2010年12月19日日曜日

大学時代までJEANS MATEで服を買っていた俺が、ヨウジとギャルソンを愛好するようになるまで。(5)

ファッションに疎いやつは、コレクション・ブランドの服を「高い服」程度にしか思っていない。その証拠に、彼らの口から「その服、いくら?」を超える質問を聞いたことがない。

その質問をされると、居心地が悪い。

分かり合えないことは分かり切っているからだ。だって、あっち側の人間ってのは、「たかが洋服がなんでそんなに高いんだよ」「もっと有効なお金の使い方があるだろ」なんて思っている。口には出さなくても、そう思っている。そう、初めてギャルソンの店に入って値段を知った当時の俺みたいにな。

一方、ファッションに理解があるやつは、値段より前に、デザインやブランド、買った店や場所なんかについて質問するね。

そこが、一般人と服オタクを分ける高い壁だ。一般人から服オタクに転身した経験のないやつは、その壁の存在にすら気付かない。だから彼らからしてみると、せっかく稼いだ給料を洋服ブランドに貢ぐなんて無駄遣いにも程があるわけで、お金以外の要因なんてそもそも頭にない。

2010年12月12日日曜日

大学時代までJEANS MATEで服を買っていた俺が、ヨウジとギャルソンを愛好するようになるまで。(4)

色んなブランドを組み合わせて自分のスタイルを作る。そんな優等生的な回答が、なぜ間違っているのか。

それは、コレクション・ブランドの服は、服であると同時に世界観だからだ。ブランドがショーで提示しているのは個々の服だけではなく、全体としてのコーディネートであり、もっと言えば、物語であり、トーンなんだな。

もし、全身のコーディネートを提案しているにも関わらず、部分を他のブランドと入れ替えてもコーディネートの完成度が落ちないのであれば、それは、そのブランドだけの世界観を構築できていないということだ。他のブランドと入れ替え可能な、汎用性の高い世界ということだ。

俺は(1)の最初に書いたように、ヨウジ・ヤマモトとコム・デ・ギャルソンが大好きだ。でも、この二つのブランドを混ぜようとは思わない。

「混ぜるな危険」なんだ。

ギャルソンとヨウジを混ぜるのは、俺にとっては『白雪姫』の中にミッキー・マウスが出てきたり、『ジャックと豆の木』の中に桃太郎が出てきたりするくらい、やってはいけないことだ。

2010年12月5日日曜日

大学時代までJEANS MATEで服を買っていた俺が、ヨウジとギャルソンを愛好するようになるまで。(3)

丸井系で一つ思い出した。

コム・サをはじめとしていくつかのブランドを展開しているファイブ・フォックスという会社は、販売員に課されるノルマがきつくて、洋服販売の世界では体育会系で有名らしい。

まず朝礼からして気合いが入ってるとか。「今日も売るぞー」みたいな感じなのかな?

もちろん、ファイブ・フォックス系のブランド以外でも、それこそコレクション・ブランドであっても、程度や制度の差こそあれ、ノルマが存在することに違いはない。

たとえばシャツを買おうとするとそれに合うTシャツなりパンツなりを強力に薦めてくるのは丸井系の店ではよくあることだが、店員たちからするとセット販売できるかどうかが自分の給料に響いてくるのかもな。だから、ある意味じゃ彼らはシステムの被害者でもある。

まあ、それでもうざいけどな。

2010年11月27日土曜日

大学時代までJEANS MATEで服を買っていた俺が、ヨウジとギャルソンを愛好するようになるまで。(2)

会社に入ると、大きな変化が三つ訪れた。

まず、使えるお金が増えたこと。大学時代はせいぜい毎月3万くらいしか自由に使えるお金はなかったけど、働きだすとそれが4、5倍になった。

最初の頃は、今思うとバブルだったね。そう。今よりも、むしろ最初の方が使えるお金は多かったんだよ。

たくさん残業をしてたからその分残業代を多くもらっていたし、最初のたしか一年は住民税を取られてなかったからね。

二つ目は、ファッションに関して自分を導いてくれるメンター(先生)が現れたこと。会社の同期で、筋金入りの粘着ファッション・オタクがいて、彼が色んなブランドとか店を教えてくれた。やっぱりオタクだから、教えてくれるブランドや店というのがまた、容赦のない最高峰なんだ。

最後に、体重が10キロくらい減ったこと。会社に入ったのは4月なんだけど3か月くらい研修があって、7月から正式に配属された。配属されてから3カ月で9キロくらい減った。大学にいたときは70~72キロだった体重は、11月には60.4キロにまで落ちていた。

この三つの要因の組み合わせがなければ、今俺はギャルソンやヨウジを着ていることはなかっただろうね。

2010年11月23日火曜日

大学時代までJEANS MATEで服を買っていた俺が、ヨウジとギャルソンを愛好するようになるまで。(1)

なんかね。最近、終着点に来たような気がしてるんだ。

好きなブランドも、好きなスタイルも、すっかり固まってきた。

ヨウジ・ヤマモトと、コム・デ・ギャルソン。自分が本当に好きで着たいのは、この二つのブランドの服であって、それ以外ではない。

現にこの記事も、ヨウジのスニーカー、ヨウジの靴下、ヨウジのパンツ、ヨウジのTシャツ、ヨウジのニットにヨウジのキャスケットを身に付けて書いている。カバンでさえヨウジだ。

今さら新しいブランドやスタイルを開拓したいとも思わない。だから一種の最終地点に立っている心持ちなんだ。

服は自分にとって、そわそわしたり、わくわくしたりする対象だった。もちろん、今でも好きな服を着ることはとても気分がいい。

でも、自分の中で何かが変わってきてる。たぶん自分の中で一通り探求が済んで、落ち着いてきたからだと思うんだよね。もう「この先は何があるんだ?」って感じじゃないんだよね。

思えば遠くまで来たもんだ。だって、よく考えてみりゃ大学時代までJEANS MATEで服を買ってたんだぜ。それが大学卒業から6年たった今、パリ・コレクションに出展するブランドの服で全身を固めてるわけだからね。

2010年11月10日水曜日

道重さゆみはなぜぶれないのか? 戦略BASiCSを用いた分析

それにしても、道重さゆみさんのぶれなさ加減は異常である。

今日、仕事を終えた私はいつものようにモーニング娘。道重さゆみさんのブログをiPhoneで開いた。最新記事の題名は、「振り返り美人?♪」。ファンとのバスツアーにおける自身の髪型と髪飾りを自ら称賛し、あえて後姿の写真だけを載せて振り返った顔の可愛さまでも暗示させるという、大変興味深い内容であった。

http://gree.jp/michishige_sayumi/blog/entry/517361873

道重さんは、いつ見てもブログでこのように自分の可愛さを褒め称えている。2010年2月のブログ開設以来、ずーっとである。飽きる気配すらない。彼女のブログへの訪問者数は、初期ほどの勢いはないものの順調に増加し、現在では9200万件を超えている。この数字から判断するかぎり、見ている方も飽きていないのだろう。少なくとも私は飽きていない。私はため息まじりに心の中でつぶやいた。それにしても可愛さはもちろん、芸風も本当にぶれないな、と。

そこで、ふと思った。なぜ、さゆの芸風はぶれないのだろうか?

ブログを開く直前まで考えていたマーケティング理論が、その質問に答える恰好の道具になることに気付いた。

2010年11月7日日曜日

ジュンヤの服は、2年で飽きる。

私は2007年の春夏から2009年の春夏までの通算5シーズンに渡って、ジュンヤの服を買っていた。ジュンヤとは、正式にはジュンヤ・ワタナベ・コム・デ・ギャルソン・マンであり、コム・デ・ギャルソンの中の一つのブランドである。

ここでは詳述を避けるが、コム・デ・ギャルソンはいくつものブランドに分かれている。男性服にはコム・デ・ギャルソン・オム・プリュス(通称「プリュス」)、コム・デ・ギャルソン・オム(通称「オム」)、コム・デ・ギャルソン・オム・ドゥー(通称「オム・ドゥー」)、コム・デ・ギャルソン・シャツ、ジュンヤ・ワタナベ・コム・デ・ギャルソン・マン(通称「ジュンヤ」)というブランドがある。女性服は女性服で、色々と枝分かれしている。

要は、ジュンヤというのはコム・デ・ギャルソンの一種だっていうことだ。

なぜ私は、ジュンヤの服を買い続けていたかのか? それはおそらく、他ブランドとのコラボや、解体・再構築といった大胆な取り組みが生み出す最高にいかした服の数々、そしていつも新しいスタイルを提示してくれる革新性が好きだったからだ。

はっきり言って、ジュンヤの服は、とても高い。私の給料で身の丈に合っているかというと、間違いなく合っていないだろう。それでも戸惑いなく給料をつぎ込んでしまうくらい、大好きだった。

過去形で「好きだった」なんて言ってるけど、今でも好きは好きだ。でも、前のような情熱は持っていない。なぜか。それは、あることに気付いてしまったからだ。

2010年10月24日日曜日

道重さゆみはHIP HOPである。

モーニング娘。の道重さゆみさんは、一般的には「ぶりっ子」、「ナルシスト」、「毒舌」といった言葉で認知されている。

それら自体は間違いではないが、そこで止まっているようでは分析が甘すぎる。

かねてから思っていたが、道重さゆみさんはHIP HOPである。

いや、違う。歌唱力が低いから歌がラップのように聞こえると言っているわけではない(その点は2010/10/23のヤンタンでもネタになっていた)。それに最近では、彼女の歌唱はだんだん歌に近づいてきているではないか。

そういう意味じゃなく、私が言いたいのは、道重さゆみさんの芸風や姿勢が、HIP HOPを体現しているということだ。

2010年10月10日日曜日

日本におけるインド料理の「リアル」とは何か?

インド料理が大好きなあまり、インドに行ってしまった。私がインド料理をどれくらい好きかが、それで分かってもらえると思う。

しかし、インド料理が好きだというからには、インド料理が何なのかを知っている必要がある。「日本で私たちが好き(もしくは嫌い)だと言っているインド料理は、本物のインド料理なのか?」。これは対象を問わず、本場以外でそれを楽しむ人間が一度は向き合わざるを得ない種の問いだ。日本の真摯なラッパーたちが「HIP HOPとは何か」を神経質なまでに問い続けてきたように。

私の限られた経験から、日本にいる私たちが日本でインド料理を楽しむ上でインド料理の「リアル」をどう捉えればよいのか、今の考えを書いてみたいと思う。なお、「本物なんて存在しないのさ。あなたがインド料理と思ったものがインド料理なのさ、フッ」なんていう相対主義は、趣味ではないので捨てる。

もちろん、その土地に合ったカスタム化は、避けられないしある程度必要だと思う。でも、それはあくまで「リアル」という軸を意識した上でないといけない。

2010年9月28日火曜日

入場ゲートの目前まで行ったアイルランド対サウジ戦(2002年6月13日執筆)

ワールドカップ予選F組 アイルランド3-0サウジアラビア
(今回の文章は、試合の内容とはほとんど関係がありません。だから関連記事へのリンクも張りません)

アイルランドの試合を観たい!!

6月11日のサウジアラビア戦は、アイルランドにとって、予選リーグ突破のかかった、まさに大一番と呼ぶにふさわしい大事な試合だ。2点差以上で勝たなくては先がない。もちろん勝てる保証などないものの、相手を考えると、アイルランドファンの期待も高まる。(ご存知の通り、今回のサウジは、初戦でドイツに8-0という、目を覆いたくなるような点差で惨敗している。)

この、なぜか地上波で放送されない大事な試合を、どうしても生で観たい。そう思った私と友人 I 。というのも、私たちは、それまでのアイルランドの戦いぶりをテレビで観戦し、すっかり虜になってしまっていたのだ。絶対的な目玉となるようなスーパースターがいるわけでもなければ、派手なテクニックを見せるというわけでもない。しかし、その最後まで諦めない姿勢と、一丸となって結果を出す勝負強さは、特筆に値する。そのチームが決勝トーナメント進出を決める試合を、是非目に焼き付けたいものだ。

とにかく行ってみよう

私たちは午後7時に、新横浜で待ち合わせた。言うまでもなく、チケットなど持ち合わせていない。実のところ、直前に手に入る見込みすら、全くない。しかし、そんなことは、別にどうでもよかった。いや、どうでもよくはなかったが、それ位は覚悟している。直接試合が観られなくとも、「空気」が味わえればよいではないか。とにかく、行ってみよう。


(ステイディアムに向かうアイリッシュサポーターズ)

約束の時間から、遺憾ながら10分程度遅れて、新横浜駅の待ち合わせ場所に着いた私。すでに、そこから、会場となった横浜国際競技場への「順路」が出来ており、人が激しく入り組んでいる。その人の群れの中に入ると一目瞭然なのが、日本人の占める割合が、普段の新横浜では考えられないほど低い、ということだ。見るからにサウジ側のアラブ人、という服装の男性もいれば、全身を緑色の衣装で包んだ、明らかなアイルランドサポーターもいる。全体的には、圧倒的にアイルランドファンが多い印象だ。

一生に一度の経験  ~世界杯観戦記~ (3)(2002年7月9日執筆)

試合前の展望

我々が会場に到着し、席に着いたのが大体2時5分。3時半のキックオフまでは約1時間半を残している。この時点では、まだ観客はそれほど入っていない。私たちの席の周辺の、少なくとも半径5席分くらいの範囲にはまだ誰も座っていない。荷物を脇の席に置いて、ゆったりと腰をおろす。

改めて、このスタジアム全体を、ゆっくりと見渡す。それにしても、本当に客席からピッチが見やすい。私と I の表情は、だいぶ前から、ずっと緩みっぱなしだ。陸上トラックがあるのに、しかも我々の席は二階なのに、ほとんどその障害を感じさせない。客席が急な角度で作られているからだ。さすが、サッカーが盛んな土地柄なだけある。スタジアムが、「サッカーを観るために」造られている。客席からサッカーが観やすいかどうか。私にとってこれは、いい競技場と悪い競技場とを分ける唯一の基準である。(この点では、私の地元の横浜国際競技場など、全くお話にならない。情けない限りだ。そのうち詳しく書くつもりです。)


(少しずつ、席が埋まり始める)

