2010年11月7日日曜日

ジュンヤの服は、2年で飽きる。

私は2007年の春夏から2009年の春夏までの通算5シーズンに渡って、ジュンヤの服を買っていた。ジュンヤとは、正式にはジュンヤ・ワタナベ・コム・デ・ギャルソン・マンであり、コム・デ・ギャルソンの中の一つのブランドである。

ここでは詳述を避けるが、コム・デ・ギャルソンはいくつものブランドに分かれている。男性服にはコム・デ・ギャルソン・オム・プリュス(通称「プリュス」)、コム・デ・ギャルソン・オム(通称「オム」)、コム・デ・ギャルソン・オム・ドゥー(通称「オム・ドゥー」)、コム・デ・ギャルソン・シャツ、ジュンヤ・ワタナベ・コム・デ・ギャルソン・マン(通称「ジュンヤ」)というブランドがある。女性服は女性服で、色々と枝分かれしている。

要は、ジュンヤというのはコム・デ・ギャルソンの一種だっていうことだ。

なぜ私は、ジュンヤの服を買い続けていたかのか? それはおそらく、他ブランドとのコラボや、解体・再構築といった大胆な取り組みが生み出す最高にいかした服の数々、そしていつも新しいスタイルを提示してくれる革新性が好きだったからだ。

はっきり言って、ジュンヤの服は、とても高い。私の給料で身の丈に合っているかというと、間違いなく合っていないだろう。それでも戸惑いなく給料をつぎ込んでしまうくらい、大好きだった。

過去形で「好きだった」なんて言ってるけど、今でも好きは好きだ。でも、前のような情熱は持っていない。なぜか。それは、あることに気付いてしまったからだ。

ジュンヤの服(コレクションもの)は、2年で飽きるのだ。

あんなに夢中になっていたのに、醒めてしまう。

尚、これはたくさんのお金(100万では済まないだろう)をつぎ込んで、会社を休んでシーズン立ち上がりを見に行くほどはまった過去があっての結論であって、決して軽い気持ちで言っているわけではない。そして、ジュンヤというブランドやその顧客を批判しているわけではない。

たとえば、長年着るんだと自分に言い聞かせて買ったあの16万円のコート(グローバーオールとのコラボ)は、購入から2年後の先日、ヤフオクで売却した。

1年半前に買った15万円のブレザー(ブルックス・ブラザーズとのコラボ)も、そろそろオークション行きを検討しようかと思っている。

このように、自分の中の熱の冷め方を見ると、ジュンヤのコレクション・ラインの服(eyeは除く)の賞味期限として妥当な線が、2年だ。

2年といっても平日はスーツ。趣味のブランドを着るのは、基本、土日祝日だけ。だから着ている回数でいうと本当に限られる。

使い込んでいなのに、なぜ2年で飽きてしまうのか。まだ完全な答えは自分の中で分かっていない。今のところ思っているのが、第一に、デザインが強いため、合わせを限定する点。今シーズンのジャケットには、今シーズンのパンツ、今シーズンのシャツが一番合う。たまには別の合わせをしてみても、結局同シーズンの合わせには敵わない。これは、勝手に自分の中でコレクションのイメージを強く持ち過ぎているというのもあるかもしれない。

第二に、「新しさ」に感激して買っているので、時間がたてばその新しさは色あせていく点。2年前というと4シーズン前。4シーズンも前の服を着るということに対して、自分の中で勝手に恥ずかしさや、今更感を感じてしまうのだ。

飽きやすさを補ってきた、スタイルの変化

しかし、それは前から薄々分かっていたことだ。では、なぜ今になって飽きやすさを問題とするのか。

それは最近のジュンヤが、似た雰囲気のシーズンをずっと続けているからだ。過去には、スタイルの変化が飽きやすさを補ってきていたのである。しかし変化が乏しくなったから、飽きやすさが致命的な問題になってきたのだ。

自分が買い始める前の2シーズン、そして買わなくなってからの3シーズンのジュンヤのショーから垣間見るスタイルの例を、ごくごく単純化して部分的に切り取ってみる。私はファッションの基礎知識がまったくないので、記述の雑さはご容赦いただきたい。

2006年春夏:作業服の解体・再構築
2006年秋冬:ミリタリーの解体・再構築
2007年春夏:色とりどりの、ジャージ素材のスポーティなスーツにスニーカー
2007年秋冬:赤や黒のライダース・ジャケットや革パン、ブーツ
2008年春夏:シワ加工等、素材や丈で崩したスーツに、革靴。きれい目
2008年秋冬:ブレザーやダッフル・コート、生地を切り替えたスーツ
2009年春夏:リバーシブルのブレザーにデニム、革靴
2009年秋冬:リバーシブルのジャケット。ハンティングをイメージ
2010年春夏:テーラード・ジャケットにデニムもしくは丈の短いパンツ
2010年秋冬:全体的にフォーマル感のあるスーツ
2011年春夏:ダッフル的なジャケットやテーラード・ジャケットに白い綿パンツやデニム

