2010年5月9日日曜日

大学で学ぶことと、企業でやること(1) (2004年5月22日執筆)

●金にならない学問

社会に出て役立たなければ、勉強する意味がない、という人がいる。「役立つ」の定義は人によって異なりうるが、最初の言葉の意味は、要するに、「仕事につながらなければ、お金にならなければ、学ぶことに意味がない」ということだ。この立場の支持者は、大学の授業に対して、論文に対して、本に対して、学問好きな人間に対して、学問に対して、常にこう問いかける。「で、それがどう会社で役に立つわけ? いくらになるんだ?」。

まさにプラグマティック(実用主義的)な意見。即物的と批判するのは簡単だし、実際、その批判は当たっていると思う。後に、その視点から、自分の考えも書くつもりだ。でも、批判して済むもんでもない。金にならない学問への懐疑主義者たちの問いかけには、一縷(いちる)の真実があるからだ。ちょっと前には考えられないことだったが、最近では、俺は、部分的に、その問いかけに同調する。それを支えているのが、就活をして以来味わっている、大学での多くの授業への失望、脱力感である。

今回は、その失望と脱力感を前面に出して、大学で学問を学ぶことへの懐疑を書く。ただ、この文章に書いてあることは、俺の考えの一部に過ぎないことを断っておく。

●当たり前のことが改めて分かった

俺は、2月くらいに就職活動を始めてから、初めて、世の中にどういう職業があるか、社会がどういう仕事で成り立っているか、自分がやるとしたらどういう職種があるか、といったことについて、真剣に悩んだ。それなりに、答えは見えてきた。

悩んだ結果、分かった。企業にある仕事は、俺が大学で(あるいは大学生活で)学んできたことと、ほとんど一切何の関係もない。もちろん、大学で学ぶことをそのまま仕事にできるだなんて、別にそんなロマンティックな考えに浸っていたわけじゃない。でも、それを理屈上で何となく理解するのと、実際に自分のこととして、実感をともなって理解することは違う。

もちろん、何にも役立たないわけじゃない。英語は役に立つだろう。あと、授業とか分野によっては、企業での仕事と関係ある。たとえば、メーカーの仕事なら法務とか、知的財産とか、マーケティングとか、授業で学べるし、経済学を学べば(経済学の種類にもよるだろうが)金融系の業界を志望する人には役立つだろう。さらに、内容に関わらず、何かを学んだという経験は、頭を使う習慣を付けたという点で、社会人になる上で、間接的に役立つだろう。

だが、一般的に言って、大学で学ぶことと、企業でやることは、どう見ても強いつながりはない。入社試験で、学問好きな奴が評価されるわけでもないし、企業に入ってからは学術的知識で評価されることなんてまずないだろうに、学問を学んで何の意味があるのだろうか。会社に入ってからやることと関係ないことを一生懸命やって、何になるんだろうか。どうせなら、最初から企業の仕事と直結したことを学んだ方がいいんじゃないだろうか。

新学期、就活をしながら、たまに授業に顔を出すと、空しくなった。こんなことのためにわざわざ集まって90分も話を聞かされて、何の意味があるんだろう。今まで、何のために授業を受けてきたんだろう、と思った。どうせなら、もっと早い段階から、大学で、企業でやる仕事と直接関連したことを学ぶことができれば、わざわざ、企業を受け始めるこんな時期になって、ここまで苦しむこともなかっただろうに・・・と思った。最近では、興味のある授業ならともかく、それほど興味のない授業には、ほとんど意欲は沸かない。以前だったら、そういう授業でも、せいぜい単位のためだと思って、平静に受けることができたが、最近ではそういう授業を受けているとむかむかすることがある。

その冷笑的な見方は、今でもある程度支持している。さすがに授業に出ないと単位が取れなくなるので、ある程度は出席するが(さぼることもある)、多くの場合、俺は「あっそ、だからどうしたんだよ」的態度で、自分が興味を持ってプリントアウトした論文を読んだり、政治雑誌を読んだりしている。もっとも、そうやって読んでいる内容も、来年春からの仕事と何の関係もないわけだが。