まだまだ時間があるので、順番に席を離れ、ビールを買って来た。私はビールは普段飲まないし、実のところ苦手なのだが、一口飲んでみると、どういうわけかこれがうまい。「ここまでの道のりを歩いてきたからだよ、」と I。よく、身体を動かしてから飲むとビールはうまいというが、本当にその通りなんだな、と実感。ところが、そう安心して飲んでいると、二口目、三口目、と続くにつれ、徐々に飲むのがきつくなっていった。もう、最後の一口などは、半ば強引に喉の奥に流し込んだ。結局、ビールはまずかった。

ビールはまずかったが、それが私の試合に対する期待を薄くすることはなかった。おそらく(予選リーグ同組の)日本は決勝トーナメント進出を決めるだろう。問題は、残る一つの枠に、ロシアとベルギーの、どちらが入り込むことができるかだ。今日の90分が、この、両国にとっては切実な問いに答えを出すのだ。白熱した試合になるのは間違いない。負けた方にとっては、この試合が2002年日韓ワールドカップにおける、最後の試合になるからだ。熱い試合になることは保証されているようなものだ。

一生に一度の経験  ~世界杯観戦記~ (2)(2002年6月30日執筆)

ゆず醤油と「めんてい」問題

「めん邸」に入り、テーブル席に腰を下ろす私と I。メニューを見て、注文を決める。私は、チャーシュー麺の大盛りにしようという決断を、あえて直前で曲げて、醤油ラーメンのBセット(ラーメン+餃子)を頼む意思を固める。I は、「ゆず醤油ラーメン」という奇抜なメニューに一旦はひかれるものの、当然ながら嫌な予感がしたらしく、無難な、ラーメンのAセット(ラーメン+餃子+半ライス)にすると宣言。

店員が、注文を取りに来る。この店は夫婦でやっているらしく、見た限りでは、調理する夫と注文を取って運ぶ妻、という分業構図が出来ていると推測する。その女性店員に、注文内容を告示する。すると、ちょっとした異変が起きた。ちょうど、私の頼んだBセットのチャーハンを作ったところで、ご飯がなくなるため、I の注文は受け付けられないらしいのである。オーダーの変更を余儀なくされた I は、何か運命じみたものを感じたのであろう、諦めたような表情で、「ゆず醤油ラーメン」とつぶやいた。

「神様が俺に怒ってるんだ」、自分に言い聞かせるかのように I が言う。「いつものお前ならゆずに挑戦するだろう。どうした、お前らしくないぞ、とね」

注文の料理が届く。ラーメンのスープは、おそらくかつおだしで、あっさりしている。麺は、メニューに細めんと書いてあったので、細めんなのだろう。チャーシューがたしか二枚入っていた。味はというと、そこそこうまいというのが私の感想だ。一応、全てを食べ切るに値する味だ。チャーハンの方は、パラパラ感が足りなく、不満が残る。ただ、全体としてはそれほど不満は残らない(評価:7)。

ところが、どうも I の様子がおかしい。というのも、彼は食事中、一貫して苦笑いの表情を崩さないのである。私が麺をすすっている間にも、スープを飲んでいる間にも、空になりかけたグラスに冷水を注ぎ足している間にも、Ⅰの口元から冴えない微笑が絶えることはないのだ。見ている限り、あまり食が進んでいないようにも見える。そして、ちらちらと私に視線を向けている。

一生に一度の経験  ~世界杯観戦記~ (1)(2002年6月17日執筆)

忘れられない経験

この日のことは、おそらく一生忘れることはない。2002年、6月14日――多くの人はこの日を、「日本が初めてワールドカップで決勝トーナメント進出を決めた日」と記憶するだろう。当然ながら、それは私も例外ではない。日本にとって、W杯でのベスト16進出はかねてからの悲願だったからである。もちろんそれが嬉しいのは言うまでもない。ただ、私はその快挙が成し遂げられたのと全く同じ時間帯に、その事実よりも忘れがたい、2度と訪れないかもしれない経験を得たのである。

日本サッカーの歴史を再び塗り替えた、日本対チュニジア戦。その試合の真裏の時間(15:30開始)に、静岡エコパスタジアムにて、日本と同じH組のベルギーとロシアによる、予選突破をかけた大一番が行われていた。私は、実に幸運なことに、友人 I の尽力と好意により、この戦いを、現場に行って目に焼き付けることが出来たのだ。

サッカーの試合を、実際にその会場に行って生で観る感覚は、TVの画面を通して、「番組」としての試合を観る感覚とは、全く次元が違う。ボールを蹴る音、選手が叫ぶ声が聞こえてくる迫力。今、まさに目の前で二つのチームが戦っているという臨場感。何と言っても最高なのが、観客の声援が選手をゆり動かし、ピッチと客席との温度差がなくなった時――その中に自分もいる、という何とも言えない一体感。どれも、ブラウン管の前では決して味わえないが、それらこそがこの球技を観戦する醍醐味である。

その醍醐味を、ワールドカップの試合で味わってみたいというのは、サッカーファンなら誰もが抱く願望である。ただ、サッカーファンのみならず、この4年間、サッカーのサの字も口にしてこなかったような人たちまで、この時期ばかりは、どういうわけか必死にチケットを手に入れようとするため、チケットを取るのは極めて難しい。実際に、自分がワールドカップを生で観ることになるとは、全く思ってもみなかった。日本で開催されるとは言え、チケットを取る、ということ自体が想像できなかった。

しかしⅠの情熱が、願望を現実に変えたのである。彼は、睡眠時間を削って、インターネット上の直前販売システムでベルギー対ロシアのチケットを手に入れることに成功した。あの、うさんくさい、劣悪な、いんちきチケット業者によって運営されている、貧弱なサーヴァーの元に置かれたふざけたウェブサイト上の、ろくに機能していない愚劣なシステムで手に入れたのだから、彼の努力は賞賛に値する。彼の熱意が、一生に一度の経験を生んだのである。

2010年8月2日月曜日

ソウル見聞録 (6)(2003年5月11日執筆)

ナンタとは

さて、劇場に入る前に、基本的な質問。そもそもナンタとはなんだ? パンフレット(日本語版)に説明してもらう。
1997年の初公演以来、客席の平均占有率110%という記録を打ち立ててきた "NANTA" はサムルノリのリズム(Korean Traditional Rhythm and Beat)を素材にドラマ化した作品として韓国初の Non-Verbal Performance (非言語劇)です。(COOKIN' NANTA 日本語パンフレット)

少々日本語が不自然なのはご愛嬌。では、具体的にはどういう内容なのだろうか。再び、パンフレットから。
韓国のサムルノリを西洋の演劇様式に取り入れたこの作品は、大型厨房を舞台にして4人の料理師が登場し、結婚披露宴のための料理を作る家庭で各種の厨房器具(なべ、フライパン、皿など)を持ってサムルノリを演奏するという内容で構成されています。(同前)
ということだ。

料理長の誕生日

劇場に入る。収容人数は、まあざっと見て300人くらいだろうか。自分達の席は後方にあり、ほぼ真ん中だがやや左寄りの位置だ。

後ろの方の席なのが不満だが、Yによると、むしろこの方が都合がいいという。というのも、前の方に座っていると、ステージに上げられて劇に参加させられるらしいのだ。YやFが数百人の観客の前でリズムに合わせて体を揺らすだなんて、想像するだけで顔を覆いたくなる。

劇の開始(午後4時半)の前に、ステージに幕が出てきて、日・英・中・韓の4ヶ国語の文章が映し出された。内容は、客への挨拶や、簡単なあらすじの説明だ。小音量の軽快な背景音楽に乗せて、文が切り替わっていく。何回か、客にリズムに合わせて手を叩かせる場面もある。

要は、客の温度を上げておくための演出だろう。私が一番それを感じたのは、今日は料理長の誕生日だ、という意味の文が出てきたあたりである。単に誕生日だと指摘するにとどまらず、図々しくも、客に祝福の歌を歌えと言ってくるのだ。

そんなこと言われても、ねえ。私としては「はあ、そうなんですか・・・」と鈍い返事を返すのみである。急に歌えと言われても困惑する。よって、黙殺する。実際、殆どの人が歌っていない。観客の大半が日本人のため、そのような欧米的なノリにはついていけなかったからだと見た。

ソウル見聞録 (5)(2003年3月30日執筆)

プルコギバーガー

8時に携帯のアラームが鳴り出した。私たちが起き出したのは50分くらいで、部屋を出たときには9時半になっていた。

朝ご飯は、江辺駅近くのロッテリアで食べることにした。ガイドブックか何かに、「韓国に来たからにはファストフードなどではなく、地元の料理を食べよう」といった趣旨のことが書いてあった。確かにそれは正論だ。なぜならファストフードの味やサービスは国によってほとんど変わらないからである。

ただ、そうは言っても、もう入店してしまった。せめて何らかの韓国の独自性を感じさせるものを頼んでみたい。メニューを見ると、プルコギバーガーというのが目に入る。(「プルコギバーガー」と分かったのは、ハングルの脇にアルファベットで書いてあったからである。)

3人とも、そのプルコギバーガーのセットを頼むことにした。これには、3人が別々のものを頼むと、Fにまとめて注文をさせづらいから、という隠された理由がある。

例によって、Yと私はFが注文するのを脇で興味深く観察させてもらう。Fの朝鮮語の使いっぷりはかなり怪しいが、指差しと店員(女性、推定22)の察しによって何とか通じている。


(プルコギバーガーセット)

店員はフレンチフライ(米国の一部では「フリーダムフライ」)を付けずに出そうとしたが、直前で気付き付け足した。「あ、忘れた、ごめんなさい」という感じで何か言ったのが朝鮮語なのを考えると、我々を韓国人と思ってくれているようだ。

飲み物は選べない仕組みで、有無を言わせずコーラが出てきた。レジ近くにこの炭酸飲料が「入れ置き」してある。

ソウル見聞録 (4)(2003年3月25日執筆)

CoEX Mall

次に向かうのは「CoEX Mall」という、様々な店が入った高層ビル(skyscraper)だ。様々な店舗に加え、映画館なども入っているという。ここに来るのは昨日の夜から決めていた。ガイドブックで見て興味を持ったからである。

明洞から20分くらいだろうか、乙支路3街(ウルチサムガ)駅を経由して、三成駅に到着。電車を出て地上へと進んでいると、ソニーのデジカメ、「Cybershot」の宣伝広告が、壁の至る所に貼ってある。それ以外の広告はないと言っていいほどのサイバーショット尽くしだ。

駅を出た瞬間から人通りが多い。実際、駅前には店が建ち並んでいる。そして、100メートルほど先には、探すまでもなく、目的地とおぼしき巨大な近代的建築物が見えている。

その手前に2002年ワールドカップのグッズ店があるので、まずはそこに入る。公式グッズが色々と置いてある。しかし、私が欲しかったユニフォーム類は全くない。アン・ジョン・ファンの人形が興味を惹くが、本人とあまり似ていないのが問題だ。結局、3人とも何も購入せず。

ソウル見聞録 (3)(2003年3月14日執筆)

電車

車両に乗り込む。好奇心から中の様子を観察してみる。だが、日本の電車内と呆れるほど似ており、特筆すべき相違点はほとんど見つからない。

Fが持参してきたガイドブック、「地球の歩き方」に、大韓民国は儒教の国だから、年配者に席を譲る習慣が徹底していると書いてあった。しかも驚くことに、譲る相手は、単に年配者のみならず、「自分より目上の人」全体に当てはまるという。さらに驚くことに、混雑している時には、席に腰掛けている人が、前に立っている人の荷物を持つことがあるという。

実際に乗ってみた感触としては、さすがにそこまでは行かないのでは、と感じた。確かに、明らかに譲るべきだと思える状況や、シルバーシートではきちんと譲っている。だが、座っている人が、常に前に立つ乗客の顔色を窺い、自分より年齢が上かどうかを検証しているようには見えない。座席を占有している乗客が他の人の荷物を持つ光景も目撃しなかった。

気付いた日本との違いを挙げるとすれば、それは携帯電話で通話している人が多い、ということである。本人達に悪びれている様子はなく、周りの人たちも気にする素振りは見せていない。それらから判断するに、どうやら南朝鮮の電車内では、携帯電話で通話することは禁止されていないようだ。私達の乗っている1車両の中で、同時に4人くらいが話していることもあった。

日本では、禁止されていようといなかろうと、電車の中で携帯メイルを打つ人が多い。しかし韓国では違う。この国で、携帯で電子郵便(e-mail)を打ち込んでいる人は、旅行全体を通して1人くらいしか見なかった(実際はもっといたのかも知れないが、いずれにせよほとんど目にしなかった)。Yの話によると、こちらではコンピュータの普及率が高いため、携帯で電子手紙を書く人が少ないという。

ソウル見聞録 (2)(2003年3月4日執筆)

ホテル外を歩く

ジャージに着替えて外に出る。言い忘れたが、冬の韓国の気温は日本より低い。旅行前にヤフーの旅行情報ペイジで調べていたのだが、確か今日は最高が6度、最低が0度。ただ先ほどまで一緒だったガイドさんによると、最も寒い時にはこんなものではないらしい。まあそれでも結構な寒さなわけで、ジャージ1枚で出たのは失敗だった。

適当に、ぶらりとホテル周囲を散策してみる。コンビニがある。しかも日本のコンビニだ。店名の所がハングルになっているが、明らかにこれはセブン・イレブンだ。ファミリーマートもある。探すまでもないくらい、焼肉屋が林立している。宿舎からの客を狙っているのか、食い物屋が多い。安全上の理由から、あまり裏道に深入りするのは止めておいた。


(ファミリーマート)

外の冷気に身をさらしていると、だいぶ気持ち悪さが解消されてきた。30分ほど前には飯を食うなどもっての他、「行くなら俺を置いて2人で行ってくれ」と言っていたが、何とか「食うんなら付き合ってもいいよ」と言えるくらいには復調してきた。

食欲旺盛なYの推進により、結局、今夜は夕食を食べることにした。やはり、南朝鮮に来たからには焼肉がいい。ホテルの向かい側の店を指差し、「あそこにしよう」とY。

ソウル見聞録 (1)(2003年3月1日執筆)

南朝鮮旅行

あっという間にこの日が来てしまった。今日は2月23日。午前9時14分、横浜駅の緑の窓口に一番乗りした私は、使い慣れない車輪付きのカバンを地面に置き、ほっとため息をついた。それは安堵のため息だった。まず、待ち合わせの時間に間に合ったという安堵。そして何より、この旅行自体が実行できるという安堵。前々から、アメリカのイラク攻撃の時期と重なってしまうのではないかと危惧していた。だが報道を追う限り、3月にずれ込みそうだ。