2008年春夏までは、毎回同じブランドとは思えないほどの豹変ぶりだった。しかし2008年の秋冬以降、小さな変化はあれど、基本的にはきれい目・トラッド系の路線が続いている。7シーズン連続だ。同じブランドとのコラボの繰り返しも目立ち(ブルックス・ブラザーズ等)、以前のシーズンの復刻版(グローバーオールとコラボのダッフル・コートや、ブルックス・ブラザーズとコラボのシャツ等)も店に並ぶようになってきた。新しいシーズンのショー写真がネットに流れても、「そう来たか!」という驚きは一切なく、むしろ「あー、またこういう感じね」という感想が先立つ。3回目くらい(2009年春夏)のショー写真が公開されたときは、コルソコモ(青山にあるコム・デ・ギャルソン路面店)の店員さんですら「またこの路線で来るとは思わなかった」と言っていた。シーズンを重ねるごとに、店に足を運ぶ度、ジュンヤというブランド自体が保守化してきたことを強く感じるようになってきた。

コレクション・ブランドの大きな役割の一つは、新しさを提供することである。常に顧客の予想を上回り、いい意味で期待を裏切る。特にコム・デ・ギャルソンは「付いてこられるかな?」とばかりに顧客を挑発し振り回す先進性を持っているブランドだ。

新しさがなければ、高い値段を出して買う必要はない。なぜなら顧客の押入れには、過去のシーズンの服がずらっと並んでいる。店頭に並んでいるのが既に自分が持っているのと同じような服であれば、今持っている服が傷んだり体型が変わって着られなくなったりしないかぎり、買い足す必要はない。

そう、私たちが普通の服よりも格段に高いお金を出して、ジュンヤのようなコレクション・ブランドの服を継続的に買う理由は、他にはない新しさを私たちに与えてくれるからだ。新しさに溢れる服を手に入れて、身に付けることで、ファッションの先端にいるという体験を与えてくれるからだ。

少なくとも、私がジュンヤの服を買っていた理由はそれである。

さて、コム・デ・ギャルソンの服を買う「私たち」とは誰か? それは服好き、服オタクである。「新しさ」云々が必要なのは、買うのが服マニアだから。(尚、服オタクや服好きは、必ずしもお洒落な人と同義ではない。)

コレクション・ブランドでもシーズン毎の違いがとても少ないブランドもたくさんある。しかし、コム・デ・ギャルソンはそのあり方と一線を画さなければならない。それは、コム・デ・ギャルソンは服オタクのためのブランドだからだ。

そして実際、ジュンヤを含むコム・デ・ギャルソンは、私が知るかぎり、常にそのようなブランドであり続けてきた。もちろん、言葉にしづらいが一貫した「コム・デ・ギャルソンらしさ」「ジュンヤらしさ」はある。しかし、その表現方法は、シーズン毎に何かしらあっと言わせる新しさがあった。

世の先端にあるファッション・ブランドには大きく分けて、金持ちのためのブランドと、洋服愛好家のためのブランドがある。金持ちのためのブランドから服を買う顧客は、自分もそのブランドの服を買うことができる階層の一員だという、一種のステータス・シンボルを手に入れているのだ。それが目的であれば、それを手に入れるための障壁(値段)は高ければ高いほどいい。そして、服のデザインがどうかというのは、言ってみれば二次的な問題に過ぎない。むしろ、顧客を試すような革新的なデザインよりも、「こんな高いブランドを着てるんだぜ」という高級感を臭わすのが大事だ。

コム・デ・ギャルソンは、金持ちのためのブランドではなく、服好きのためのブランドなはずだ。お金のない学生が「いつかは自分も」と憧れ、オークションで格安の出品を狙って落札するブランド。決して高い給料をもらっていない会社員が、他の出費を切り詰めて付き合うブランド。もちろん、客の中にはお金持ちもいるだろうが、彼らとてステータス・シンボルの獲得は第一の目的ではないはずだ。

過去のジュンヤは、シーズン毎に比較的大きくスタイルを革新していたから、飽きやすくてもよかったのである。極端に言えば、シーズン毎にジュンヤというブランド自体を入れ替えることで、顧客の頭の中を初期化していたのだ。しかし、ここ数年は、スタイルに大幅な変化がない。あるシーズンのスタイルに飽きてしまえば、次のシーズンにもその「飽きた」スタイルの服が置いてあるのである。飽きやすいのに、新しくない。それが、私が最近のジュンヤの保守化がまずいと思う理由である。

賞味期限が2年と結論づけてしまった今、私はジュンヤというブランドと、非常に醒めた気持ちで向き合っている。残念ではあるが、一度夢中になった対象は、何であれ、別れるときがくるものだ。まだ別れたつもりはないが、その時期は近いのかもしれない。