●学問にはまればはまるほど・・・

文系の学生の場合、普通、大学で真剣に勉強すればするほど、学問にはまればはまるほど、就職するという選択肢は薄暗くなる。就職がゴールに見えなくなる。なぜなら、学問を好きになればなるほど、本文であるはずの学業に打ち込めば打ち込むほど、それが企業で生かせない、生かせる仕事なんてないに等しい、という現実が鮮明になるからだ。

もちろん、研究者への道も、大学教師としての就職という道も、あるにはある。でも、その選択肢は、経済的に、あまり希望を持って選ぶことはできない。修士課程、博士課程で莫大な学費がかかる。しかも、学部卒で就職する奴と違って、自分で金を稼ぐということができない中で、その問題と向き合うわけだ。文系の学生は、院に進むと、企業から見た学生市場での価値が下がる。だから、院に進むには、それなりの金と覚悟が必要だ。

『新・大学教授になる方法』という本がある。ブック・オフで買って、まだ、ぱらぱらと、数分間拾い読みしただけなんだけど、文系で研究職を目指す人は、30代で無職が当たり前なんだと。自分がそうなったら・・・想像するだけで恐ろしい。

しかも、よく聞く話だと、やっと大学の非常勤講師の職にありつけたとしても、給料は相当低いと聞く。給料というより、バイト代に毛が生えたようなもんらしい。だから予備校でバイトする人もいるんだな。

最近、俺が先学期とっていたゼミの先生と4年生数人で食事をしたんだけど、俺が「文系で研究者を目指す人は(経済的に)悲惨ですよね」と言ったら、先生はうなずいた。

まあ、これは別に日本に限った話じゃないだろうな。アメリカじゃ大学の学費が日本の数倍高いというし、修士号を取って、博士号をとって、という風に、研究の道を選択できる人なんて、ほとんど金持ちに限られるのかもしれない。(もっとも、『アメリカの大学院で成功する方法』という本では、学内バイトや奨学金が充実しているとも読んだが。なお、その本によるとアメリカの方が大学教師の社会的地位が低く、給料も低いらしい。12か月分の給料がもらえないことも多いとか。)

よく、「日本では大学で学ぶ内容が就職先と関係ない。これはおかしい。文学部を出て銀行に入ることが不思議がられないなんて」みたいなことを書いている人がいるが、外国では、大学での勉強と、卒業してやる仕事との関係は、どうなっているんだろう。詳しく知りたい。今は面倒だからググりもしないが、そのうち調べてみよう。

●一体何になるんだ、その授業は?

今の俺は、大学の授業をやっている教師たちに、こう聞きたい。「で? だからどうしたんだよ? それを俺が学んだとして、どういう結果が出るんだ? 高い金を払って授業を受けてるわけだけど、その価値があることをあなたは示せるのか?」。ほとんどの場合、示せないだろうな。

「価値」って何だと思う? 俺は最近疑問に思って、机の本棚にあった3、4冊の英英辞典で"value"を引いてみた。そこで共通していたのが、価値とは「価格(price)」「重要性(importance)」「有用性(usefulness)」のことだ、という趣旨の記述だった。もし、学生である期間が社会に出るまでの準備期間で、社会が会社のことだとしたら(「会社≒社会」という見方について別の機会に書くつもり)、大学で学ぶことが、どうやってその三つにつながるのだろうか。

大学に行った方が、学歴が高い方が、年俸が高い会社に行きやすいかもしれない、というのは一つの答えかもな。でもそれは、大学で学ぶ「内容」とは何の関係もない。

そんなことを学ぶ大学が、社会に出るための準備期間と言えるのだろうか? 学問を真剣に学んだら、どうやって見返りが来るのだろうか? そもそも、大学で勉強することに意味があるのだろうか? 厳しい質問だと思う。

次の文章では、それらの質問に答えたいと思う。自分の中で支持していたい、学問を擁護する立場からの考えを書くつもりだ。でも、ここまで書いてきて、自分の文章に説得されそうなのが怖い。

2004年5月22日(土)