とは言っても、私は別にイラクに行くわけではない。そんな危なっかしいことをするわけがない。「人間の盾」とかいう運動の活動家でもあるまいし。目指すのは大韓民国。デモクラシー(民主政権)の方の朝鮮だ。3泊4日の予定。友人2人とともに。

なぜ韓国へ? 正直なところ、そんなに深い理由はない。春休みに海外に行きたい。しかもなるべく安く行きたい。なら台湾か南朝鮮だ。そこから先は何となく韓国に決まった。もちろん、ただ海外で旅費が安いというだけでここに決めたわけではない。ぼんやりとした興味はある。何となく訪れてみたいと思っていたのは確かだ。

成田へ

待ち合わせは20分。14分にY、18分か19分にFが現れ、参加者の3人が揃った。参加が予定されていたKは諸般の事情により参加を見送った。38分発の電車に乗り成田に向かうことになっている。

2010年8月1日日曜日

とりあえず行ってみた香港・マカオ、その記録(9)(2004年12月24日執筆)

もうやる気がない

明日の朝帰国するため、今日が実質最終日だ。しかし、もはや俺たちから、観光する意欲はほとんど消え去っていた。もう疲れた。

携帯のアラームは鳴ったはずだが、どうやら俺が無意識に止めていたらしい。記憶にないがおそらくそうなのだろう。起きたら10時45分だった。さあ、今日は何をしようか、という感じではない。むしろ、ああ、まだ一日あったのか、というのが私たちの内なる声に近かった。

しぶしぶ起き上がり、嫌々ながら着替えて顔を洗い、部屋を出た。11時半くらいだった。

例によって、今日も最初の食事が昼飯だ。電車で金鐘駅に行き、駅近くにあるPacific placeという買い物処に入った。その中に、数百人が座れる椅子とテーブルがあって、それを取り囲むように色々な食い物屋がある場所がある。

しかし、ちょうど一番混む時間なのだろう、人で溢れていて、座れる場所がない。ここで食べるのはあっさり諦め、建物を出た。やけに活気があると思ったら、そういえば今日は日曜日か。

とりあえず行ってみた香港・マカオ、その記録(8)(2004年11月24日執筆)

快適なスピードで

警備員さんの言葉にしたがって、A1系統の止まるバス停まで歩いた。ドッグレース場のすぐ前がバス通りなので、特に迷うことはなかった。ベンチに貼り付けてある路線図を見ると、たしかに先ほど教えてもらった目的地にA1のバスは行くようだ。

ただ、ここで安心してベンチに座っているわけにはいかない。というのも、停留所とはいえ、こちらから積極的に乗る意思を示さないかぎりバスは止まってくれない。何台かA1以外のバスが、まったく減速せず俺らの前を通り過ぎていった。運転手によってはブレーキを踏んで様子を見ていたが。とにかく止まってくれるかはこっち次第のようだ。

道に半身を乗り出す感じで、向こうからバスが来ないか、そして来たらそれがどの系統なのか、判断しなくてはいけない。A1ならばすぐに手を振るなりして運転手に気付かせないといけない。数秒間躊躇したら、容赦なくバスは通過してしまう。さらに午後10時で薄暗く、光情報が限られている。目がよくない(のに裸眼で生活している)俺は諦め、何とか見えるらしいパンダに任せた。


レース会場の外

バス停に着いて10分くらいだっただろうか、パンダがバスが来ているのに気付いた。そして車道に一歩踏み出し、手を大きく振った。いかにも乗ります、という感じで。

ところが、その身振りは完全に放置された。バスは停留所側に幅を寄せる気配すらまったく見せないまま、快適なスピードで正面突破をすることに成功した。

とりあえず行ってみた香港・マカオ、その記録(7)(2004年10月9日執筆)

マカオタワー

今歩いているのは、最初にバスで来たセナド広場に戻るためだ。一旦戻り、そこから再びどこかに向かうのだ。あそこは前述したように国のちょうど真ん中ら辺だから行動するときの「ベースキャンプ」になる。観光案内所みたいなのもあったはずだ。

パンダと微妙な距離を保ったまま歩いていると、徐々に人通りが多くなってきた。広場に近づくにつれ、ちょっと前に通ったところでは考えられないような、近代的な店(デジタル家電を扱う店など)も増えてきた。

広場内の地図を手がかりに観光案内所があるはずのところに行ったが、どうも見つからない。おかしいと思っていたら、潰れていた。入り口の看板にに"for rent"と書かれていて、シャッターが下りていた。やはりここは観光地ではない。


セナド広場に戻る途中


あれがマカオタワー

ただ、案内所がなくても行きたい場所は俺らの頭にあった。マカオタワーだ。タクシーを拾おうと道に出たが、どうもあまりタクシーが通るところではないらしく、なかなか拾えなくて諦めた。

地図上で位置は分かるし、パンダによると大体1.5キロくらいなので、歩くことにした。

1.5キロの徒歩とだけ言うと大したことではないように思えるが、決して楽な道のりではなかった。今まで散々嘆いてきたこの気候の中での移動を通して、俺はだいぶ疲れていた。

とりあえず行ってみた香港・マカオ、その記録(6)(2004年9月18日執筆)

とにかく飯

駅を出た俺らにとっての差し当たっての目的は、一つしかない。昼飯を食う場所を探すことだ。宿舎を出るのが遅かったため、まだ何も食っていないというのに昼の1時が近い。

正確に言うと、探すというよりは「見つける」ことだ。というのも、電車の中でガイドブックを見て、行きたい場所を決めていたからだ。

それは、ファミレス感覚で入れるという、フランチャイズ展開している中華料理屋だ。ガイドブックの写真を見たイメージだと、日本でいうバーミヤンみたいなもんなんだろうと思う。

しかし、近いところまで来たはずなんだが、どうも店を見つけることができなくて立ち往生。すると、いきなりパンダが地図を片手に何かの店に突撃し、店員さんに道を聞いてきた。「向こうだ」と、爽やかな笑顔で指差すパンダ。俺はちょっと驚いた。こいつは単身で海外に行ったこともあるのだが、そういう経験の中で、こういう思い切りのよさ、勇気を身に付けたのだろうか、と感心する。言葉が分からないのに。

どうやら、パンダ野郎が得てきた情報によると、店は俺らがついさっき通り過ぎたところあったらしい。そして、数十秒歩くと、あったあった。何で見落としていたんだ。

とりあえず行ってみた香港・マカオ、その記録(5)(2004年8月16日執筆。22歳の誕生日)

料理を待っていると、地元の女性客(40くらい?)が一人で来店して、俺らの座っているテーブルに案内された。何なら店員と、知り合い同士のような手馴れた感じでいくつか会話をかわし、注文した。

すると今度は50くらいのおじさんがこれまた一人で来て、またも俺らのテーブルに座った。どうやらこちらでは相席が当たり前のようだ。俺は隣の椅子に置いていたかばんを床に降ろす。おじさんの方は別のもっといい席が空いたので、そっちに移動した。

いよいよラーメンが来た。「いよいよ」と言うくらい期待していたわけだが、目の前に運ばれてきたそれを見て拍子抜けした。「ん?」という感じ。何がって、その大きさだ。ボウルの直径がせいぜい12-3センチくらいしかない。


期待したわりには・・・

具はもちろん海老ワンタンが3つか4つ入っているが、麺の中に埋没していて、見ただけでは麺とスープしか入っていないように見える。つまり見かけも貧相だ。日本でラーメンというと、ラーメン博物館の「ミニサイズ」でもないかぎり容器のサイズは直径でこの倍くらいはあるし、種類にもよるけど何種類かは具が入っていて、見かけの時点でうまく見せるように工夫している。それに対して、今俺らが食そうとしているラーメンは、「食ってくれ」というオーラをまったく発していない。少なくとも、俺にはそう見える。

味も何というか、驚きも発見もない。麺は硬く、噛み切るのが難しい。口の中で麺を揃えて、ハサミで切るようにしっかり切り目を入れないと、食うときの区切りを付けることができない。スープにはあまりコクとか深みはない。海老ワンタンはさすがにうまいと思った。でも日本でいう「ラーメン」を少しでもイメージして行くと肩透かしを食らう。

とりあえず行ってみた香港・マカオ、その記録(4)(2004年8月3日執筆)

半裸

船に乗る時点で既に目的地が見えていただけあって、時間はあまりかからなかった。10分ほどで到着。

あ、そう言えば、再三再四に渡って暑いと言っているけど、それを示すいい例を思い出した。それは、たまに上半身裸で歩いている男がいるということ。船の乗り場付近にもいた。(3)の最後の写真の、下部の真ん中にも、よく見ると半裸の男が写っている。よーく見ないと分からないよ。


船から


到着。港

日本でいくら暑くても、海岸でもない限り乳首丸出し野郎の目撃者になることはそうそうないでしょ。もちろんここでもそこらじゅうにそういう人がいるわけでもないけど、いても結構自然な感じ。自然というか、仕方ないよな、という感じ。

さて、話を戻すと、着いたわけだ。九竜島に。港を出ると「駅前」という風情で、店が集中している。

道端に座り込んで何かを売っているおばさんが客と何やら大きな声でしゃべっている。人々が自分が分からない言葉を当たり前のこととして使っているのを見ると、外国に来たことを実感する。

とりあえず行ってみた香港・マカオ、その記録(3)(2004年7月17日執筆)

よく「歩いているだけで汗が噴き出てくる」という表現を聞くが、今俺が経験しているのがまさしくそれである。

いや、その表現だけでは不十分かもしれない。今、日本で7月16日にこれを書いている。俺は今日の昼間は何もしなくても汗をかいたが、それでも香港に比べると快適だった。何かが違う。おそらくそれは湿度だ。太陽光線に蒸されていると、顔も否応なしにしかめ気味になってしまう。

暑さの中に、爽やかさが微塵もない。暑いというより熱い。暑さというよりは「熱気」。


押す=「推」


ワタミ

駅へ

駅ビルを抜けて、駅へ向かう。

宿舎近くのコンビニがセブン・イレブンだったのは前に書いた通りだ。コンビニが日本資本なのは韓国でも体験済みだったので特に驚きはしなかったが、意外なところに見覚えのある店を見つけた。「ワタミ」だ。

日本でワタミというと、カネのない奴ら御用達の、敷居の低い、上品とは言えない、ファミレスのような感覚の居酒屋だ。だが、パンダ野郎によると、香港では、むしろ裕福な人々の支持を集めているという。

とりあえず行ってみた香港・マカオ、その記録(2)(2004年7月9日執筆)

パンダホテル

バスに乗っている30分くらいの間、ガイドのおじさんが乗客の日本人たちに、日本語でトークを展開し、色々な情報を提供してくれた。日本語自体は、注意して聞き取らないと意味は汲めないことも多かったが、内容は聞くに値した。たとえば、こんなことを言っていた:

・香港ドルと日本円の交換レートは、旅行会社とバスの中で両替すると、1香港ドルが14.8円。銀行だと14.5円。ホテルだと15円だが手数料がかかる。うちで両替してくれ。

・治安的には、男性がいれば安心。女性だけでも二、三人いれば大丈夫だが、一人だと危ない。ただ、一般的には、香港は安全な場所だからあまり心配はしないで欲しい。

・観光客を騙す手口として、お釣りを渡すときに、札束の中に中国元を紛れ込ませる、というのがある。気を付けてくれ。こういうのは小さな店に多い。大きなところに行けば、そんな詐欺には会わない。

・香港名物の一つに、ワンタンメンがある。ワンタンの具の中の、海老の比率が高ければ高いほど、値段が高くなる。海老対豚が3対7の場合、11ドル。5対5の場合、18ドル。そして100パーセント海老の場合、35ドル。(数字はもちろんたとえだろう。)店によってワンタンメンの値段は違うが、それは必ずしも料理の質の違いを意味しない。海老をどれだけ使っているかの指標と思ってくれ。

ホテルに着く間際に、しゃべり終えたガイドさんが前から席を巡回して、希望者との両替に応じた。俺もパンダ野郎も、3万円分、通貨を交換した。つまり、450ドルを少し切るくらいの金額を手にした。これがこの滞在での軍資金だ。

バスが宿舎前で停車したときには、既に夜の11時過ぎだった。ホテルに入っても、すぐには部屋には入れなかった。色々と、ガイドの面倒な説明を聞いたり、紙に自分たちの名前と日本での住所を書かされたり、そして最終日のロビーでの待ち合わせ時間などを伝えられたりした後、ようやく自由になった。

部屋は19階。1919号室だ。(*この番号に関して、パンダ野郎が小学生並みの下ネタを口から放って俺を絶句させたことについては、このページの品格を落とすため、あえて記述するのは避ける。)とりあえず、無事にここまでたどり着けたことに安堵。長旅を経て宿舎の部屋に入ったときの安らぎは、何とも言えないものがある。

とりあえず行ってみた香港・マカオ、その記録(1)(2004年7月2日執筆)

6月17日、衝動

集合時間が遅かったので、寝坊の心配はなかった。旅行会社から渡された紙には、成田空港に夕方の4時半集合と書いてある。飛行機が成田を発つのはその2時間後だそうだ。拍子抜けする。というのも、「うっかり遅れでもしたら・・・」という重圧を味わいながら、気を引き締めて早めに床に就く、という、旅行前にありがちな、修学旅行前夜の小学生的な心境に浸ろうにも浸れないからである。

気合の入らない集合時間だが、気合が入らないと言えば、この旅を決行するに至る経緯も適当だった。いや、適当じゃないな。そうじゃないけど、やたらあっさりしていた。

大体、行くことに決めたのが、一週間ちょっと前だ。それも、前から綿密に計画を練った形跡はない。

言い遅れた。俺は香港に行くんだ。もっとも、それは既にこのページのタイトルが明らかにしているのだが、それを言ったら元も子もない。

日程は、4泊5日。香港に行くついでに、マカオにも寄るつもりだ。で、それらの土地を訪れようと思った理由。俺は来年に就職することを決めてから、学生時代にふんだんに使える自由な時間の貴重さに改めて気付いた。暇な間に、色々な文章を読んで、色々な音楽を聴いて、色々な場所を訪れて、何というか、自分の感性を磨いて、世界を広げておきたい、と真面目に考えるようになった。香港(とマカオ)という、特定の場所を選んだのには、安くいけるから(4泊の宿泊代+飛行機代で4万円以下!)、そして香港は英語が通じそうだから、という浅いにもほどがある理由がある。

でも、どこに行くかは、あまり大事ではなかった。とにかく、何かがやりたかった。すぐにでも、どこかに行きたかった。俺を動かしたのは、その衝動だった。

2010年7月4日日曜日

2010年2月5~15日インド旅行記 (12) 完結!

