンキュー」。学生だった私はこの歌詞を聴いて溜飲を下げたものだ。



今考えると「ニセモノ」という言葉を持ち出してつんくをディスるのは、お門違いもいいところなんだよね。だって、何の「ニセモノ」よ? 仮につんくがヒップホップというゲームのプレイヤーであれば、ニセモノのラッパーなりプロデューサーなりとしてディスるのは成り立つんだけど、勝負している世界が違うからね。

ZEEBRAは昔やっていたTOKYO FMの番組で、ミニモニ。の曲(ジャンケン・ピョンのやつ)が流れたコマーシャル明けに「ピョンで、お願いしやーす」と心から馬鹿にした口調で言い放ちDJ KEN-BOも同調していた。これはラップがどうこうではなく(この曲にラップはなかったはず)、単にアイドルの曲への嫌悪感の発露。たしかにヒップホップ番組の雰囲気とはまったく合わないコマーシャルだった。

当時、私は高校生でハロプロも大嫌いだったのでZEEBRAに内心喝采していた。しかし今振り返ると彼の言動には「アイドルやJ POPを馬鹿にしている俺らはリアル」みたいな筋違いで痛い幼児性があったことは否定出来ない。そして当時の私もそうだった。

彼ら、そして私は、意識せずともダブル・スタンダードに陥っていた。つまり、一方ではJ POPやアイドルを(おそらくは)ろくに聴きもせずにディスりつつ、「くだらないJ POPをディスる俺ら」というJ POPに依拠した形で自分たちの居場所を確認していたのだ。馬鹿にする対象なくして自分たちの居場所を定義できなかったのだ。学校がくだらねえと言いながら毎日しっかり通い続ける不良のようだ。もっとも学生の私は、不良ではなくオタクだったわけだが。