フェロスは「分かった」と俺の1500ルピーを受け取り、階段を降りる(フェロスの家は3階)。ついていく俺。


(バイクでヘルメット着用してる人は少数派)

時折通るリクシャや乗用車に神経を使いながらフェロスの後を付いていく。俺が見た中ではインドの道には歩道や車道といった概念はない。数分歩いたところの店に入ると、フェロスは店員にあれこれ聞きながら店内を回り、手際よく様々な商品を手に取っていく。

見たところ、かなり色んなものを買っているようだが、予算的に大丈夫なのだろうか? もう俺には帰りのタクシー代しか残ってないよ。

買い物はフェロスが独断で商品を選んでくれているし、店内で立ち止まって他の客の邪魔にもなりたくないので、買い物は彼に任せて店の外で待機。


(待機中に撮影。店の外)


(米を売ってる)

びっくりしたのが、フェロスの家からここまでの道のりもそうだし、店の中でも外でもそうなんだけど、誰も客引きしてこないし話しかけてもこないこと。今までの経験だと、店が軒を連ねる地区では金持ちな(と彼らが思っている)外国からの観光客を見るなり必死で食らいついてくるのが普通だ。そういうのがないってことは、ここは本当に外国人が来ない、地元民の市場なんだな。

フェロスが会計を済ませている。かなり買ってるみたいだ。本当に渡した金で足りてるのかな?

2010年6月27日日曜日

2010年2月5~15日インド旅行記 (11)

そのまま部屋でまったりゆっくりと時間を過ごす。

にしても、ホテル・アルカの部屋の清潔さと絶妙な空調は、本当に居心地がいい。この旅で初めて、まともに心を落ち着かせる場にたどり着いた気がする。

何よりありがたいのが、シャワー。それなりの勢いをもった、ちゃんと温かいお湯が、継続的に出てくる! しかもバスタブがある。白いピカピカな。声をあげて感激。備え付けの液体石鹸とシャンプーで旅の疲れと汚れを洗い落とす。

そのまままったりゆっくりベッドに横になり、旅行記をノートに付けたり、色んな感慨に浸ったりしつつ時間を過ごし、インド滞在の実質的な最終日となる明日に備えて、就寝。

(9/11日目、終了)

十日目

今日の夕方の飛行機で、インドを発つ。そして明日の早朝に成田に戻る予定だ。つまり、今日はインドで過ごす最後の日だ。

そんな最終日の予定。それは、二日目に家に招いてもらい、晩ご飯をごちそうしてくれたインド人の家族と、再会を果たすことだ。

俺は、信じている。約束したように、彼らは、コンノート・プレイスのマクドナルド前で俺のことを待ってくれているはずだ。

昨日は俺の勝手な都合で待ち合わせ場所に行くことはできなかったが、約束したように、今日も待ってくれているはずだ。

ホテルをチェック・アウト。午後4時半にタクシーを手配してもらう。カバンはホテルで預かってもらい、タクシーの時刻になったらまたここに戻ってきて、そこから空港に送ってもらうということで話をつける。

2010年6月20日日曜日

2010年2月5~15日インド旅行記 (10)

地図で大体の位置を確認し、いざ紅茶屋Premierへ。

1分くらい歩くと、地元民が声をかけてくる。

地元民「こんにちは」
俺「こんにちは」
地元民「ここはPブロックだ(コンノート・プレイスは区域ごとにアルファベットが付けられている)」
俺「うん」
地元民「どうした、どこに行きたいんだ」

まともそうな人なので、「歩き方」の地図を見せて「ここに行きたいんだ」と伝える。

俺「紅茶屋のPremierに行きたいんだ」
地元民「おー、Premierか。あそこはいいぞ」
俺「知ってるんだ?」
地元民「俺もたまに買いに行く店だ。案内するから付いてこい」
俺「いいのか?」
地元民「ちょうど俺も通り道だからさ。俺、さっきマクドナルドで昼ご飯食べてて、これから家に戻るところなんだ」

道すがら、地元の人に3000ドル出せと脅された話をしてみると、彼は信じられないとばかりに顔をしかめて横に振る。

地元民「いくら裕福な国の人でも、何千ドルも稼ぐにはハード・ワークが必要なんだ。そんな金をポンと出すわけがない。彼ら(詐欺師たち)は教育を受けてないからそれを理解する頭がないんだ。豊かな国の人に金を出せと言えば簡単にお金をくれると思ってるんだ」
俺「そうだそうだ!」

いかれ気味の国で稀に聞く正論に興奮していると、店に到着。案内してくれた地元民に感謝を伝え、握手を交わし別れる。チップはもちろん要求してこない。

2010年5月29日土曜日

2010年2月5~15日インド旅行記 (9)

八日目

インドに来るのはこれで三回目なのだが、もう当分いいかも。これで最後でも思い残すことはあまりない。まあ、そう言いつつまた来そうな気はするけど。

上のオフィスに行って、バスの切符を受け取る。

マサラ・チャイのスモール・ポット(コップ3杯分)とハニー・トーストを注文し、部屋に持ってきてもらう。

昨日インド人に粉ミルクを買わされた店で強引にお釣り代わりに押しつけられたビスケットをほおばる。ん、意外とうまいじゃねえかよ。二枚の円形ビスケットにオレンジ味のクリームがはさまれている。

そんな感じで、適当に食べたり飲んだりしつつ(まだ本格的に物が食える状態じゃないが)ベッドで横になる。

そのまま午後5時くらいまで休息。

チェック・アウト。受付の机には、各国からの旅行者が書いた感謝状が飾ってある。ニュージーランドの女性が書いた「とにかくすべてが最高で、予定より長く滞在しちゃった。このホテルを運営している兄弟は最高よ」的なべた褒めが目に留まる。なぜなら俺は昔ニュージーランドに住んでいたから。

ホテルマン「カシミール地方のツアーもやってるから今度インドに来るときは参加してくれ」
俺「そうだな」

午後5時くらいまで部屋でまったり。鍵を受付に戻して、いざバス乗り場へ。

いよいよこの旅も、終わりが近づいてきたな。まだ終わっちゃいないが、軽い達成感みたいなのが沸いてくる。

2010年5月17日月曜日

【最後に~参考文献】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立

最後に(*117)

*117 この終章を「結論」ではなく「最後に」にしたのには意味がある。日本では多数派とは言わないまでも多くの人々が、最後の章の役割が、論文で最も重要な主張を明らかにすることだと考えている。しかしそれは間違いである。これはおそらく、「conclusion」の誤訳から来るものだと筆者は考えている。ほとんどの人は、この単語を「結論」、すなわち最終的な主張、と捉えている。この考え方からすれば、最後の章ではじめて論文の骨子、主張が明らかにされるのだ。実際、後述する共同発表会でも、その勘違いによるものかは不明だが「肝心の結論が聞きたかった」というような感想を受けた。しかし、conclusionという言葉には「結論」という意味と、「最後の締め」という意味がある。論文の最後の章にあてられるconclusionは、普通、後者の意味である。その証拠に、アメリカで出版された、論文の書き方に関する本やウェブサイトを読むと、conclusionの章で行うべきは、本論の簡単な要約をした上で、その議論の意味合いを探ったり発展させたりすることだ、と書いてある。そこではじめて主張を示せ、という助言は聞いたことがない(たとえばVan Evaraを参照)。論文の主張は「はじめに」で明らかにし、本論で証明するのだ。最後の章は本論を軽く振り返った上で、議論を補足したり発展させたりするのが基本だ。なお、これを読まれている学生がいれば、論文やレポートの書き方についてはCohenほかを推薦する。また卒業論文の書き方についてはStudents Helping Studentsも参考になった。

本稿で筆者は、多文化主義論争におけるアメリカ政治思想の対立を「自由主義 vs. 多文化主義」に求めた。誤解して欲しくないのは、このモデルはあくまで多文化主義をめぐる思想的対立の描写であってそれ以外ではないという点だ。本稿の主張は、アメリカの保守主義が自由主義と同じだということでもなければ、自由主義と多文化主義が対立するということでもない。筆者が論証しようとしたのは、「自由主義 vs. 多文化主義」というモデルが、多文化主義をめぐる保守とリベラルの対決を説明する上で有効な切り口だということだ。

この「最後に」では、主に本稿を完成する以前に受けた批判に答えることを通じて本論の補足や発展を図りたい。本論を読まれた読者の中には、内容について色々と批判的な見方をされている人もいるかもしれない。また、まず論文や本の最初と最後を読む習慣の方でも、既に首を傾げている方がいるかもしれない。幸いにも筆者は、現段階でいくつかの批判に答える機会に恵まれている。

筆者は本稿の内容について、いくつかの研究会共同での発表会で発表を行った。質疑応答の時間と、終了後に提出する仕組みの「フィードバック・シート」で、複数の人々から所感を受け取った。その中にはいくつか、批判的な感想が含まれていた。ここではそれらからいくつか取り上げて返答する。本稿の読者にも同じような不満を持つ人がいた場合に有益と考えるからだ。内容の性質上、Ⅴ章までに比べて文体が戦闘的にならざるを得なかったところも若干あるが、ご了承いただきたい。

【第五章 多文化主義から見た自由主義の問題点】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立

Ⅴ 多文化主義から見た自由主義の問題点

自由主義にも問題がある

自由主義は、Ⅰ章で述べたように私たちが身を置く近代社会の前提となる重要な思想である。そう考えると、その枠組みを否定しかねない多文化主義は、一種の危険思想にすら見えてくる。しかし、そう断定するだけではいささか単純すぎる。多文化主義が誕生し、滅んでいないのにはそれなりの理由がある。自由主義にも問題があるのだ。

個人による差別

自由主義は、致命的な限界を抱えている。それは、法的な差別、国家による差別をなくすことはできても、権力の干渉を受けない「自由な個人」が行う差別を解決できないことだ。Ⅰ章におけるディズニーやレストランの例を思い出していただきたい。自由主義は、国家権力の干渉から個人を守る思想である。個人が商売をする相手に誰を選ぶか、自分が経営する学校や企業に誰を受け入れるかは、国家権力が決める問題ではない。人々がそういった問題で意思を決める背景には、人種差別があるかもしれないのは想像に難くない。ところが、それに対しては、自由主義は為す術がない。なぜなら、個人がどういう考えを抱いて生きるかは、国家権力が踏み入れるべき領域ではないのだ。私たちには良心の自由がある。個人がどのような思想・世界観を持とうと国家権力とは関係ないのだ。自由主義社会に思想警察は存在しない。もちろん、ある行動が法律を侵害した場合には罰則を受ける。しかし、たとえば筆者が誰かを殺そうと頭の中だけで考え、具体的な行動には一切出なかったとしたら、それは犯罪ではない。

しかし、そもそもなぜ多文化主義が登場したのか? 大きな理由の一つが、差別の解消だった。アメリカは、黒人たちに対して奴隷制を敷き、それが終わったあとも彼らを法的に隔離してきた。その歴史を垣間見るに、法的な保護が平等になった途端「平等な社会」が現れ、アメリカが抱えていたすべての差別が解消したと考えるのはどんなロマンティストにとっても難しい。しかし、自由主義においては、「平等な社会」は権利が平等な社会でしかあり得ない。世の中に厳然として存在する差別に対し、権利の平等以上の指針を指し示すことはできないのだ。実際、アメリカの保守たちは、差別問題になると概して口が重い。彼らがアメリカ社会の差別について問われた際、返す答えの典型がこれである:「たしかに人種間の関係はまだ完璧とは言えないかも知れない。しかし、もう差別は終わった。過去のことばかりにこだわるのは止めよう!」。これはどう贔屓目に見ても詭弁だが、ある意味仕方ない。なぜなら、保守主義が拠って立つ自由主義の枠組みでは、たしかに差別は「終わった」のだ。

政治学者のトーマス・パワーズは、「自由主義の変遷、1964年から2001年(”The Transformation of Liberalism, 1964 to 2001”)」という論文で、アメリカの政治的論争を、反差別と自由主義との対立という視点から解読した(*107)。ここではこの論文を読み解くことで、多文化主義を含む政府による差別撤廃措置が明らかにした自由主義の限界を浮き彫りにしたい。パワーズによると、アメリカ政府による反差別政策は、自由主義的枠組みの弱点の暴露であった。アメリカの自由主義は、個人による差別を政府の関心事から外すことで、白人による黒人への人種差別を放置した。

*107 Powers

一般的に、1964年の公民権法は、自由主義思想の結実だとされることが多い。果たしてそうだろうか? パワーズによると違う。この法律は、Ⅱ章で述べたように、民間による差別を禁止する効果を持っている。それが、多文化主義の実践が公共部門だけでなく民間部門でも大いに発達することを可能にした。パワーズによると、公民権法は、自由主義の論理的帰結ではなく、むしろ限界の暴露だった。公民権法以前にアメリカを支配していたのは、公的空間における差別の禁止という自由主義の哲学だった。ところが、これでは私空間での差別をなくすことはできなかった。さらに、特に南部においては公的空間での平等すら達成することができなかった。これは、「自由主義の限界を越えた政策のみがアメリカにおける人種差別の問題を解決し得る(*108)」ことを明らかにした。自由主義の理論では、政府は、人々がどう生きるべきか、どういう考えを持つべきかには関知しない。しかしそれでは不十分なのだ。差別をなくすために、民間における人々の内面に踏み込んだ政策が必要になったのだ。そして、私的空間での差別をなくすための重要な手段が多文化教育である。多文化教育は、差別のない社会の構成員を作るために必要な道徳を教える。

*108 同上

【第四章 自由主義から見た多文化主義の問題点】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立

Ⅳ 自由主義から見た多文化主義の問題点

自由主義 vs. 多文化主義

Ⅲ章で、筆者はアメリカ政治思想の保守とリベラルを三つの視点から定義した。意図は二つあった。一つは、既に述べたとおり、この二者がそれぞれ自由主義と多文化主義とつながっていることを示すことだ。それ以外にもう一つあった。それは、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルの不十分さを補うことだ。アメリカの保守が常にⅠ章で述べたような個人の自由と平等のみを最優先するとは限らない。国益、愛国心、キリスト教といった、個人を「我々」にまとめ上げる力が、時に個人の自由よりも上に来ることがある。その例が、宗教右派による中絶医院への攻撃だった。逆に、大きな政府を志向し、個人の経済的な自由を制限しがちなリベラルが、特定の社会問題に関しては保守たちよりも個人の自由を認めることがある。「自由主義 vs. 多文化主義」というモデルは、アメリカの保守主義とリベラリズムをそっくりそのまま反映するわけではない。「保守主義 vs. リベラリズム」=「自由主義 vs. 多文化主義」ではないのだ。もちろん、「=」は不可能にしても、なるべく「≒」に近づけるのが理想だが、単純化の犠牲は避けられない。その犠牲をⅢ章で救出したかった。

Ⅰ章で論じたように、モデルとは複雑な対象から特定の部分だけを取り出し、残りを捨て去った理念型である。「自由主義 vs. 多文化主義」モデルで筆者は、保守主義の中の自由主義的な側面を取り出し、それと対比する形でリベラリズムを描いた結果、実際には自由主義の個人主義的な原則を保守が占有しているわけではないという事実を捨象した。つまり現実のある側面だけを切り取ったのだ。この二項対立モデルでは、多文化主義を支持する人々がみな、自由主義を完全に否定するかのような印象を与えるかもしれない。だが、前述のようにアメリカは国家全体が自由主義的な背景を持っている。実際、保守もリベラルも自由主義であることに変わりはないと解釈する学者もいるようだ。だが筆者のモデルは、自由主義をあたかも保守だけが占有する属性であるかのように扱っている。このように、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルは粗探しをしようとすれば欠点を指摘するのは難しくない。

しかし、「自由主義 vs. 多文化主義」は、多文化主義をめぐって保守主義とリベラリズムが抱える最も重要な対立点の一つの描写である。それを本章と続くⅤ章で示す。実際のアメリカ政治思想との関係を探るために、Ⅳ章は保守たちによる多文化主義批判の議論、Ⅴ章はリベラルたちによる多文化主義支持の議論と、それぞれつなげる。まず本章では、自由主義の視点に立って多文化主義を攻撃する。

【第三章 アメリカ政治思想の右左】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立

Ⅲ アメリカ政治思想の右左

保守対リベラル

アメリカ国民を説明する、使い古された表現に、「50-50 nation」がある。これは、彼らが様々な問題に関して、常に二つの相反する立場に分かれて議論をするという意味である。50というのは50%のことだ。もちろん、この単純な説明がいつでも現実のアメリカに当てはまるわけではない。しかし、このモデルは、アメリカの政治的な論争を見る上ではある程度有効である。

何と何の対立なのか? それは、保守主義(右翼)とリベラリズム(左翼)である。アメリカを50-50状態にさせる問題には様々なものがある。妊娠中絶を許すべきか禁止すべきか。税金を増やすべきか減らすべきか。そういった問題をめぐる対立には、ある程度、二項対立の構図が当てはまる。二大政党のうち共和党が保守、民主党がリベラルの立場を代表する。妊娠中絶に関しては、保守たちは反対し、リベラルたちは賛成する。税金に関しては、保守たちが減税、リベラルたちが増税を望む。もちろん、個々の保守たちやリベラルたちがすべてこの対立に当てはまるとは限らない。しかし、大きな構図としては、アメリカの社会問題をめぐる議論は、「保守対リベラル」で説明できることが多い。それは、本稿の主題である多文化主義においてもそれは例外ではない。そして、その対立をよく見てみると、保守主義がⅠ章で扱った自由主義、リベラリズムがⅡ章で扱った多文化主義と深いつながりを持っているのだ。本章では、アメリカの保守主義とリベラリズムを考察することで、そのつながりを確認する。

【第二章 多文化主義の解剖】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立

Ⅱ 多文化主義の解剖

「多様の統一」ではなく「多様」

われわれの国土には、あらゆる種類の地質と気候があり、われわれ国民もあらゆる種類の民族、人種から成り立っている。しかも、この国土は一つの国であり、人びとはみなアメリカ人である。モットーというのは、とかく願いごとや夢を盛りこむ。ところが、アメリカの「多様の統一」(E Pluribus Unum)というモットーは事実である。不思議な、信じられないようなことだが真実だ(*24)。
*24 スタインベック、19

上の引用は、『怒りの葡萄』などで知られるアメリカの作家、ジョン・スタインベックによるエッセイ、『アメリカとアメリカ人』の、第1章の、最初のパラグラフである。「多様の統一」とは、独立以来アメリカが掲げてきたモットーであり(*25)、現在もラテン語の「E Pluribus Unum」は、現在使われているすべての硬貨に刻まれている(*26)。英語にすると「Out of many, one(多くからなる一つ)」である。このモットーは元々、13の州からなる一つの国家(*27)という意味だったが、後に、流入してくる色々な人種的、民族的背景を持つ移民たちを統合し、同化させ、一つのアメリカ人を作るという意味合いを持つようになった(*28)。私たちに馴染み深い言葉で言えば、これは「メルティング・ポット(いわゆる『人種のるつぼ』)」の発想である。

*25 より正確には、1776年にベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムズ、トマス・ジェファソンがアメリカの印章に採用し、6年後に国の公式なモットーになった。The Columbia Encyclopedia, Sixth Edition, 15742
*26 スタインベック、220
*27 アメリカは、独立する以前は、13の独立した州だった。独立の背景については次の章で説明する。
*28 “E pluribus unum,” Wikipedia, the free encyclopedia. http://en.wikipedia.org/wiki/E_Pluribus_Unum

スタインベックの本が出版されたのは1966年だが、40年近くたった今では、その考え方への批判が激しい。多文化主義は、その表れである。同化は、アメリカ人たちが持つさまざまな人種的、民族的な多様性を無視し、彼らを一つの支配的な「アメリカ人」のモデルに押し込む作業であるから反対しなくてはいけない。目指すべきは、すべての集団が一つの型に融合する「メルティング・ポット」ではなく、それぞれの集団が個性を失わずに共存する「サラダ・ボウル」あるいは「シチュー」である(*29)。「多様の統一」は統一に焦点を置いた目標だが、多文化主義者たちはそれよりも多様性を重視する。差異は、統一するより祝福しなければならないのだ。

*29 Mitchellほか、143, 209, 272

また、人種や民族、また他の社会集団は、白人男性中心の社会において、政治的・経済的な面で、周辺に押しやられている。この状況も改善しなくてはならない。多文化主義を支えるのは、そういった哲学である。この章の使命は、多文化主義を定義し、その理論と実際の運用のされ方を探ることである。

【第一章 自由主義の解剖】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立

I 自由主義の解剖

「リベラル」の意味

よく評論家や学者について話すときに、あの人はリベラル派だとか、保守派だとかいう言い方をする。そのときの「リベラル」は、日本語にすると「自由」である。リベラル派が信じる思想である「リベラリズム」が、説明するまでもなく「自由主義」である。しかし、筆者がこの章で説明しようとする「自由主義」は、多くの人が「リベラル」という語から想起するその思想と同じではない。

どういうことだろうか? まず、頭の中に「リベラルな」評論家あるいは学者を思い浮かべていただきたい。仮に大学教授としよう。その人は、どういう意見を持つ人だろうか? 一つ、問いを出してみたい。

問い:「社会には毎日遊んで暮らしていけるお金持ちもいれば、明日のご飯を食べられるように必死で暮らしている貧乏人もいる。この現実をどう見るか。また、どうすべきか」。もしリベラルな教授がこの題目でエッセイを書くならば、その回答はどうなるか。論旨を要約せよ。

答え:「そのような不平等は許しがたい。社会は平等であるべきだ。毎日遊んでいても暮らしていける人は、必要以上にお金を持っている。この状況は、ぜひ解消しなくてはいけない。そのために、政府が福祉政策を通じて、富を正しく分配し、平等化に努めるべきである」。

ここまで率直な文章を書く教授が実際にいるかは別として、多くの人は頭の中に、上のような内容の回答を思い浮かべたのではないか。あまり評論家や学者たちの論争に馴染みがない人でも、上の回答を見せられ、「これがリベラルな意見だ」と言われると、まあそうだろうなと納得できる人が多いはずである。なぜなら、この回答が、現在の多くの「リベラル」な人たちの考えのエッセンスだからである。現在、リベラリズムと言ったら、多くの人たちは上のような思想を頭に浮かべる。

では、上の考え方はどうリベラル(自由)なのか? 誰が、どのようにして自由になっているのか? 答えに詰まる人が多いはずだ。なぜなら、それらの質問には答えようがないのだ。上に示された発想は、本来の「自由主義」からすると、まったく自由な考え方でもないし、誰も自由になっていない。むしろ、本来の「自由主義」とは正反対の思想ですらある。

この章の題材は、本来の自由主義である。「本来の」というのは、「過去の」という意味ではない。この自由主義は、近代社会を形成する根本的な思想として、今日の世界にも息づいている。しかし混乱を招くことに、現在「リベラル」とみなされる思想との名称上の区別なしに使われることが多い。また「本来の」意味で使われることもある。

名前を区別す場合は、よく元来の自由主義を「古典的自由主義(classical liberalism)」と呼ぶ。しかし、本稿ではそのまま「自由主義」と呼び、現代のいわゆる「リベラルな」考え方をカタカナで「リベラリズム」と呼ぶ。この二者の峻別が、本稿を理解するうえで肝要である。

この章の目的は、自由や平等といった重要概念の分析を通して、自由主義がどのような思想なのかを探ることである。ただし、章の最後や「最後に」でもことわるように、本章で解説するのは自由主義の一つのあり方であって、同じ名前に分類される思想全体の見取り図の作成は意図していない。

【構成~はじめに】自由主義 vs. 多文化主義:アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立

2004年秋学期優秀卒業制作(SFC AWARD)受賞
自由主義 vs. 多文化主義
アメリカの多文化主義を巡る保守とリベラルの対立
白井健一郎
総合政策学部4年、70104541

構成

はじめに 3
Ⅰ 自由主義の解剖 5
‐「リベラル」の意味
‐二つの原則
‐モデル
‐権力からの自由
‐権利の平等、法の前の平等
‐ディズニーに検閲はできるか?
‐黒人を拒否するレストラン
‐政府の役割
‐リベラル・デモクラシー
‐功利主義

Ⅱ 多文化主義の解剖 15
‐「多様の統一」ではなく「多様」
‐多文化主義を定義する:三つの視点
‐文化とは属性のこと
‐「多様性」は集団間の結果の平等
‐「差異」と「多様性」は同じ
‐「オリジナル」の原理の不在
‐アファーマティブ・アクション
‐「人種差別解消」から「多様性」へ
‐学校教育
‐多様性トレーニング
‐ポリティカル・コレクトネス

Ⅲ アメリカ政治思想の右左 25
‐保守対リベラル
‐独立宣言の意味
‐保守主義と小さな政府
‐キリスト教
‐国家主権
‐リベラリズムと大きな政府
‐世俗性
‐越境
‐リバータリアニズム

Ⅳ 自由主義から見た多文化主義の問題点 35
‐自由主義 vs. 多文化主義
‐自由と平等
‐個人という単位はどこへ
‐AAと修正第14条
‐最高裁が合憲といえば合憲になるわけではない

Ⅴ 多文化主義から見た自由主義の問題点 40
‐自由主義にも限界がある
‐個人による差別
‐理論と現実
‐理想
‐自由主義とキリスト教

最後に 45
‐批判に答える
‐批判1:実際の社会現象や政治思想は複雑。筆者はそれを単純に整理しようと焦っている
‐批判2:自由主義の定義が狭すぎる
‐その他
‐過程としての自由主義

感謝

参考文献


はじめに

 1980年代頃から勢いを持ち始めた多文化主義は、アメリカ社会を動かす大きな原動力である。しかし、誰もがそれを支持しているわけではない。多文化主義をめぐる論争は熾烈である。アメリカの過去と現在をどう捉えるのか、これからアメリカがどう進むべきなのか、といった問いと直結しているからだ。支持者と反対者がともに譲れない哲学を持っており、一歩も引かない。多文化主義者にしても反多文化主義者にしても、発する言論は多くが党派的であり、論争全体を発展させないのはもちろん、下手をすると仲間内の自己満足で終わっている。最初から自分が正しくて敵が間違っていることが決まっているのである。多文化主義者の言葉は多文化主義者だけに向けられていて、反多文化主義者の言葉は反多文化主義者のみが聞いているかのごときである。

 このような状況において、多文化主義とそれをめぐる思想的対立を真に理解するためには、一歩引いた位置から全体を観察する必要がある。この作業を叩き台にしなければ、全体の理解はもちろん、賛成と反対を越えた解決策を見出すことはできない。しかし、そのような試みは、意外に少ない。たとえばチャールズ・テイラーはこの分野で古典とされる有名な論文、「承認の政治を考察する(“Examining the Politics of Recognition”)」で「差異の政治」と「尊厳の政治」の対立というモデルを示した。筆者の視点はこれと重なる。だが彼の論文の目的は、多文化主義をめぐる議論の整理というよりは、高度な論理的積み上げによる多文化主義の擁護だった。テイラーの議論自体は並の言論人には及びもつかない質の高さを持つ反面、具体的なアメリカの政治思想対立や、多文化主義が実際にとっている形への言及が不足している。それ以外にも多文化主義をめぐる思想的対立モデルの描写は存在するが、アメリカの保守主義とリベラリズムの対立と直接結びつけその関係を探ろうとする人々は少ないように見受けられる。

 また、一般的にいって、政治思想の専門家たちは、政治思想を用いて実際の社会を説明するモデルを作り、一般社会に問うという作業を怠っている。政治思想という学問分野のあり方には二つの潮流があると筆者は考えている。一つは、過去の偉大な古典文献を解釈して図鑑のように比較、分類する作業。もう一つは、特定の思想に立脚した「政治的な」意見を発露する作業。もちろん、それらの作業の重要性については改めて強調するまでもない。しかし、政治思想がどういう意味を持ち、世の中を理解するのにどう役立つのかを発信する作業も重要である。それがなくては、政治思想は、一般社会はもちろん、少しでも違う学問に携わる人々からも、役に立たないものとしてそっぽを向かれてしまう。言うまでもなく、世界に最も強い影響力を持つ国家であるアメリカを理解することは、専門家以外の人々にとっても重要な課題のはずである。そのためには、政治思想を現実社会の現象に当てはめなくてはならない。

 本稿の目的は、多文化主義をめぐる現代アメリカの政治思想の対立モデルを提示することである。どういう対立モデルなのか? それは「自由主義 vs. 多文化主義」である。この説明は一見逆説的である。なぜなら、一般的に、アメリカではリベラルたちが多文化主義を支持し、保守たちが反対するからだ。自由主義はリベラリズムの訳語で、それを信じる人たちがリベラル(自由主義者)なのだから、「保守主義 vs. 多文化主義」と言わないとおかしいのではないか? おかしくないのだ。なぜなら、Ⅰ章で説明するように、現代「リベラル」とみなされる思想と本来の自由主義は同じではない。Ⅲ章で明らかになるように、アメリカではリベラルたちよりも保守たちの方が自由主義と強いつながりを持っている。多文化主義に反対する保守たちの後ろ盾は自由主義なのだ。

 この論文の目標は、多文化主義の支持あるいは反対を表明することではない。片方が正しく、もう片方が間違っているという結論への予定調和も、こうすれば対立を乗り越えられるという解決策も、用意していない。本稿は、個々の読者が現実を理解したり自分の立場を決めたりするための材料、あるいは議論を発展させるための土台を提供する試みである。

 Ⅰ章では、自由主義の特質を浮き彫りにする。主にジョン・ロックの思想を紐解くことで、「自由」が国家権力の干渉からの個人の自由、「平等」が個人を単位とする権利の平等を意味することを明らかにする。自由主義は、社会を国家権力と個人に分け、前者から後者を守る思想なのだ。それが持つ意味を、現代社会の例に当てはめて考察する。

 Ⅱ章では、多文化主義を定義し、その理論と実態を探る。世の中に出回っている曖昧な定義を批判的に修正し、多文化主義を「ある国家内における社会集団を単位にした結果の平等を、主に政府の介入を通して上から目指すことを支持する考え方」と定義する。その定義の有効性を、アファーマティブ・アクション、多文化教育、多様性トレーニングなどを考察することで確認する。

 Ⅲ章ではアメリカ政治思想の保守主義とリベラリズムの対立像を描く。前者とⅠ章の自由主義、後者とⅡ章の多文化主義とのつながりを明示し、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルの下敷きとする。ヨーロッパでは、権威を擁護するのが保守主義だったが、権威を打ち倒すことで成立したアメリカ合衆国ではその逆の自由主義が伝統となり、保守主義の源流となった。対するリベラリズムは社会主義的な再配分を肯定する思想である。またこの章では、「自由主義 vs. 多文化主義」モデルから欠け落ちた視点も補う。

 Ⅳ章では、まず「自由主義 vs. 多文化主義」モデルを説明した上で、自由主義の視点に立ち、多文化主義を批判する。多文化主義は、自由主義の芯を為す諸理念と真っ向から対立する。国家権力の介入によって社会を改良しようという動きは政府の暴走で、個人の自由を脅かす。人種や民族を単位に社会を分類する発想は個人主義に反するし、集団ごとに権利が異なるのは権利の平等を蹂躙している。

 Ⅴ章では、Ⅳ章の逆を行う。つまり、多文化主義の立場から自由主義の問題点をえぐり出す。自由主義には限界がある。その最たるものは、私的領域での差別を解決できないことである。その盲点を突いたのが多文化主義だ。また社会は自由主義が前提とするように個人のみで構成されているわけではない。社会集団を標的にした差別が現に存在するのだ。その上、そもそも自由主義が普遍的な正しさを持っているかどうかも怪しい。

2010年5月12日水曜日

構想走り書き(2004年9月2日執筆)

大学生時代の卒論構想。当時の個人的メモ。

俺は来学期、卒業論文を書く予定だ。何を書くかは、ちょっと前から考えていて、メモ帳を作って、時間があったときに何回かに分けて、ブレイン・ストーミング的に、思いつくままに構想(内容の案)を書いていた。自分に語りかけながら考えていった。別にこれで思考が完結したわけでもないのだが、ちょっと修正して、丸ごと載せる。こうやって、別にまとまった文章を書こうと意気込まないで書いた方が筆が進む。

●論文の目的は?

多文化主義がリベラル・デモクラシーの原理といかに相容れないかを検証すること。仮タイトル:「リベラル・デモクラシーの敵としての多文化主義 Multiculturalism as an Enemy of Liberal Democracy」。

俺は2003年春学期に「アメリカの保守主義から見たアファーマティブ・アクションの問題点」というペーパーを書いた。その究極の目的は、自由主義(そしてアメリカの保守主義)から見た多文化主義の問題点を、アファーマティブ・アクションという事例を通して分析することだった。

しかし、どうもアファーマティブ・アクションという事例を超えて多文化主義そのものまで問題をえぐることができなかった。それが今考えると少し心残り。だから、今回はある意味で、そのペーパーの拡張版を書きたい。なしえなかったことを補完して、自分の大学生活の思考の集大成としたい。

●まず、多文化主義とは?

これが普通の定義だ。「一つの社会あるいは国家の中における複数の文化の共存を目指す思想」。

しかし、これでは本質が分からない。なぜなら、「誰が」その「共存を目指す」のかが分からないからだ。この定義では、人々が勝手に自分の頭の中だけで文化相対主義を信じているだけで「多文化主義」になる。

だが、多文化主義は単に個人の内面の問題ではない。文化相対主義は、多文化主義の前提にはなるだろうが、多文化主義そのものではない。

そこで、俺はこの定義を提示したい。「政府の介入を通して社会における集団的な結果の平等を目指すことを支持する考え方」。つまり、複数の文化の共存を目指すのは、政府なのだ。社会を文化によって分けて、それらの平等を政策によって実現しようとするのが多文化主義だ。その際の分類は主に人種、民族だ。(ここでのとてつもなく重要なキーワードが多様性(diversity)だ。最近読んだ"Diversity: The Invention of a Concept"は力作だった。その本の著者もdiversityが主に対象にするのはraceだと言っていた。

平等とは、さっきちらっと言ったように、結果の平等。(平等には、権利、機会、結果の三段階がある、デイヴィッド・ボウツ曰く。)

*多文化主義の定義や内容については、いくつか文献(特に支持者が書いたもの)を見ておく必要がある。

●リベラル・デモクラシーとは?

まず、多くの日本人は「民主主義」という言葉を使うが、民主主義という思想はないんだ。この訳語は有害で、誤解を招く。

我々が「民主主義」と呼ぶものは、自由主義とデモクラシーに分けることができる。前者が思想で、後者は政治制度。前者を土台に後者が存在するのが近代デモクラシー。リベラル・デモクラシーと言われる。自由民主主義と訳されている。これらをしっかり区別するのが大事なんだ。

自由主義とは、国家権力の干渉から、個人の自由、財産、生命を守ること。根底にあるのが、人はみな平等で奪えない権利を持つのだから(生まれつき。自然権)、人が人を支配することはできない。だから政府は認めても最小限。その役割は人々の権利を守ること。そして外敵から守ること。極端な場合は無政府主義。積極的な政治参加にはどう考えてもつながらない。「政治からの自由」。

経済がすべて。バーナード・クリックが言っていたように、「自由主義者にとってのマスター・サイエンスは経済学」。「政治が悪いから経済がよくない」んじゃない。「政府が個人の競争に干渉するから経済がよくない」、「政治がある(ありすぎる)から経済がよくない」んだ。小室直樹も『田中角栄の呪い』で儒教倫理と相反するものとして説明していた。夜警国家。

自由主義の反対が権威主義だ。大きな政府→社会主義、共産主義。

*自然権という概念について、改めて学ぶ必要がある。ロックはちょっとしか言っていないから。レオ・シュトラウスがよさげな本を書いていた。

人間社会の差別と平等について思うこと(3) (2004年6月22日執筆)

●平等の意味

現在の自分が考える、平等な社会の定義は、「大多数の人間が納得するやり方で差別が存在している社会」だ。これはどういうことかというと、いかなる平等も、必ず何らかの差別に基づかなければ成立しない、ということだ。つまり、差別は平等のための必要条件である。

たしかにそうだ。平等と一口に言っても、「機会の平等」「結果の平等」のように、「~~の」という形でしか存在しえないのだから。その「~~」の部分を差別の材料にしなければ、平等という概念は実体を持てない。

差別の材料に何を使うかで、その中身はまったく異なる。機会の平等と結果の平等の違いは、資本主義と社会主義の違いだ。根本にどのような哲学、価値観を持ち、それを差別の材料にするかで、平等の意味は変わる。

だから、平等とは、差別がない状態ではない。平等とは、皆が納得する基準で差別をすることである。皆が認める基準なので、差別に見えないだけだ。その基準が何かは、時代や社会によって変わるだろう。たしかに、こう考えることもできる。つまり、個人を尊重するのが普遍的な価値で、それは時代や社会を問わない。徐々にその普遍的な価値の実現に向けて進んでいる現状が、差別がなくなっているということだ。しかし、それも個人主義というフィルターを通した見方でしかない。個人主義が正しいという前提なしでは成り立たない。

今は、その個人主義が世界的に(?)優勢になっている。過剰な個人主義が批判されることはあっても、少なくとも欧米や日本では、個人を尊重し、権利の平等を推進する考えそれ自体が、大きな反発を受けることはない。社会の大多数が、個人主義という基準を通した差別を肯定する。それが、平等と呼ばれるのだ。

●自分の限界/可能性を知るということ

だから、平等な社会なら誰でも同じようにチャンスがあるわけではない。生まれつきの能力とそれを上げる力が異なるのだから。

もし、すべての人々が、まったく同じ能力を持ちうるのなら、社会は成り立たない。たとえば、子供達にアンケートをとって、回答者全員がサッカー選手になりたいと答えたとする。

それで全員サッカー選手として同じレベルに到達することが可能だったらどうするよ。サッカー選手なんて、ゴマンとある社会の機能の中の一つにすぎないのに、そこに多くの人が集中しうる状況が発生したら、他の機能を果たす人が足りなくなる。

もちろん、全員というのはありえないが、実際のアンケートでも、特定の職業に人気が集中するのはご存知の通りだ。ところが、その集計結果は、実際に彼らが就く職業を正しく反映しない。

何が起きたんだろうか。単に、彼らが希望や趣向を変えただけだろうか。それもあるだろうが、それだけではない。成長するにしたがって、何かに気付かされるのだ。単なる、「やればできる」という次元の台詞では説明できない、何かに。人をして諦めさせる、何かに。自分について考えて、思い当たるフシがない人はほとんどいないんじゃないかな?

時として、諦める、自分の能力の限界を知る、自分が何かに向いていないことに気付く、ということが、厳しいことだが、人生では大事なんだと思う。これは裏を返すと、自分の可能性に気付く、自分が何に向いているかを知ることでもある。それが生きていて一番難しいことの一つかもしれない。

要するに、人には色んな能力、色んな適性がある。人には向き不向きがあり、出来ることもあれば、出来ないこともある。

それが、色々な仕事を生む。仕事とは、社会における人の役割だ。つまり、多くの仕事とは多くの役割のことだ。数多くの役割が存在することが、社会におけるさまざまな欲求と需要が満たされることにつながる。そうやって、社会は回ってるんだと思う。職業によって社会的評価や待遇が違うし、それが差別、社会の階層化を生むものだが、人間が集まって社会を作る以上、それらは避けられないことなのだろう。

人間社会の差別と平等について思うこと(2) (2004年6月22日執筆)

●空気の入っていない風船

能力差別を肯定する論拠があるなら、それはこれにつきるだろう。つまり、性別や人種は生まれつき決まっていて、個人の意思で変える性質のものではない。それに対して、能力は生後の努力で向上させることができる。だから、能力差別は許される。

これは、ある程度説得的である。何の世界でもいい、世界レベルで活躍している人を思い浮かべてみると、ほぼ例外なく、努力によって能力を磨いてきた人たちだ。たとえば、もし中田英寿が、生まれてからサッカーをせずに生きてきたら、今のようなサッカー選手になれなかったのは明瞭だ。だから、能力は、生まれつき決まっている人種や性別と完全に同じではない。

しかし、どこまでが「生まれつき決まっていない」のだろうか。これは難しい問いだ。いや、もちろん、生まれてこの方サッカーをやったことない奴が、20歳になって突然プロ契約を結んで代表に入って、なんて馬鹿げた話はありえない。人の能力は、生まれてから何をするかで、明らかに違ってくる。

しかし、だからと言って、生まれた時点で皆スタートラインが一緒で、そこからの条件(環境も含めて)がすべてを決めるとは思わない。

俺はこう考えている:人はそれぞれ、能力の限界や方向が決まっていて、生まれてからの努力で決められるのは、そこに何をどれくらい入れるかに過ぎないのではないか。努力する力も、人によって違うのではないか。

つまり、たとえるならば、人は生まれた時点では、空気の入っていない風船なのだ。それも、空気を注入した結果、どういう形になるかは人によって違う。大きさも異なる。そして、空気を入れる能力も、人によって違う。そして、先ほどのスタートラインという比喩を使うなら、そもそも人は、同じレースに参加するためのラインに立っているすら疑わしいのだ。

●身体と精神

人は、身体と精神に分けることができる。身体に関しては、人によって、身長にせよ、容姿にせよ、動体視力にせよ、生まれた時点で条件が異なっていて、それが何らかの格差を生み出していることは、あまりに自明だ。だから、たとえば容姿で悩んでいる女性に「あなたも努力次第で彼女と同じくらい美しくなれる」と言ったり、運動神経が鈍くて足の遅い小学生に対して、「お前がみんなに負けているのは努力が足りなかったからだ。これからの練習次第でいくらでも速くなる」と言ったりするのには、さすがにどんな偽善者でも多少はためらいを覚えるだろう。

精神も、身体と同じくらい不平等なのではないか。精神が体と違うのは、「お前だってがんばれば」式のレトリックが通用しやすいことだ。なぜだろうか。それは、精神が体と違って見えないからだ。ある女性が「美人」か「ブス」か、男性が「カッコイイ」か「キモい」(?)かは、誰でも(もちろん人によって判断尺度は異なるが)見るだけで判断できる(個人レベルで考えると、あなたはすべての異性に対してまったく同じように接しているだろうか?)。容姿は主観が入るし化粧とかの技術も入ってくるけど、身長となると完全に数字の問題だ。

しかし、頭がいいか悪いかは、見ただけでは分からない。人は知識を生まれつき持っているわけではない。たとえば、いくら頭が悪くて知識の少ない人でも、生まれたばかりの天才よりは知識が多いだろう! それが話を難しくする。はっきりとは分からない。だが、身体が不平等で、精神だけがなぜか平等、なんてありうるのだろうか。ありえないだろう。どれだけ賢くなれるかは、生まれつき決まっていると思う。知性を発揮できる方向も、人によって違うと思う。

忘れて欲しくないが、俺がここで話しているのは、単に能力の高さだけについてだけじゃない。志向、方向の問題でもある。つまり、運動が得意な奴もいれば、頭を使うのが得意な奴もいる。運動の中でも、たとえばサッカーという競技に限っても、GKで開花する人もいれば、FWで大成する人もいる。頭を使うと一言で言っても、数字を扱うのが得意な人もいれば、哲学的概念をこねくりまわすのに適性を見つける人もいる。複数の適性を高い次元で持つ人もいる。

そういう視点から見れば、むしろ、すべての人が生まれた時点で白紙で、それからどうするかで結果が決まると考える方がおかしい。もしそうなら、時代とか適応する社会によって、人間というもの自体の性質が大きく変わってしまうだろう。

「あなたもやればできる」というのは、裏返して言えば、やっていないからできていない、つまり「お前は努力が足りないから他の人より劣った結果を得ているんだ」ということだ。でも、人によってできること、得意なことは違うんだから、一律に「できる」なんて言うのは、ものすごく残酷でありうる。むやみに、考えずに使うべき言葉ではない、と思う。

人間社会の差別と平等について思うこと(1) (2004年6月22日執筆)

●そもそも差別とは何か

「差別」と聞くと、誰でも悪いイメージを受けると思う。差別はよくないと言われて、または、差別をなくすべきだと言われて、真っ向から反論する人はいないだろう。反論したら、その人は相当な変人として扱われて、のけ者にされるだろう。差別がよくないという主張には、反論の余地がないように見える。

しかし、誰も反対できないような考えこそ、一度疑ってみる価値がある。思わぬ盲点が見つかるかもしれないからだ。

誤解しないで欲しい。別に俺は、差別はいいことだとか、差別に賛成だとか、そういう次元の話をしているんじゃない。考えているのは、もっと根本的なことだ。つまり、そもそも差別がいい・悪いの問題なのか?ということだ。

一見、悪いに決まってるように思える。差別と聞いて人々が思い起こすものと言えば、人種差別、性差別、宗教差別、学歴差別・・・。眉間にシワを寄せたくなるような言葉たちだ。それがいい・悪いの問題じゃないって? じゃあ何なんだ?

落ち着いて欲しい。俺がここで言ってる「差別」は、そういう特定の差別のことではない。人間社会における、差別一般のことだ。つまり、すべての形の差別だ。

それを説明するには、差別という言葉を広く包括する定義が必要だ。そこで、ここでは「人間社会における差別」をこう定義する。「ある人が、ある基準を元に人を評価し、序列を作り、それをもとに選別(選択/排除)を行い、それにしたがって異なった扱いを与えること」。

たとえば、人種差別なら、人種を基準にして人を見て、たとえば白人が上で黒人がそれより下だったら、白人であることを黒人であることより高く評価し、白人を優遇することだ。性差別なら、性別というフィルターを通して人を見て、たとえば男性が女性より上とみなして、男性を女性より有利に扱うことだ。つまり、差別とは、ある角度から人を切り取り、それを基準にして評価し、扱うことだ。

●「差別がない社会」はありえない

この定義にしたがって差別を見ると、差別をいいとか悪いとか言って、それで終わらせるのは、表面的であまり意味がないことが分かる。なぜなら、人間であるということは、差別をするということだからだ。差別をしなければ、人間ではない。人間社会そのものが、差別によって成り立っている。最近、これは、最近、俺が到達した確信だ。

逆を考えてみるといい。差別をしないとはどういうことか。それは、あなたが人を評価する基準を何も持たず、何の序列も作らず、扱いを変えないことだ。言い換えると、差別をしないとは、価値観を持たないことである。価値観を持たないことは、考えないことである。なぜなら、いかなる考えも、何らかの哲学(価値判断の最終的なよりどころ)がないと成立しないからだ。考えないということは、人間ではなくなるということである。

たしかに、女性への差別、黒人への差別といった、特定の差別は、時代とか社会によって度合いや内容が異なるし、減らすこともできるだろう。しかし、差別一般は、絶対になくすことはできない。もしかしたら、減らすことすらできないのかもしれない。

差別のない社会とは何だろうか。多くの人が考えるには、それは、人が、人種、性別、信条、肌の色、出身国といった要素に関係なく、平等に評価されることだろう。では、「平等」に評価する、とはどういう意味だろうか。それは、人を見る際に、個人の能力だけを判断材料にする、ということだ。就職活動をしているときにも何回か聞いたよ。たとえば外資系メーカーの説明会で人事担当者が「うちは性別・人種などに関係なく活躍できる場所です」なんて言ってたな。

しかし、仮にそんな会社があったとして、そこでは差別がないのだろうか? ここでいう差別の意味は前に定義してあることをお忘れなく。「差別のない」会社は、社員を能力にしたがって序列付け、それを元に異なった額の給料を与えるだろう。つまり、差別をなくしたい人々が目指す「差別のない」社会とは、冷酷な「能力差別社会」に他ならない。それが、差別をなくしたい(と思っている)人たちの理想の、論理的帰結である。

つまり、差別はなくなっていない。人種や性別による差別にかわって、能力による差別が登場したのである。社会に何らかの競争があるなら、何らかの序列をつけなくてはいけない。そのためには差別が必要なのだ。

ここで問題なのは、人種や性別をもとにした差別と、能力をもとにした差別がどれほど違うのか、という点である。これが決定的に重要である。つまり、能力差別を正当化できるだけの相違が、この両者にはあるのだろうか。

残念ながら、今の自分ではそれにはっきりとした答えを出すことはできない。でも、今の仮説的な考えを、思い込みや勘違いが入っていることを承知で、言い切ってしまうことにする。どうせ、この問題を論じるのに必要な科学的知識なんて持ち合わせてないんだから。

2010年5月9日日曜日

就職活動:今と昔(2004年2月15日執筆)

俺は、就職について考えるにあたって、たまに父の助言をもらっている。何せ、父は、社会に出て数十年間、金を稼いで、家庭を支えているのだ。俺を含めた家族の生活を成り立たせているのだ。その人に相談しない手はないわけで。

父から話を聞いて分かったことで、驚いたことがある。それは、今と昔で、就職活動というものの中身がかなり変化しているということだ。今、俺は大学3年の秋学期が終わったところで、かなり活動で忙しくなりつつある。(就職の)試験対策も含めて。3月、4月になると多くの企業が試験を行う。もう行っているところももちろんある。だが、父の時代には、大学4年の時の10月1日だかなんだかに「就職市場」が一斉解禁されて、それ以外の時期に企業を受けることはなかったし、企業同士でもそれ以外の時期に行動しないという取り決めがなされていたらしい。

で、それ以前に何をやるかっていうと、(4年生の)7月くらいに、ゼミなんかのつながりで、自分の行きたい企業で働いている先輩を見つけて、その人を訪ねる。そして、そこで根回しをして、実質、そこで就職が決まったような感じだったらしい。で、10月1日か何か(全会社が同時に始めるから、基本的に本命の企業しか行かないとか)に、実際に行きたい企業を受けて、その日のうちだったっけな?あるいは数日中だったけな?それくらいの時間でさらっと内定が決まったと父は言っていた。

「自己分析とか、企業分析とか、そういう手順は?」。聞いてみると、父は即答した。「そんなのはなかった」。父の時代と比較すると、今は、就職活動がもうかなり体系化されている。何月ごろに自己分析を行い、企業分析をこうやって行い、とかそういうあれだ。本屋に行って、就職部門の本の題名をざっと見るとよく分かる。さまざまな本が、見事に、対策別に分類されている。これは、あらかじめ、就活というのはこういう順序でやる、という前提があるからだ。

就職活動と読書(2004年2月6日執筆)

就職活動を始めている。色々とエントリーして。今日だけで8社くらいにウェブで登録。俺は、自分の分析によると、模範的な就職活動家と比べて、活動の進み具合や意識が最低2ヶ月分は遅れている。辛口な批評家は3ヶ月と言うかも知れない。まあ、遅れているとか、遅れてないとか、そんなことはどうでもいい。時間は戻らないんだから。それに致命的な遅れじゃないよ。うん。あと、人それぞれでしょ? そもそも。

就職活動をするにあたって困ることの一つが、それが読書に制約をかけることだ。まず当然のこととして、忙しくなる。したがって自由な時間が減る。読書とは自由な時間にするものである。よって読書に割け得る時間が減る。あと、自由な時間での読書でも「就活」の二文字が頭に浮かんできて集中できなくなる気がする。今も少しその兆候がある。

あと、就活関連の本を読まなければならないため、自分が本来読みたい本を読みにくくなる。就職の対策本を読むのは、結構、空しい。今日、本屋に行って見て来たんだけどね。大体、今日買ってきたやつのタイトルからして『超速マスター!就職活動こまったときのなるほど!ブック』だよ。自室の本棚にある未読の(つまり読みたいと思って買った)本のタイトルをパッと見ると『プラトンの哲学』、『社会科学の方法』、『ヨーロッパ思想入門』などなどなどなど。今、読んでるのが"The End of History and the Last Man"。まだ読んでないけどそれと並行して読もうとしているのが『経済学殺人事件』。

で、改めて、今日買ってきた本を見る。色とりどりの表紙にこうある。「ホンネ&裏ワザはこの3人に聞け!」・・・つまり、俺が普段読みたい本と、今読まなければならない本にはこれだけの落差があるんだ。今の状況で俺は、よく言えば実用的、悪く言えば、何だろう、即物的っていうのかな、低俗って言うのかな、そういう本を読まざるを得ないわけだ。嘆かわしいね、まったく。それに、この一冊じゃ足りるわけないし。あと何冊か買うはめになるんだろうなあ。

大学で学ぶことと、企業でやること(2) (2004年5月22日執筆)

●学んだことは無駄だったのか?

大学の授業で教師がしゃべることは、ほとんどの場合、直接、会社では使えない。企業は、ほぼすべての学生(ここでは文系に話を限る)が、大学を卒業したらそれ以降、身を置き続ける場所だ。では、大学が社会に出るための準備機関で、仮に社会≒会社(両者がほぼ一致する)とすると、企業で使えない知識を得ることには意味がないのではないか? 

今の俺は、その主張を完全に論破することはできない。明らかに、一定の真実性があるからだ。

俺は、大学に入った当初は、語学、言語学に興味があって、途中から転向して主に政治学、特に政治思想に関心を移した。語学を除けば、学んだところで、企業の入社試験でまったく有利にはならないし、得た知識は、会社に入ってからも使えない。

では、俺はそれらのことに興味を持ってきたことを、勉強してきた(と言えるほどのあれでもないが・・・)ことを、本を読んできたことを、後悔しているのか? 最初から、会社での仕事に直結したことを学んでいればよかった、とため息をついているのか?

少しはそうかもね、正直なところ。でも、それは、もうちょっとビジネス的なことも学んでいればよかったかも、と思うからで、決して、自分で興味を持って学んできたこと、考えてきたこと、それ自体が無駄だと思うからではない。要はバランスの問題だ。

大学および大学生活での「学び」を、講義を聴いたり、本を読んだりして(読書が主)自分の頭で考えること、と定義すると、学んだ(でいる)ことは、無駄などころかむしろ大いに有意義だと思っている。なぜなら、俺にとって何かを学ぶということは、単に具体的な対象についての知識を得ることではなくて、より深い意味を持っているからだ。

●社会を見る「メガネ」

自分にとって、その深い意味とは何か。主に社会に関する学問に興味を持つ自分にとって、それは、社会を見るための「メガネ」を獲得することだ。

大学で学ぶことと、企業でやること(1) (2004年5月22日執筆)

●金にならない学問

社会に出て役立たなければ、勉強する意味がない、という人がいる。「役立つ」の定義は人によって異なりうるが、最初の言葉の意味は、要するに、「仕事につながらなければ、お金にならなければ、学ぶことに意味がない」ということだ。この立場の支持者は、大学の授業に対して、論文に対して、本に対して、学問好きな人間に対して、学問に対して、常にこう問いかける。「で、それがどう会社で役に立つわけ? いくらになるんだ?」。

まさにプラグマティック(実用主義的)な意見。即物的と批判するのは簡単だし、実際、その批判は当たっていると思う。後に、その視点から、自分の考えも書くつもりだ。でも、批判して済むもんでもない。金にならない学問への懐疑主義者たちの問いかけには、一縷(いちる)の真実があるからだ。ちょっと前には考えられないことだったが、最近では、俺は、部分的に、その問いかけに同調する。それを支えているのが、就活をして以来味わっている、大学での多くの授業への失望、脱力感である。

今回は、その失望と脱力感を前面に出して、大学で学問を学ぶことへの懐疑を書く。ただ、この文章に書いてあることは、俺の考えの一部に過ぎないことを断っておく。

●当たり前のことが改めて分かった

俺は、2月くらいに就職活動を始めてから、初めて、世の中にどういう職業があるか、社会がどういう仕事で成り立っているか、自分がやるとしたらどういう職種があるか、といったことについて、真剣に悩んだ。それなりに、答えは見えてきた。

悩んだ結果、分かった。企業にある仕事は、俺が大学で(あるいは大学生活で)学んできたことと、ほとんど一切何の関係もない。もちろん、大学で学ぶことをそのまま仕事にできるだなんて、別にそんなロマンティックな考えに浸っていたわけじゃない。でも、それを理屈上で何となく理解するのと、実際に自分のこととして、実感をともなって理解することは違う。

2010年2月5~15日インド旅行記 (8)

ホテルに戻るや否や(as soon as構文)、風呂場のバケツにお湯をためて、足を浸ける。何せ、数時間に渡って氷でキンキンに冷やされていたのだ。

高校生の頃観たエヴァンゲリオンのアニメで碇ゲンドウが腕まくりをしてうちわをあおぎながら、暑さを紛らすためにバケツの冷水に足を浸す場面があったと記憶するが、今やっているのはその逆である。

足を温めた後、しばしベッドで横に。いやあ、疲れた。ただでさえ普段そんなに運動をしない頭脳派の俺なのに、今日に関してはほとんど経験がない登山、しかも足場が雪と来たもんだ。この悪条件で普通のナイキのスニーカーで挑んだのは無謀だったかもしれぬ。悪天候のため本来の目的地まで行けなかったのは心残りと言えば心残り。でも、何はどうあれ、今やれることをやり切ったことに満足。

相も変わらずお腹の調子はまったくよくないのだが、何かしらの形で肉を摂取したい。これは意地である。身体は求めていないが、頭が求めている。手軽に肉がどこでも食える日本は恵まれている、としみじみ思う。

足取りは自然とホテルを出て、チベット寺院方面へ。寺院近くに、肉料理を出してそうなパンジャブ料理屋(パンジャブとはインド北部の地域名)を発見し、目を付けていたのだ。

レコーディング・ダイエットの泰斗である岡田斗司夫氏は『いつまでもデブと思うなよ』で、頭の欲望に身を任せず身体の声を聞き食事内容を決めることを指南されていた。その原則からすると俺の行動は非難の対象となって然るべきである。

それはともかく、店。収容人数は10人くらいかな。言っちゃ悪いが小汚い。まともな日本人なら、外から垣間見る限りお世辞にも衛生的には見えない厨房を見て逃げ出したくなるかもしれない(実際には中はきれいなのかもしれないが・・・)。


(店)

本当はガッツリ肉にありつきたいところだが、あまりにお腹の調子がすぐれなくて空腹感ゼロなので、料理はチキン・モモの一品だけを注文。それとホット・レモン・ジンジャー・ハニー(温かい飲み物)も。

私の不安をかき消すかのように現れたのが、奥で作っていた料理人。ネパール人。片言の日本語を操る。少し日本で働いていたことがあるらしい。親子丼と緑茶が好き。

2010年5月3日月曜日

2010年2月5~15日インド旅行記 (7)

「地球の歩き方」を見てると、Ladie's Venture Hotelというのが評判がいい。何やら部屋が清潔で、ホット・シャワーで旅の疲れも吹き飛んでしまうらしい。しかも一泊220ルピーと来たもんだ。

マクロード・ガンジは町全体が坂になっていて、中心部から5分くらい降りたところにLadie's Ventureがある。

支配人はインド人にしてはおとなしそうな雰囲気。部屋を見せてもらう。

シャワーとトイレはあるが、隣の部屋と共用らしい。自分が入っているときは、隣の部屋に通じている扉に鍵をかけることで独占使用権を確保する仕組みだ。

部屋はまあたしかにそこそこきれいだ。値段聞いたら200ルピーとのこと。外は雨だし、インドなのに同じ時期の東京近郊より寒いし、今から別のホテルをあたるのも手間なので、おとなしくここに決める。

毛布が一枚しかベッドにないので、主人に頼んでもう一枚もらう。


(部屋の鏡。チベットの拠点らしく町中にフリー・チベットの文字が)

午後10時頃、Tシャツ+トレーナー+ユニクロのフリース+毛布を上下に一枚ずつ+布団という、ファイナル・ファンタジーVでいうところの「にとうりゅう」のくらいのフル装備で就寝。(4/11日目、終了)

五日目

しかし、あまりの冷たさに何度も目が覚める。そのまま目をつむっても耐えきれない極寒ぶりに、たまらずスウェット・パーカを重ねるがそれでもきつい。

外はしょっちゅうピカピカ雷が落ちている。洒落にならないくらい本気で天気が悪い。窓の外を見ると、雪が積もっている。ふんわりした雪ではない。固いひょうみたいな物体がバシバシ地面を叩いている。

2010年5月2日日曜日

2010年2月5~15日インド旅行記 (6)

入場する前に、水がたまっているところを通って足を清めるようになっている。

足を洗い、階段を下りると、お目当ての建造物が姿を現す。実のところ、建物の上の方は外からも見えていたのだが、四方を壁に囲まれていて、一段低い場所にあるので全容は中に入らないと見えない。

昼間も金色は金色なんだけど、夜は照明に照らされて正真正銘の金ピカ。荘厳で本当に美しい。見とれてしまう。

スピーカーからずっと、お経みたいな音楽が鳴っている。来てる人はみんな土下座して寺院に向かって拝んでいる。


(独特の雰囲気は言葉では表現しづらい)

周りを一周して一通りの角度から写真を撮りまくる。いい被写体に巡り会ったときは、なるべくたくさん写真を撮っておくのが肝要だ。なぜなら、その場ではうまく撮れたと思っても後から見るとぶれてたり斜めってたりして後からがっくりすることがあるからだ。夜ならなおさらぶれやすいので念を入れる必要がある。






(以上が最もよく撮れた三枚。案の定ぶれてる写真もあった)

あ、ちなみにここに入るには頭に布を巻かないといけない。入り口に黄色い布がたくさん置いてあって、自由に使わせてもらえる。

2010年5月1日土曜日

2010年2月5~15日インド旅行記 (5)

2:45にホテル前に行くと、さっきのリクシャ運転手が待っている。国境(アターリー/ワガ国境)とホテルの往復で500ルピーとのこと。

雨が降り出す。運転手が席に雨よけをかけてくれる。インドに来て雨が降ったのは初めてだ。

でも5~10分ほど乗ったところだろうか、降ろされて、こっちに乗れと乗用車に案内される。車の運転手は、リクシャ運転手によると、そいつの父親らしい。

するとリクシャ運転手が、50ルピーのチップを要求。おい、最初往復で500ルピーと言っただろと抗議するが、ここまで連れてきたんだからいいだろと向こうは譲らない。仕方ないので払う。

父親に「お前の息子はグッド・ビジネス・マンだな」と言うと父親は頷く。

ちなみに後から見たのだが、「歩き方」に載っていたアムリトサル発の国境までの運賃相場は、ジープ・ツアー(ただし1台8人)で75~85ルピー、リクシャで250~300ルピー。

車の移動はさすがにリクシャなんかよりは快適で安心感がある。運転手は何度か「ほらあそこに・・・があるよ」的にガイド的な発言をしてくれる。しかし英語がほとんど通じず、まともに会話を交わすことはできない。


(インドに雨は似合わない。そういえば傘さしてる人ほとんど見ない)

国境付近に到着。国境そのものまでは車で入れない。セキュリティ・チェックがあって、カバンも持ち込み禁止。

セキュリティ・ゲートの開場を待つ人で鮨詰めになっている。満員電車のようだがインド人は他人と身体が接触することへのストレス耐性がとても強いらしく、苛立っている人はいない。なぜか前の人の背中に手を付けている人がちらほらいるが、やられている方は気にしている様子もない。

2010年4月29日木曜日

2010年2月5~15日インド旅行記 (4)

シゲタ・トラベルに着くと、夜10時台だが普通にラジェンダさんがいるのでほっとする。

俺「朝申し込んだチケットを受け取りに来た」
ラジェンダさん「まあ座れや」

机の引き出しから私向けの切符を探し当てたラジェンダさんによると、電車の発車時刻は明朝7:20。ああ、早い便だったか。朝9時から10時までコンノート・プレイスで待つと約束してくれたインド人ご家族に申し訳ないが、彼らに会わないままアムリトサルに向かうことになる。

でも本音では、彼らに会わなくていい理由ができて少し安心している。昨晩あれだけお世話になっておきながら何を言い出すんだ? と思うよね。でも、どんなどんでん返しが待っているか分からないじゃないか。最初すごく優しくしてくれて、後から手のひらを返して金を請求してくるとか、危ない目に遭わせてくるという体験談は「地球の歩き方」を読んでたっぷり刷り込まれているもので・・・。

無事電車のチケットを受け取り、ホテルに戻る(シゲタ・トラベルのあるホテルから歩いて数分のところ)。

ラジェンダさんに聞いたところ、6時半くらいにホテルを出るのがいいだろうとのこと。ホテル番に「6時にウェイク・アップ・コール(目覚まし電話)してくれよ」というと、快く了承してくれた。

(2/11日目、終了。)

三日目(2月7日)

自分でかけておいた目覚ましで5時半に起きる。

身支度をあらかた済ませると6時になったが、当然のごとくウェイク・アップ・コールはかかってこない。一応確認したが、電話のプラグはちゃんとコンセントに入っている。予想していたことだ。別に怒る気にもならない。まあそうだよなって感じ。インド人の"OK"とか"No problem"を額面通りに受け取って損しても悪いのは自分だぜ。インドに限らないけどね。

2010年4月24日土曜日

2010年2月5~15日インド旅行記 (3)

そういや(2)で書き忘れたけど、詐欺師に案内してもらった紅茶・スパイス屋の親父から学んだプチ情報。アッサム茶は牛乳を入れてOKだが、ダージリン茶に牛乳は合わないらしい。

さっき恐喝されたときのYouTube動画タイトルを何にしようか思索をめぐらせながらホテルに戻る。そうだ、「インド人に恐喝される日本人」にしよう。


(右奥のMini Yes Pleaseってのが泊まったホテル)

腹痛用の薬を飲み、純白とは言えないシーツにシミが付いたベッドに横たわる。先ほど録画したリクシャでの恐喝を動画で振り返る。自分のことながら、切り返しの図太さに何度も笑ってしまう。この動画が撮れただけで、このカメラと予備電池に費やした2万円弱は回収できたのではないか。そう思うくらい動画の出来には満足だ。

一時間休むと、ある程度気持ちも落ち着いてきた。

ホテルを出て、ピンクのポロシャツ男が勧めてくれたコンノート・プレイスに向かう。今まで起きたことをツイッターに投稿したいのだが、やはりネカフェの場所が分からないのでそこら辺のサイクル・リクシャ運転手に聞くと近くにあるというので連れていってもらうことにした。


(癒しを求めてコンノート・プレイスへ)

ドライバー「じゃ乗りな」
俺「いくらだ?」
ドライバー「むしろお前はいくら払いたい?(表情があからさまに俺を試してる)」
俺「どれくらい時間がかかるんだ?」
ドライバー「15分くらいだ」
俺「じゃ50ルピー」
ドライバー「分かった」

ドライバーは曲者っぽいが意外にあっさり価格交渉成立。

2010年4月20日火曜日

2010年2月5~15日インド旅行記 (2)

二日目(2月6日)

シゲタ・トラベルがたしか朝9時からだと昨日聞いた。8時とかそこらに起きて、いよいよ本格的にインド一人旅が幕を開けたという緊張感を味わいつつ一日の予定を考えていると、9時になった。覚悟を決める。モーニング娘。の道重さゆみさんが毎日家を出る前に「よし、今日も可愛いぞ!」とやるみたいに、鏡に向かって「よし、行くぞ!」と気合を入れてシゲタ・トラベルへ。


(ホテルすぐ前の通り)

ラジェンダさんは日本語が通じる。アムリトサルまでの電車切符の手配をお願いした。チケット代750ルピー+手数料200ルピーで、950ルピー。ちょいと手数料の割合が高くないかい、という思いは封殺。駅に行って自分で格闘するのもありだが、正直それは気が重い。切符ごときで何を弱気なと思うかもしれないけど、この国では普通のことを普通にやるのが大変なんだ。少なくとも、不慣れな外国人観光客にとっては。

アムリトサルから先(アムリトサル→ダラムシャーラー→デリー)の移動方法について、何か有益な情報を聞けるかと思ったが、それに関しては「自分で頑張ってね」「はい」ということで話が終わった。

インターネット・カフェの場所を聞いたら、「その辺にたくさんあるよ」というご回答。ですよねー。はい、甘えないで自分で探します(泣)。

「前も(インドに)来たことあります?」とラジェンダさん。実は2年半前にはじめてインドに来たときも彼にお世話になったのだが、何とおぼろげながら、俺のことを覚えているらしい。ちょっと嬉しい。

あとは、デリーの街を堪能するぞ。具体的には、

・「地球の歩き方」を見てると名刺が作れる店があるみたいだから、寄ってみたいな。
・映画館に行って映画を観たい。
・インド人から見てモーニング娘の誰が可愛いのか、聞き取り調査を進めないといけない。
・ネットカフェでツイッターに旅行記ツイートを投稿したい。
・タンドリー・チキン発祥の店、「モーティ・マハル」で飯を食いたい。

2010年4月17日土曜日

2010年2月5~15日インド旅行記 (1)

インド旅行は三度目なのだが、初めて行くような緊張感に襲われていた。

なぜなら、一人で行くのが初めてだったからだ。

今までの二回とも、会社の同僚(同一人物)と一緒だった。と言うと聞こえはいいが、すべて彼に任せっきりだったのだ。何日目にどこに行って何を見るかの計画段階から、それはもう、何から何まで。

実は、今回もそいつと一緒に行くつもりだった。しかし、仕事の都合で行けなくなったとかで、2週間ほど前に、いきなり俺は行けないなんて言い出したのだ。いきなりだぜ。

ワックMCを見つけたときのR.A.P(radioaktiveprojeqt)くらい「そりゃあないよ」な気分だったが、ここで旅行を取りやめるわけにはいかない。

「そりゃあないよ」ビデオクリップ。本旅行記のBGMにどうぞ)

旅行会社にキャンセル料を35000円くらい払わないといけない。その同僚は、私のキャンセル代金も肩代わりしてくれるほどの器の大きさは持ち合わせていないから、俺も行くのを止めるとなったら35000円をどぶに捨てることになる。

一人だと心配だから僕もやめる、なんて弱気なことを言っている場合ではないのだ。むしろ、貴重な経験をできるまたとないチャンスである。そう自分に言い聞かせる。

とはいえ、不安は拭いきれない。

今回はよりによって11日間という長期間である。日本の会社員とは思えない休暇の取り方だ。

気が重い。インドがどういう場所なのか知らない部署の同僚が、インドに行くというと「いいなあ」と羨んでくる。「仕事なんかよりずっときついですよ。インドがどういうところか知ってるんですか(キリッ」とカウンターアタックを仕掛けることは忘れない私。

今までの人生で、まともな一人旅など国内含めしたことがない。唯一あるとすれば、仕事でアメリカ出張に一人で行ったくらいだ。でも出張なんて向こうに着きさえすれば、あとはホテルとオフィスの往復。自分で何かを計画して実行するという過程はほとんど発生しない。

あれよこれよで時間が過ぎてしまい、荷物の準備はもちろん旅行計画すらまともに立てられない。

直前になって、何とか大まかな旅程を作ることができた。今回の飛行機は、デリーIN、デリーOUT。旅行の流れとしては、デリー→アムリトサル→ダラムシャーラー(マクロード・ガンジ)→デリー→脱出という感じにしたい。

何でそれらの町を選んだかは、旅行前日にツイッターに投稿したインド旅行の目標11箇条を見てもらえると、分かると思う。